三章 百地 蛍 (ももち ほたる)3

 百地ももちフォークボール。


 この名前を聞いて即座にピン芸人を思いついた人は、その道のかなりのマニアに限定されるだろう。多くの日本人にとって、父さんの芸名は胡散臭いオカルトタレントとして記憶に刻まれているはずだ。

 お笑い芸人を夢見て関西から上京した父さんは、運よく芸能事務所の所属オーディションを突破できたものの、そこから先の賞レースでまったく結果を残すことができず、極貧の暮らしを余儀なくされていた。

 嘘か本当か月収240円で一か月を生きていた父さんは、吸い寄せられるように事故物件と呼ばれる訳あり格安アパートに住み着くことになる。

 幸い、霊感が全くなかったので心霊現象に出くわすことは皆無だったが、住むうちに自然と隣近所の怪談話が集まり、それをネタにいくつかの仕事が舞い込んでくるようになったそうだ。すでに芸人としての将来に絶望していた父さんは、ここで大胆な路線変更を図る。

 お笑い芸人を廃業し、心霊ライターを名乗ることとなったのだ。人を笑わせる仕事から怖がらせる仕事へ。真逆とも言える方向転換は、その時ちょうど僕が産まれたことがきっかけの一つになったのかもしれない。

 とはいえ、心霊ライターを自称したものの霊感のない父さんには語るべき実体験がない。そうそう都合よく使える怪談が集まってくるはずもなく、手持ちの怪談を使い潰した父さんはごくごく自然の成り行きとして取材方法の転換を迫られることになった。



「行ってきます」

 週末、母さんがトイレに入ったタイミングを見計らって家を出た。行き先を隠して出かける時はいつもこうだ。

 最寄り駅から電車で三十分弱、終点まで乗り継ぐと車窓から見慣れた農園や溜め池は姿を消し、かわりに大規模なショッピングモールが現れる。もちろん、この『大規模な』という表現は東京や大阪などの大都市からから見れば、たちまち『こじんまりした』や『うらびれた』という言葉にとって代わられることになるのだけれど。

 その証拠に改札を抜けて十分も歩けば、商業施設は途切れて低層のビジネスビル群が立ち並ぶエリアに差し掛かる。その先に続くのは昔ながらの住宅地だ。繁華街の喧騒が途絶えると、入れ替わりに聞こえてくるのはもはやすっかり耳に馴染んだあの歌だった。


「神々の―、微笑む天地―、空に―、山に―、愛も深く―」


 揃いの青い道着に身を包み、幸せそうに歌う新興宗教団体の信者達。

 彼らは本当にどこにでもいる。口さがない級友は彼らのことを青いゴキブリと呼んでいた。この近辺、どこの町を歩いても必ず一度はお目にかかる、この青い集団。


「微笑み―、手を差し伸べ―、この丘に―」

 

 この歌を初めて聞いたのは小学校に上がってすぐだった。服装も年齢層もバラバラな三人組が田んぼの前に並んで楽しそうに歌っていた。ついつい、つれられて近づこうとしたら母さんに強く腕を引かれた。「近寄っちゃだめよ」、小声でそう言う母さんは三人組の前を通り過ぎるまで一度も彼らの方を見ようとしなかった。


「我らは学ぶ―、我らは歌う―、神の名に―」


 それ以降、何度も彼らの姿を見るようになった。

 町で見かける彼らはいつも歌っていた。何も見ず、何も喋らず、ただただ歌い続けていた。そして、じわじわとその数を増やしていった。二人が三人に、三人が四人に。


「ああ―、愛しき―、その御名を―」


 そして今では、十人弱が同じ格好で列を作って歌っている。彼らが立っているのはあの日の田舎道ではない。地方ながらも繁華街のすぐ近くの住宅街だ。

 そして後ろには、

『新興宗教法人 うた B町道場』

 という大きな看板の掲げられた四階建ての建物が、周囲の家屋を威圧するようにそびえ立っていた。昔ながら住宅街に突如現れるビルディング、それはまるで日常に乱雑に放り込まれた異世界の扉のように見えた。

 彼らはいつの間にこんなに大きくなったのだろう。彼らはいつの間にこの町に馴染んでいたのだろうか。


「神々の―、微笑む天地―、空に―、山に―、愛も深く―」


 通行人は誰も彼らを見ようとしない。僕達は徹底的彼らを見えないものとして扱ってきた。あの日の母さんと同じように。

 稀に彼らが見える人間が現れたとしたら、それは――。


「いい加減にしろ!」

 不快感を隠さない怒鳴り声が、歌声に混じった。

「迷惑なんだよ、毎日毎日! 出ていけ、お前ら!」

 白髪交じりの中年の男だった。身に着けているのはTシャツというよりは肌着に近いよれよれの白シャツで、下はジャージとつっかけ。明らかに外出するつもりで出たきたふうではなく、ゴロ寝の最中に堪らず家の中から飛び出してきたといった体だ。

「歌うな! やめろって言ってんだろ! ぶっ殺すぞ」

 男が何を叫んでも信者達は歌をやめようとしない。それが男の怒りに油を注ぎ、顔を引きつらせる。きっと何度も苦情を入れていたのだろう。その度に無視され、ついに何かを決断して飛び出してきたのだ。

 男が信者の一人の胸倉をつかんだ。

「止めてください」

 そこでようやく、ビラを配っていた髪の長い眼鏡をかけた髭面の信者が男の前に割って入った。

「お前らこそ止めろって言ってんだろ!」

「私達はここで歌う許可を得ています。この共鳴は誰にも私達を止めることはできません」

「そんなもん知るか! 迷惑だって言ってんだよ!」

「では、私にボールペンを刺してください」

「はあ?」

 髭面の信者は、道着のポケットからペンを取り出して男に握らせた。

「私達は世界を救うために歌っています。歌は私達の祈りです。『歌の樹』は未来永劫完璧な祈りです。その祈りで救いを包めないのなら、それは私達の真心が足りないからなのです。だからこれで刺してください。私を罰してください」

「やめろ。触るな!」

「刺していただけないのなら私があなたを刺します」

「……は?」

「首を刺して未来永劫に殺します」

「ちょっと、待て、お前何言ってんだ」

「これで正当防衛が完成します。刺してください。私は警察に証言します。私が先に殺そうとしたと。約束します。歌に誓っています。さあ、刺してください。あなたの罰が欲しいのです」

「近寄んな、気持ち悪い! お前らみんな狂ってんだよ!」

 縋り付く信者を払いのけ、男は逃げるように列の前から去って行った。何度も後ろを振り返りながら。長髪の信者はボールペンを握ったまま男の姿が消えるまで見送って、

「…………」

 あ、目が合った。

 長髪の信者が振り返った瞬間に目が合った。

 信者はニヤリと口角を上げると静かに僕に近寄ってくる。後ろに並ぶ信者達はまだ歌っていた。そして、通行人達はこんな騒ぎが起こっても誰一人視線を向けようとしない。

 長髪の信者はニヤニヤと笑いながら目の前まで歩いてくると、一枚のビラにボールペンを走らせ、

「どうぞ」

 笑顔で手渡して踵を返した。

 白黒刷りのビラの端には昔と変わらない特徴的な筆跡で、

『三十分後、裏の喫茶店で』

 と書き殴られていた。


 二か月ぶりに会う父さんは、これ以上ないくらい信者の中に溶け込んでいた。


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