四章 芝 大悟(しば だいご)3
「出すぞ!」
俺を助手席に押し込んだ百地さんは、シートベルトを締める暇も与えずアクセルを踏み込んだ。映画でしか聞いたことのないタイヤの軋みを響かせて、
「どこに行くんですか?」
「決めてない。とにかくここから離れる」
大通りをしばらく走り、インターチェンジから高速道路へ。始めからそこを目指していたというよりは、たまたま目に入ったからといったようなハンドルさばきだった。目的地を決めていないというのは本当のようだ。
百地さんはまたアクセルを踏み込んだかと思うと、最初のサービスエリアに進入して周囲からポツンと浮いた駐車スペースに車を止め、
「いきなり連れ出してすまん。怪しいもんやない、俺は
そこで初めてこちらを向いて自己紹介をした。
「はい、知ってます。ネットとかで」
「そうか。ほな話が早いな」
そう言うと、百地さんは許可を求めることもなく煙草に火をつけた。強烈なタールの匂いが車内に満ちる。煙草を吸ったことが一度もないからわからないけれど、あんなに速いペースで吸って吐いてを繰り返して味を感じることができるのだろか。
「あの……」
「どうした?」
「蛍のことなんですけど……」
何を確認したんですか、と最後までは聞けなかった。聞くのが怖かった。しかし、口振りから察したのだろう。百地さんは火を着けたばかりの煙草を灰皿に押し付けると、
「…………」
そのまま口を開いて固まった。
言うべきセリフは決まっているけれど、それを発することができないといったふうの沈黙だった。百地さんは言葉になりきれなかった吐息を何度か開けっ放しの唇からふうふうと吐き出すと、
「……死んどった」
やっとの思いでそう言った。
「一目でわかった。喉が、喉がぱんぱんに腫れて……目が見開いて……ちくしょう!」
百地さんが両手でハンドルを殴る。何度も何度も。まるでそこに佐原悟の心臓でもあるかのように。
「そんな、なんで……」
間に合わなかった。絶望が確かな重みをもってドスンと頭に落ちてきた。
「なんでか? なんでか……なんでか……俺やな。俺のせいや。俺の見通しが甘かった。佐原悟を舐めてた。蛍はあんなに言うてたのに。すまん、蛍。すまんすまんすまん」
眼鏡のレンズが割れそうなほど百地さんは眉間に皺を寄せて言う。
「じゃあ、やっぱり佐原悟は蛍の家に来たんですか?」
「聞いた感じやとそう思う」
聞いた?
「蛍から電話があったんや。着信履歴を見た瞬間に嫌な予感がしたわ。折り返したら……蛍、蛍のうめき声がして……後ろからもう一つ別の声がした」
「別の? 佐原悟の声ってことですか?」
「わからん。あれが何なんか全然わからん。正直、声なのかもわからん。全く別の物音かもしれん。とにかく……とにかく、えげつない音やった。聞いたらあかん音やと思った。聞いた瞬間物凄い鳥肌が立って、聞いてしまったって思った。あれは聞いたらあかん。存在したらあかん音や。すまん、何言うてるかわからんよな。でも、多分あれが
「尾島貴子……?」
オウム返しで問い返すと、百地さんは「蛍から聞いてないんか?」と聞いてから話し始めた。
佐原悟のこと、『
それらは二週間前に聞いていれば、全てオカルトライターの妄言として片付けられるような話だったけれど、三人が死んだ今となっては真実としてか思えなかった。真実でなければ今の状況が説明できない。
いや、違うか。一点。ただ一点だけ腑に落ちないことがある。
蛍は、なんで殺されたんだ?
