三章 百地 蛍 (ももち ほたる)8

「お帰り。どこ行ってたの?」


 家に帰ると、ちょうど母さんがパートに出かけようとしているところだった。

「友達と会ってた……」

 靴脱ぎにスニーカーを放り出して答える。別にごまかす必要はないけれど、とっさに父さんのことは伏せてしまった。

「ふーん。で、お父さんはまだ煙草やめてなかったの?」

 なのに、母さんには全てお見通しのようだ。

「……やめてなかった」

「だろうね。他に何か言ってた?」

「母さんに、K―POPの追っかけ好きなだけやれってさ」

「何よ、それ。あ、そうだ。ちょうどグッズの宅配届くんだったわ、今日。受け取っといて。絶対」

「わかった」

「……で、それから?」

「それからって?」

「他にも誰かと会ってたんでしょ? 女の子?」

 お見通しが過ぎるだろう。鈴前といい母さんといい、女の洞察力の鋭さに年齢は関係ないようだ。

「彼女なの?」

「いってらっしゃい。夕飯は適当にやっとくから」

 追及の言葉は聞こえない振りをして狭い廊下をすれ違う。

「彼女なのー?」

 しつこく投げかけられる追及の言葉を弾き返すように、自室の扉をぴしゃりと閉じた。


「……ふう」

 ベットに寝転んで息をついた。スマートフォンを開くとメッセージの新着が二件。最初は父さんからだった。


《百地淳 動画ありがとう。凄く助かる。もうこれ以上佐原悟には近づくなよ》


 帰りしなに送った鈴前の動画への返事だった。これで少しでも佐原さはらさとるを追い詰めることができればいいのだけれど。

 そうだ、有沢ありさわ先生の葬儀で会った刑事にもこの動画を送ってもいいかもしれない。そんなことを思いながら画面を擦る。二件目は、やっぱり鈴前すずまえからだ。


《鈴前 ねえ、最後のセリフなんだったの? 冗談だよね?》


 鈴前は冗談ということにしたいらしい。

 僕が鈴前を好きなことも。

 それが原因で先生と別れたことも。

 勢いでほぼほぼ告白してしまったことも。


《本気だよ》


 返信欄にメッセージだけ作って送信はせずにスマートフォンを閉じた。

 ついでに瞼も。今日は色々ありすぎて疲れた。メッセージを送るか送らないかは、少し脳を休ませてから考えよう。


 ※



 ――ブブブブ。


 どのくらい眠ったのだろう。体感で一時間か二時間か。窓の外はもう真っ暗だ。


 ――ブブブブ。


 そして、枕元のスマートフォンが振動している。マナーモードにされながらも懸命に震えて着信を伝えている。うるさいな。静かにしてくれ。

 手に取ろうとしたタイミングで電話は切れた。まだ眠い。それでも朦朧とした意識でスマートフォンの画面を擦った。

 

 着信 43件


「は?」

 一気に眠気が吹っ飛んだ。なんだ、これ。いったいどういうことだ? 43? どういう数字なんだ、これ。

 またスマートフォンが震えた。着信だ。相手はしば

「もしもし、芝?」

『蛍か? お前無事か?』

 第一声、スマートフォンのスピーカーを弾き飛ばすような怒号が飛び出してきた。

「何? どうした?」

『答えてくれ! 無事なんか?』

「お、おお……無事? だけど。芝こそどうした? 今日なんで来なかったんだよ」

『来たんだよ!』

「来なかったじゃん。まあいいや、それより聞いてくれ。佐原さはらさとるの呪い返しについて」

『来たんだって! 佐原悟が!』

「え……」

 数瞬、脳が停止した。

 芝の言葉を言葉通りに飲み込むのに数秒を要した。

「どういうこと?」

 ベッドから起き上がってそう聞いた。来た? 佐原悟が? どこに?

