四章 芝 大悟(しば だいご)2

「なんなんだよ、おい……」


 五分十分立ち尽くしていただろうか。ようやくまともに息をすることができた。

 なんだったんだ、今のは。

 夢でないことは庭に繋がる窓が開け放たれたままであることからもわかる。侵入する時も、ここから入って来たのだろう。玄関だけしっかり施錠して窓や裏口はノーマーク。あるあるといえばあるあるだ。

 恐る恐る庭に下りて辺りを見回してみる。当然だが佐原さはらさとるはどこにもいない。庭にも玄関にも前の道にも。俺が追っ払ったのか……。

 軽トラックが排気ガスを吐き出しながら呑気に家の前を通り過ぎて行く。

「っしゃあ!」

 ゲームで勝った時と同じ声が出た。

 拳を握るポーズも同じだったけれど、喜びは何倍も大きかった。

 勝ったんだ。俺が佐原悟に勝ったんだ。信じられるか? 俺だぞ。俺が佐原悟を、あの人殺しを撃退したんだ。

「マジ神! 俺、マジ神!」

 スマートフォンを握りしめて庭の中を飛び回る。

 そう、スマートフォンだ。とっさにスマートフォンを向けるアイディアが秀逸だった。撮る真似だけで実際に撮影ボタンは押せなかったけれど効果は抜群だった。あの慌てぶりはどうだ。だせーったらありゃしない。急に手を叩かれた猫みたいに跳ね上がって、無茶苦茶に慌てていた。完全に俺の勝ちだ。

「そうだ、連絡しないと!」

 指を鳴らしてスマートフォンの画面を擦った。


 喜んでばかりもいられない。今あった出来事を天文部のみんなと共有しなければ。俺の家を特定できたのなら、他の部員の家にやってくる可能性だって十分ある。伝えないと、佐原悟の必勝法を。

 まずほたるに通話をかけた。出ない。もう一度。それでも出ない。飛ばして永見ながみにかけるもここも出ず、三人目の鈴前すずまえでやっと繋がった。挨拶をすっ飛ばして佐原悟の襲来を伝えると、鈴前は酷く動揺した様子だったけれど、攻略法を教えると少し声が落ち着いた。

「何か異常があったら俺を呼べよ」 

 そう告げてから永見への連絡を任せて電話を切り、再び蛍に通話を試みる。まだ出ない。もう一度。まだ出ない。もう一度。もう一度。もう一度。もう一度……。

「おい、どうした、蛍……」


 にわかに不安が押し寄せてきた。なんで出ないんだ、蛍。十回、二十回と通話を重ねるうちに嫌な推察が浮かんできた。

 まさか、俺の家が一軒目じゃなかったのか? 佐原悟はまず蛍の家に行ってから俺の家に来たのか? であれば、蛍はもうすでに……。

 玄関を飛び出し自転車に跨った。ペダルを踏み込みアスファルトの道路を突っ切る。蛍の家には一年生の頃に一度だけ遊びに行ったことがある。微かな記憶を頼りにペダルに力を込めた。

 信号で捕まる度に通話をかけるけれど繋がる気配は全くない。焦りが加速度的に増していく。そして焦りは判断を鈍らせる。何度も道を間違えた。何度も同じ角を曲がり、また目の前で信号が赤に変わる。

「くそっ」

 苛立ちをハンドルにぶつけてまたスマートフォンを手に取る。

 出ろ、蛍。頼む、出ろ。

『もしもし、しば?』


 ――出た。


「蛍か? お前無事か?」

『何? どうした?』

「答えてくれ! 無事なんか?」

『お、おお……無事? だけど。芝こそどうした? 今日なんで来なかったんだよ』

「来たんだよ!」

『来なかったじゃん。まあいいや、それより聞いてくれ。佐原悟の呪い返しについて』

 呪い返し? 何を言ってるんだ、蛍は。

「来たんだって! 佐原悟が!」

『え……』

 戸惑いの声を漏らして蛍が固まった。その瞬間信号が青に変わる。どうする? このまま通話を続けるか。それとも、切って走るか?  

『どういうこと?』

 蛍が呆けたように言う。寝起きなのだろうか、頭がまるで回っていない様子だ。

「そこから逃げろ!」

 無我夢中でそう叫んだ。その瞬間、スピーカーからドアベルの音が聞こえてくる。

「どうした! 誰か来たのか?」

『いや、母さんの宅配だと思う。それで、逃げるって何? それより佐原悟が来たっていうのはどこに来たの? ――ピンポーン』

 まただ。またベルの音が聞こえる。心臓が早鐘を打ち出した。

「……それ、本当に宅配なのか?」

『え、いや……そうだと思うけど時間通りだし。母さんに受け取ってくれて言われてて』

「だめだ、出るな! 佐原悟が俺の家に来たんだ! お前の家にも来るかもしれねーんだよ!」

『……え?』

 電話の向こうで蛍が絶句する。その後ろからまたベルが聞こえた。額から妙な汗が噴き出した。

「撮影しろ、蛍!」

 叫んだ瞬間に通話が切れた。再度かけ直すも繋がらない。


 もう、行くしかない。スマートフォンを前かごに放り込んでペダルを踏み込んだ。太ももが千切れるほど漕ぎまくる。それでも蛍のアパートに辿り着いたのは、それから十分以上経った後だった。

 十分。絶望的なタイムラグに思えた。自転車をエントランス前に横倒しにし、ワンチャンスにかけてエレベーターのボタンを連打する。開かない。

 見切りをつけて階段に向かって駆け出した。

 その前に、

「待て!」

 誰かが手を広げて立ちふさがった。一瞬蛍かと思ったけれど、蛍じゃない。百地ももちではあるけれど蛍ではなかった。

「上には行くな!」

 噂だけは色々聞いていたけれど、リアルで会うのはこれが初めてだった。蛍のお父さん、百地フォークボールは必死の形相で俺の体を押し戻した。

「天文部の子か?」

「は、はい。芝です」

「逃げるぞ、ついて来い」

 俺の腕を掴んで百地さんが走り出す。

「待って、蛍を助けないと!」

「ええから、行くぞ」

「よくないですよ! 佐原悟が来てるんです。蛍が本当に危ないから!」

「わかってる。もう……確認した」

「え?」

 何を確認したんですか?  

 とっさに尋ねることができなかった俺は、

「とにかく、逃げるぞ! 来い!」


 腕を引かれるまま数秒前に駆け込んできたばかりのエントランスから駆け出した。

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