三章 百地 蛍 (ももち ほたる)5

「――あ」

 

 テーブルに目を落とした瞬間、電撃のような鳥肌が背中に走った。

 唐突に記憶と記憶が繋がった。


「ああ、ああ……」

 既視感が確信に変わった。

「待って、父さん!」 

 喫茶店の窓ガラスを突き破って外に転がり出た。

 心意気の話だ。実際は伝票を持って早歩きでレジに向かい、接客中のマスターを待ってから勘定を済ませて外に出た。とっくに父さんの後ろ姿は見えないが、行き先を推理する必要などなかった。

 息の詰まるような暑さの中を駆け出した。

 通りに出ると、並んで歌っていた信者達の姿は見えなくなっていた。別の場所に移動したか、あるいは巣に帰ったのか。鉄筋四階建のビルディング、曇りひとつない自動ドアの前に立ちすくむ。迷ったのはほんの一瞬、生唾で逡巡を飲み下し、『うた』道場の正面入り口をくぐった。

 暑さが消える。新築らしい匂いがした。ドアの正面に受け付けブースがあったが人はいない。入ってきた入口以外に扉は三つ。迷わず一番大きな二枚扉を肩で押した。奥からいつもの歌が聞こえてきたからだ。

「……広っ」

 道場というからには畳敷きの柔道場のような場所を想像していたけれど、中は規模の小さな講演会場といった趣だった。板敷の床にパイプ椅子が並んでいる。壇上では道着を着た信者達が一列に並んでいつもの歌を歌い、私服姿の観客が椅子に座ってそれを聞いていた。

 不気味だ。そう感じたのは信者よりもむしろ観客達の方だった。

 この人達はどういうつもりでここにいるのだろう。宗教団体の集まりに参加している以上、信者か檀家のような存在なのだろうが、彼らの顔から神に真心を捧げる高揚感はいっさい感じられない。一様に張り付いているのは、疲労と抑鬱の表情。

 やがて歌が終わり、道着を着た信者の一人が前に進み出た。年齢は六十を過ぎているだろうか。白髪の混じる髪の毛を背中まで伸ばしている。顔からも体型からも声からも性別が判然としなかった。謎の信者はハンドマイクのスイッチを入れ、よく通る声で、よくわからない話を喋り始めた。


「意思の外で連動する繋がりを持つ私達は、ナノパワーの回転を持つ歌だけが、一つの集約を内包して旅をします。私達は、ちょうど乱立する海のような引力を宇宙に返して、それを再び学ぶのです」


 ……何を言っているんだ、この人は。

 話している言語は日本語だ。さして難しい単語も使っていない。それでも、信者の発する言葉が欠片も理解できなかった。

 スピーチが終わると、マイクはパイプ椅子に座る観客に手渡される。一際濃い疲労感を漂わせた中年女性が立ち上がってぼそぼそと声を発した。

「お救いください。私の夫は半年前から家を出ていきました。外で女作っています。家に生活費も入れません。催促すれば暴力を振るわれます。もうこんな生活に耐えられません。どうか、お救いをお――じ様」

 今、何て言った? 涙で崩れて聞き取れなかったけれど、最後の言葉はもしかして。

 続いてマイクは隣にすわる老齢の男性に引き渡された。

「お救いください。わたしには今年で四十になる息子がいます。高校を卒業してからずっと引きこもっています。働いたことはありません。少し前までよく部屋で暴れていましたが、最近ではずっと泣いています。どうか、息子をお救いください、――いじ様」

 まただ。また最後だけ聴き取れなかった。

 次はまた中年の女性だ。

「お救いください。私の父は長らく痴呆を患っています。老々介護がもう限界まで来ています。毎日毎日死ぬことばっかり考えています。どうか、お救いください。おだいじ様……」

 聞こえた。今度ははっきり。

 おだいじ様と――。

「ちょっと、あなた」

 突然肩を叩かれて、思わず声が漏れそうになった。

 振り向くと道着姿の若い信者が真横に立っていた。肩に置かれた手はそのまま滑ってしっかりと僕の手首を握っている。目の座り方が尋常ではなかった。

「あなた、名簿にお名前がないようですか、どなたですか? 関係者ではありませんよね?」

 見つかった。全身から汗が噴き出した。当たり前だ。見つかるに決まっている。どうして、潜入なんてしようとした? 己の軽率さが嫌になる。どうする、逃げるか?

「どうしました?」

 迷っている間にまた二人の信者が寄ってくる。囲まれた。動悸が急激に高まる。まずい、誤魔化さないと。逃げないと。走るか? 膝が震える。どうする。三人の大人を突き飛ばせるか?