『そっから逃げろ!』


 ――ピンポーン。


 芝の叫び声と同時にドアベルの音が響いた

『どうした! 誰か来たのか!』

「いや、母さんの宅配だと思う。それで、逃げるって何? それより佐原悟が来たっていうのはどこに来たの?」 


 ――ピンポーン。


 また、ドアベルの音が鳴った。電話の向こうにも聞こえたのだろうか、スピーカーから芝が息を飲む音が聞こえる。

『……それ、本当に宅配なのか?』

「いや、出てないからわかんないけど、そうだと思う。時間通りだし。母さんに受け取ってくれて言われてて」

『だめだ、出るな!』


 ――ピンポーン。


 芝の絶叫とドアベルの音が重なった。そうは言われても出ないわけにはいかない。母さんから厳命されているんだ。通話をつないだまま玄関へ足を踏み出した。

『佐原悟が俺の家に来たんだ!』 

 その足が一歩で止まった。

 ……今、何て言った?

『お前の家にも来るかもしれねーんだよ!』

「……え?」


 ――ピンポーン。


 またドアベルが鳴る。


 ――ピンポーン。ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン……。


 マズい。

 本能的に危機を感じてベランダに飛び出した。

 しかし、飛び降りることはできない。ここは八階だ。隣の部屋に逃がしてもらうしかない。そう思って手すりを掴んだ瞬間、顔に何かが飛んできた。軽くて柔らかくてフワフワしてバタつく、何か。


「――っ」

 蛾だった。反射的に弾き飛ばしたそれは、ベランダの床に叩き付けられねずみ花火のように鱗粉を振りまいてバタバタとのた打ち回る。

「うわああ!」

 悲鳴を上げてリビングに逃げ戻った。最悪だ。なぜ声を出した。居るのがバレた。間断なく鳴っていたベルがやみ、ドアノブをガチャガチャと捻じる音に切り替わる。今さら遅いのはわかっていたけれど、足音を殺してドアモニターのボタンを押した。

「ああ、ああ……」

 短い髪、髭面、死霊のような眼。

 佐原悟だった。佐原悟が画面いっぱいに映っていた。

 恐怖が脳天を突き抜けた。心臓が殴られたように痛みを発する。

 なんでだ? なぜここに佐原悟が? もう終わったんじゃないのか。マズいマズいマズい。逃げないと。助けを呼ばないと。

 スマートフォンを開いたその指に、鱗粉がこびり付いているのが見えた。途端に顔面を蛾が跳ね回る感触が蘇る。

 虫虫虫、大嫌いな虫。

 吐き気がこみ上げてきた。もう立っていられなかった。壁に背を預け、体育座りの姿勢で座り込む。震える指でスマートフォンの画面に触れた。

「警察、警察……」

 大丈夫だ。交番ならすぐ近くにある。すぐに駆け付けてもらえる。警察だ。警察だ。警察だ…………あれ警察って、何番だっけ?

 おい、何言ってるんだ、僕は。警察は『ひゃくとうばん』に決まっているだろう。常識じゃないか。

 それがわかっているはずなのに言葉を数字に変換できない。『ひゃくとうばん』って何番だ? 10010? いや、違う。くそう、わからない。頭が正常に働かない。


 ドアノブを捻る音は、ドンドンと扉を叩く音に変わっていた。

「開けろ! ここを開けろ!」

 怒鳴り声が聞こえた。

 佐原悟がすぐそこにいる。なんでだ? なんで来るんだ。もう被害は出ないって言ったじゃないか。なんでだよ、父さん。

「そうだ、父さんだ……」

 父さんを呼ぶんだ。スマートフォンの画面を擦った。電話のアイコンはどこだ。電話アイコンが見つからない。なんでだよ、ちくしょう。

 ぱんっと、ベランダの窓ガラスを叩く音がした。見ればさっきの蛾が窓ガラスにぶつかってきている。いや、それだけじゃない。

 何か……いる。

 ベランダに何かがいる。

 エアコンの室外機の後ろ。見えないけどわかる。

 いる。

 明らかにこの世のものではない何か。

「――っ」

 声が迸った。僕の喉からそれまで聞いたこともないような声が溢れ出した。

 助けて、父さん。お願い、助けて。電話をしないと。電話のアイコンが……あった。いつの画面のいつもの位置にあった。なんで、あんなに何度も確かめたのに。さっきまで絶対なかったのに。ここにあるはずがないのに。ああ、今はいい。とにかく父さんに電話、番号は何番だ。

「090……」

 嘘だろ、思い出せない。そんなわけないだろう、いい加減にしろ。いつもかけてるだろう。お前が電話する相手なんて父さんか、母さんしかいないんだ。思い出せ、急げ、早く!