莉子の殺しを依頼したのが佐原悟自身だとして、有沢先生の殺しを依頼したのが親族だったとして、蛍の殺しを依頼したのはいったい誰だ。
「くそう、くそう、くそう。すまん、蛍。蛍、蛍、蛍、くそう!」
隣での動揺ぶりを見るにつけ、百地さんが依頼したとは思えない。じゃあ、蛍のお母さんか? それもおかしい。
「落ち着いてください、百地さん。蛍くんはなんで殺されたんですか?」
「わからん。俺じゃない、
百地さんは頭皮が裂けるかと思うほど強く頭を掻き毟ると、またハンドルを何度も叩き獣のように咆哮したかと思うと、
「……状況を整理しよう」
血走った目でようやくそう言った。
「教えてくれ、まず最初に殺されたのは誰や」
「莉子です。それから莉子のお母さんが自殺して……」
「自殺? 佐原悟の嫁はんがか?」
「はい、そう聞きました。それから有沢先生が死んで、それから……えっと……」
「蛍やな」
また取り乱すかと思ったけれど、百地さんは落ち着いた口調で言葉の続きを引き取った。そして、そのままフロントガラスを睨み付け、
「嫁はんは、今回の事件から除外してもいいやろう」
冷静に判断を下す。
「莉子のお母さんですか? 除外してもいいっていうのはどういう……」
「佐原悟に殺されたんじゃないっちゅう意味や。死に方が違う。恐らく警察の見立て通りの自殺やろう。呪殺されたのは
百地さんはそこで一端言葉を切ると、
「やっぱり、どう考えても蛍があり得ん。佐原悟が『歌の樹』とは関係なく単独で動いているとしか思えん」
歯を磨り潰すような喋り方で言った。
「けど、それでも納得がいかん。そんなことをする理由がない」
「俺達が佐原悟の儀式の部屋を見ちゃったからじゃないですか? 証拠隠滅のために」
「あり得ん」
言下に百地は切り捨てた。
「日本の法律では呪いによる殺人罪は成立せん。そもそも隠滅する証拠がないんや。そんなことのために佐原悟は動かんやろ」
「で、でも、目撃者ではあるわけだし、念のために、とか」
「呪殺っちゅうのはな、『念のため』なんてレベルでホイホイできるもんやないねん。漫画みたいにノートに名前書いて、はいお終いってわけにはいかん。綿密に準備して慎重に進める必要があるんや。ほれ、有名な丑の刻参りって知ってるよな?」
「藁人形のやつっすか?」
「そうそれや。簡単な呪いの代表みたいに言われてるけど、あれかて白装束を着るとか、口に櫛をくわえるとか、呪う相手の髪の毛を藁人形に埋め込むとか、ややこしいルールがぎょうさんあるねん。『歌の樹』の呪いもそうや、詳しくはまだ調査中やけどいくつかの段階を経ていかなあかんはずや。失敗したら己に返ってくるっちゅうリスクも当然あるしな」
「返ってくるって、呪いがですか?」
「そう。呪い返しって聞いたことないか? 下手を打って呪いを破られたら死ぬのは自分自身や」
「呪い返し……」
百地さんが何気なく口にしたその言葉が、頭の中に大きな波紋を描いた。
この言葉、どこかで聞いたことがある。耳元に蛍の声が繰り返される。
『来なかったじゃん。まあいいや、それより聞いてくれ。佐原悟の呪い返しについて』
電話越しに聞いた蛍の最後の言葉。情報と事実が繋がり合うような感覚。直感が冴えわたる感覚。
「それってもしかして、撮影と何か関係あったりしませんか?」
「サツエー?」
言葉を漢字に変換できていなさそうなイントネーションで百地さんが繰り返した。
「さっきも言いましたけど、佐原悟は蛍の家に来る前に俺んちに来てるんです」
「佐原が君んちに? 聞いてへんぞ」
百地さんが顔色を変えた。もしかしてまだ言ってなかったか、まあいいや。
「来たんです。で、俺殺されかけて。でも、追っ払ったんです! スマホを向けて撮影してるぞって言ったら急にビビッて逃げていったんです。これ呪い返しと何か関係あるんじゃないですか」
「撮影と呪い返しが? そんなことは……いや、待てよ」
百地さんはズボンのポケットを探ると腰を浮かせてスマートフォンを引きずり出した。
『やめて、悟さん!』
そして、煙草臭い車内に女性の悲鳴が走る。
「何んすか、それ? え、佐原悟? もしかして、莉子んちの離れですか? 蛍のやつ撮影してたのか」
「いや、蛍も天文部の誰かからもらったって言うてた。君やないならもう一人の誰かが撮ったんやな」
ということは
「ここ見てくれ。佐原悟がめっちゃ斧を振り回してるやろ? 最初見た時はオカンを殴ってるんかと思って再生を止めてもうたけど、これよう見直したらちゃうねん。スマホを壊そうとしとる」
「ほんとだ、スマホを狙ってる。でも、なんで? いや、待てよ。そうだ、莉子のお母さんも離れで写真を撮ろうとしてました。みんなで記念写真撮ろうって、すげえ強引に!」
「やっぱり、撮影か」
「そうだ、もういっこ! 莉子のお母さん、佐原悟のことをめっちゃ怖がってました。電話かかって来ただけで震えてて、夫婦だけど味方同士って感じじゃなかったです。あ、あとその離れも鍵を壊して無理矢理入ったんです」
考えれば考えるほど不自然なことばかりだ。莉子のお母さん自身が不自然な言動ばかり繰り返していたのであまり気にも留めていなかったけれど、もしかして、その行動に全部意味があるとしたら?