「何事ですか? 集会中ですよ」

 最後に割って入ってきたのは、飛び切り危険そうな風貌の持ち主だった。一見してまともな大人でないことがうかがい知れる。肩まで伸びた長髪に髭と色の入った眼鏡。

 父さんだ。膝が崩れそうなほど安堵した。

「部外者の立ち入りはご遠慮願います。こちらにどうぞ」

 有無を言わさぬ勢いで父さんは僕の腕を引いた。こちらとしても有無を言う気はないので引かれるままに後に続く。講堂を出る際に最小限の動きで後ろを振り返るが、後を追ってくる信者はいないようだった。助かったのか?

「キョロキョロしないでください。ここは私有地ですよ」

 父さんは二人きりになってもなお信者の芝居を解くことなく歩を進め、正面入り口とは別の扉から路地裏に出て、

「何しとんねん、蛍!」

 そこで初めて父さんに戻った。

「帰れって言ったやろ! 何を考えとんねん、お前は! ここがどういう場所かわかっとんか」

「ごめんなさい」 

 今日はよく父さんに叱られる日だ。まだ一緒に暮らしていた日を思い出して少し懐かしくて、少し嬉しかった。

「どういうつもりやねん、蛍。お前こんなことするやつちゃうやろう。何をするつもりやってん」

「……ごめんなさい。ただ、僕確かめたくて」

「何を?」

「さっきの白いお守り、もう一度見せてくれない?」

「お守り? お前何を――」

「……お願い」

 僕の表情からただ事ではない何かを感じ取ったのか、父さんは言おうとした言葉を飲み込んで道着のポケットを探った。そして、白いお守りを引っ張り出すと、僕の目の前で指から吊るして見せる。

「……やっぱり、思った通りだ」

「どうした、何がやっぱりなんや?」

「このお守りの刺繍。蛇みたいなマーク、見たことがあるんだよ。莉子の家で」

「莉子って佐原の娘か。な、なんや、お前。佐原悟の家に行ったんか? なんでや?」

 色眼鏡が弾けて飛んでいきそうなほど父さんが目を見開いた。

「莉子が――死んだ部長が天文部のパソコンを持って帰ってて、みんなで探しに行ったんだ。その時に、呪いの儀式の部屋みたいなところに通されて」

 そうだ。莉子の家の離れ。あの不気味な小屋の正面の壁に貼られていた大きな布、そこにも同じ蛇の模様が描かれていた。どこかで見たことがある。ずっと頭の片隅に引っかかっていたけれど、今日やっと記憶が繋がった。

「唱教会やないか。お前、そんなとこまで入り込んでたんか」

 唱教会? あの小屋のことか。 

「ど、ど、どんな部屋やった?」

 震える手を肩に乗せて父さんが尋ねる。 

「えっと、なんか祭壇みたいなのがあって……」

「唱台か。それから?」

「そのお守りと同じ模様の、蛇のでっかいタペストリーみたいなのがあって……」

「それから?」

「あとは、皿とかあったかも」

「皿? 皿か……」

「いや、コップだったかな。ごめん、あんまり覚えてないや。とにかく気持ち悪かった」

「写真は? 写真とか撮ったりしてへんのか?」

「それはないけど」

「そうか」

 父さんの声にあからさまな失望の色が混じった。胸にチクリと痛みが刺す。親をガッカリさせるのはいつだって辛い。父さんと一日頑張って自転車に乗れなかった小学校時代を思い出した。

「ごめんね、父さん」

「お前が謝ることちゃう」

「莉子はその部屋で死んだんだって、原因不明の病気で」

「……そうか。佐原の娘がか」

「僕の友達がだよ」

「……」

「ねえ、莉子は何で死んだの?」

 父さんの眼鏡の奥の瞳を見つめて問いかけた。

「有沢先生は何で死んだの?」 

「……」

「部員達、みんな怖がってるんだ。次は誰が死ぬのかって。僕も怖い。教えてよ、父さん」

「……」

「お父さん!」

「でかい声出すな。中に聞こえるやろ」

「でも」

「……何でそうなったのかはわからん。でも、二人を殺したのは恐らく佐原悟で間違いないやろ」

 薄汚れたブロック塀に背を預けて父さんは観念したようにそう言った。やっぱり、あの父親が犯人だったのか。もはや驚きはないけれど、

「……どうやって?」

 気になるのはその方法だ。二人は間違いなく病気で死んだはずなのに。

「長い話になるぞ。あんまりゆっくりはしてられん。出来るだけ手短に話すから集中して聞け」


 そう言うと、父さんは時間がないはずなのにポケットから煙草を引っ張り出し悠々と火をつけた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る