「090……」

 だめだ。出てこない。頭が全く働かない。

 認知、認知がぼやけている。

 脳が濁った粘液に浸かってしまったかのように動きが鈍くなっている。また、窓ガラスに蛾がぶつかる音がする。吐きそうだ。

 不意に歌が聞こえた。

 外からだ。扉の向こうで佐原悟が歌っている。『歌の樹』の祈りの歌。やめろ、その歌を歌うな。

「ああ……」


 あれが部屋の中にいた。


 ベランダの隅にいたはずのそれが、いつの間にか部屋の中に入り込んでいた。

 恐怖で頭がおかしくなりそうだった。

 佐原悟の歌声はどんどん大きくなる。それに後を押されるように、それは少しずつ近寄って来た。這寄るように近付いて来た。

 細い腕、細い脚、長い髪、白装束。

 女だ。薄汚れた女が這い寄ってくる。


 ――こいつだ。


 本能的に確信した。こいつが莉子と有沢先生を殺したんだ。

『あんな遺体を俺は今まで見たことがない』、刑事の言葉が頭に蘇る。

 嫌だ。嫌だ。死にたくない。僕は嫌だ。

「助けて、父さん……」

 電話をしないと。そうだ、番号なんていらないんだ。電話帳から呼び出すんだった。何でこんなことがわからなかったんだ。

 記憶が定まらない。思考が安定しない。認知が狂う。どうして? 違う。そんなの今はどうでもいい、早く行動しろ。あの女は、もうすぐそこにいる。

 電話帳を開いた。スマートフォンの画面にずらりと人の名前が並ぶ。

「……あれ?」

 そこで、手が止まった。同時に思考も停止する。

「…………あれ?」

 電話帳に登録されている名前は決して多くはない。一回のスイープで上から下まで辿れてしまう程度。そのリストに何度も何度も目を通す。上から下まで一人ずつ。

「………………あれ?」

 絶望で目の前の景色が歪んで見えた。


「……父さんの名前、なんだっけ?」


 涙が溢れた。なんでだ? なんで、父さんの名前がわからないんだ。

 足首にぬめりとした感触が纏わりついた。

 這い寄って来た手が僕の足首を掴んでいた。

 直後にもう片方の手が膝を掴む。ズルズルと僕の体を這い上がってくる。

 それでもスマートフォンから目が離せない。離してしまえば、顔を上げてしまえば、それの姿を見てしまう。

 嫌だ、嫌だ。恐怖が体を締め上げる。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。

「……父さん……父さん……なんで?」

 震えた指からスマートフォンが滑り落ちそうになる。その瞬間に、画面が光って本体が震えた。着信だ。必死に画面を擦って電話に出た。

『もしもし、蛍か。俺や!』

 父さんだった。父さんの声がスマートフォンから迸った。ああ。でも、声が。声が出せない。

『蛍聞こえてるか。あれからな、信者のネタ元に聞いてみたんや。わかったぞ、佐原悟達の呪殺の方法が。逆やった』

 逆……?

『俺はターゲットを尾島おじま貴子たかこの生贄に捧げるって言ったよな。逆や、呼び寄せるんや。あいつらはターゲットの元に尾島貴子を呼び寄せて殺させるんや!』

 呼び寄せる……?


 ぬめりとした感触が両頬に張り付いた。

 それが目の前にいた。

 両手で僕の頬を掴み、真っ黒な目で覗き込んでいた。


 ――こいつが、尾島貴子。


 助けて、父さん。

 ……ああ、いやだ。

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