四章 芝 大悟(しば だいご)7
念のためぐるりを一周して見たが、
雑木林をバックに立つ明りの消えた佐原家は、何か大きな動物の亡骸のように見えた。
意を決して佐原家の門を抜けた。母屋には近付かずに庭に回る。暗い。明りの一切点らない庭は想像以上に暗かった。
どうする、スマートフォンのライトを点けるか? 危険だ。もし家の中に佐原悟がいれば一発で侵入がバレる。かといって、このまま慣れない庭を歩けるとも思えない。転んで怪我でもすればそれこそ目も当てられない。
だめだ、悩んでる時間がもったいない。思い切ってライトを点けた。濃い液体のような暗闇を、スマートフォンのライトは革命的に眩しく切り裂いた。
明りの先に小屋が見える。忌まわしの小屋、全ての元凶の小屋。
ゆっくりと歩き出した。南京錠は壊されたままだ。今なら入れる。扉に取り付き、音が鳴らないよう極力慎重に力を込める。が、古い扉は気を失いそうなほど大きな軋みをあげて開いた。
逃げ込むように小屋に入る。
気持ち悪い。入った瞬間そう思った。初めてここに入った時と同じだ。一歩目から強い拒否感が発生する。
呪いの館だと思った。永見や百地に何かを言われるまでもなく、最初に足を踏み入れた時からそう思っていた。ただ、認めるのが怖かっただけだ。今まで誰にも言っていないし、これからも絶対に言うつもりはないけれど、俺はこの世で一番幽霊が怖い。だから決してその存在を認めるわけにはいかなかったんだ。
でも、今はもう四の五の言っていられない。この中に
ライトを点灯させたままスマートフォンのカメラを起動させ動画の録画を開始した。入口から順に隅から隅まであますところなく内部をカメラに収めていく。
どうだ、佐原悟。お前の聖域を隅から隅まで汚してやるぞ。傾いた柱も、板を張り合わせただけの粗末な壁も、奇妙な模様の描かれた大きな旗も、薄汚れた布が引かれた祭壇も、ヒビの入った徳利とお猪口も、額に入った白黒写真も……。
この写真、誰が写っているのだろう。黒目の大きさが特徴的な、眉の濃いえらの張った女性。とても美人とは言い難いけれど、視線を素通りさせない力がある。
くそう、気分が悪い。一秒ごとに酸素が薄くなっているかのようだ。一秒でも早くここから出たいけれど、まだ呪い返しのヒントの欠片すらも掴めていない。やっぱり、素人に呪い返しなんて無理なのか。
結局、やるしかないのか。ポケットの中に忍ばせた果物ナイフに触れてみる。買ってきたばかりのそれは、布の中で異様な熱を帯びているように思えた。
その時、スマートフォンのライトが何かを捉えた。ゴザの引かれた床に無造作に放り出された、この小屋に相応しくない明らかな異物。
「天文ブック?」
まだここに置きっぱなしになってたのか。有沢先生がずっと気にしていた部の備品。どうしよう、回収しておいた方がいいのかな。
「……え?」
何とはなしに天文ブックを開くと、画面が淡く光を発した。バッテリーが切れていないのか。
パスワードは付箋に書かれて画面の端に貼られている。打ち込んでリターンキーを押し込んだ。
矢印がぐるぐると回り、赤銅色の満月を張り付けたデスクトップ画像が開いた。
懐かしい。一年の冬に夜間観察で撮った写真だ。
今でもよく覚えている。この時は季節外れの台風とかち合って前日まで土砂降りの雨が続いたんだった。当日も朝からずっと曇りでほとんど全員が諦めていたけれど、莉子の御まじないのおかげで奇跡のように晴れたんだった。
甘い蜜のような懐かしさが胸の中に満ちた。同時に息苦しさが少しだけ和らいだ気がした。マウスを操作し、他の写真も呼び出していく。
ああ、これも同じ天王星食の時の写真だ。紙コップで莉子手作りの甘酒を飲みながらみんなが笑っている。こっちは日食だ。全員で日食観察眼鏡をかけてハリウッド映画のポスターの真似をして写っている。
「くそう……くそう……」
涙が溢れてきた。
涙を拭おうとした手に何かが当たった。固くて小さくて平べったい何か。天文ブックの側面に突き刺さるこれは――。
「USBメモリーか……」
莉子の私物だ。猫の手を模した形に見覚えがある。表面の装飾がほとんど剥げてしまった年代物。莉子が部室で天文ブックにこのメモリーを刺して作業をしているところを何度か見たことがある。これが刺しっぱなしで置かれているということは、もしかして莉子はこの小屋でも何かのパソコン作業をしていたのだろうか。
……何の作業を?
こんなコンセントもエアコンも照明も窓もない小屋で。莉子は何をやっていたんだ。
莉子はこの部屋で死んでいたと言っていた。それから天文ブックが動かされていないのなら、莉子は死ぬ間際に天文ブックを触っていた可能性がある。
命尽きる直前まで。
「莉子は……何を?」
まさか、お前も俺と同じだったのか。佐原悟の呪いを破る方法を探していたのか?
だとすれば、莉子が何かのメッセージを残してくれているかもしれない。天文ブックは天文部の大事な備品だ。自分の身に何かあれば部員や先生が必ず回収にくる。それを見越して莉子が何かを残してくれているのかも。
これは莉子なりのダイイングメッセージなのかもしれない。
見つけた。これがきっと呪いを破るヒントなんだ。焦る思いを抑えつつUSBメモリーを開いてみた。
「なんだ、これ……?」
予想に反してメモリーの中に画像や動画データは一つもなく、ずらりと文書ファイルが並んでいた。
「2021年7月6日……2021年7月9日……2021年7月12日……」
ファイルの名前は全て日付。もしかしてこれは、日記なのか? 少し後ろめたい思いを抱きつつ一番古い日付のファイルを開いてみた。
タイトルは2019年3月7日、二年前だ。
《また、お父さんが人を殺した》
それは衝撃的な一文から始まっていた。
《2019年 2月7日》
《また、お父さんが人を殺した》
《私に黙ってこっそりと殺した。なぜなの、お父さん? なんでそんなことができるの?》
《もう嫌だ。お父さんがわからない。優しかったお父さんはどこへ行ってしまったの?》
《あんなにお願いしたのに。私なんてもうどうでもいいの?》
《それがお前のためだとお父さんは言う。私はこんなに苦しいのに。こんなに悲しいのに。》
《もう、最後の手段しかないの? 涙が止まらないよ》
その日の日記はここで終わっていた。
胸の奥から塊のような息を吐き出した。
やっぱり、莉子は知っていたんだ。自分の父親が殺人を請け負っていたことを。二年前ということは、この時莉子はまだ中学生。そんな時から莉子は……。
「くそう……莉子……お前」
どれだけ辛かったことだろう。どれだけ苦しかったことだろう。こんな苦しみを抱えながら莉子はあんなに優しく笑っていたのか。あんなに周りに尽くしていたのか。
文面からは、莉子が必死に佐原悟を説得しようとしていたことがうかがえた。当たり前だ、莉子はそういうやつだ。『最後の手段』、それは呪い返しと考えていいのだろうか。
そこまで莉子は追い詰められていたのか。それでも佐原悟は止まることなく最終的には娘である莉子まで……。
「許せない……」
莉子の心情を思えば思うほど、湧き上がってくるのは佐原悟への怒りだった。
あいつは、だめだ。
あいつは、野に放っていてはいけない存在だ。
ポケットの中の果物ナイフを握りしめた。
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