「もしかすると、ほんまにこの小屋に入ったせいで狙われてるのかもしれへんな。少なくとも、この小屋には何かがある。この事件の鍵を握る何かが」
映像を繰り返し眺めていた百地さんが再生を停止して顔を上げた。
「何かって、なんですか?」
「わからん。けど、この小屋に『歌の樹』の呪いを破る秘密があるんやとしたら、佐原悟の一連の行動にも説明がつく。佐原悟は教団からの指示やなくて、自分の身を守るために動いとるんかもしれへん」
「呪い返しを阻止するために天文部のメンバーを殺してるってことですか?」
「仮説やけどな。これから調べる必要がある。よしっ」
両の太腿を掌で叩いて、百地さんはスマートフォンを弄り始めた。かと思うと、すぐにダッシュボードに放り出し車を発進させてサービスエリアを出る。
「どこに行くんですか?」
「この小屋を調べに行く」
「嘘でしょ、佐原悟の家に行く気ですか」
「蛍の弔い合戦や。佐原悟に目にもの見せたる。心配せんでも俺一人でやるよ。芝君は家の前で降ろしたるから安心し」
「安心できませんって、百地さんがヤバいでしょ! 佐原悟がいるところにわざわざ突っ込んでいくとか自殺行為じゃん」
失礼ながら小柄の百地さんが、大男の佐原悟に敵うとは思えない。
「さすがにそこまで無茶なことはせえへんよ。ちゃんと手は打ってるし」
そう言うと、百地さんはダッシュボードの上に放り出されたスマートフォンを顎で示した。
「さっきの動画を知り合いの警察に送ったら話を聞いてくれるって返事が来た。呪いでは逮捕できんでも紛れもない暴行の現場やからな。任意同行くらいはかけるはずや。連行された隙に例の小屋に侵入する」
「入ってどうするんですか?」
「わからん! でも、入る。探す。あいつを、佐原悟を陥れる何かを見つける。蛍の仇打ちじゃ!」
「じゃあ、俺も行きます」
「あかんあかんあかん」
「行きます」
「あかんあかんあかん」
「でも……」
「絶対にあかんあかんあかん」
反射的に手を挙げたけれど、三倍のノーを突きつけられて一蹴された。
「危険すぎる。君はもう家に帰れ。ほんでもうこの件には関わるな」
「待ってください。手伝わせてください。俺こう見えても小中とずっと野球やってたから割と力はある方だし。絶対役に立ちますよ」
「力か……悪いけどな、そんなもんなんの役にも立たんのよ」
側道に向けてハンドルを切りながら百地さんは言う。
「さっきも説明した通り、佐原悟は尾島貴子をターゲットの元に送り込むんや。これは、『歌の樹』のネタ元から聞いたばっかりの情報やけどな。尾島貴子はどうやってあの世から現世に出てくると思う?」
「え、さあ?」
「恐怖や。あの化けモンはな、人間の恐怖を道標にしてやってくるんや」
「恐怖……ですか?」
頷きながら百地さんはETCゲートをくぐった。
「最初はな、ちょっとした不安とか悪寒とか程度の小さいもんから始めるらしい。君も感じたことくらいはあるやろ。家で一人でいる時にカーテンの隙間が気になったり、風呂で頭を洗ってる時にちょっと背中が気になったり、そういうちっさい不安を足掛かりにしてあいつは近付いてくる。次は幻聴や幻覚や。聞こえるはずのない音、見えるはずのない物を見せて恐怖を煽る。そうやって、どんどん相手を怖がらせてどんどん道を広くする。恐怖が次の恐怖を呼ぶ。そして、最終的に歯の根も合わなくなったところをパクリや。な、おっかないやろ。悪いことは言わんから、もう君は関わるな」
「そ、そんなわけにいかないっすよ! 俺だっていつまた佐原悟に襲われるかわかんないんだし。それに……俺、悔しいです」
「悔しい?」
何を言っているのかわからない、そんな目で百地さんは俺を一瞥した。
そんなに不思議なことを言っただろうか。当たり前の感情じゃないか。俺は友達を、仲間を殺されたんだ。
「俺、悔しいです。蛍のこと。莉子のこと。先生のこと。許せないです、絶対に!」
「……君はええ子やな」
怒りを言葉にして吐き出すと、百地さんはそう漏らして鼻をすすった。
「ありがとう、蛍のために怒ってくれて。でも、やっぱり君は佐原悟の家には連れていけん」
「なんで!」
「二人して危険な目に合うのは非効率やからや。君にはな、後衛として控えておいて欲しい。もし俺が殺されたら、この情報を持って知り合いの警察に駆け込んで欲しいんや」
「後衛ですか」
「できるか?」
「……はい」
体のいい丸め込みかもしれない。でも、これ以上ゴネても百地さんを説得できる気がしないので不承不承に頷いた。
「危なくなったらカメラを向けてくださいね。あいつは撮影されるのを嫌がるから」
「おう、わかった。頭に入れとくわ」
百地さんは高速道路出口に向かってハンドルを切りながらそう答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます