二章 有沢美織 (ありさわ みおり)6

『……どうしたの、先生。こんな時間に天文部の話?』


「ううん、違う。ちょっと、個人的にほたるくんに聞きたいことがあったの」

『…………』

「待って、切らないで。ヨリを戻したいとか、そんなんじゃないから。本当に教師として確認ことがあるの、今すぐに」

『何?』

「ねえ、蛍くん。おだいじ様って知ってる?」

『おだいじ様?』

「うん、知ってるかな?」

『知らない。なんなの、それ』

「私もよくわからないの。死んだお父さんが最後に言ってた言葉でずっと気になってて」

『もしかして、ソレ系のやつってこと?』

「多分」

『…………』

「ごめんね、怒った?」

『別に。それってもしかして莉子りこと莉子のお母さんのことに関係あったりするの?』

「どうだろう、わからない」

『今度父さんに聞いてみる』

「ありがと」

『それだけ?』

「うん」

『じゃあ、切るね』

「うん」

 通話を切ってスマートフォンのカバーを閉じた。

 そのままクジラの石像に寄りかかり、ずるずるとずり落ちるようにしゃがみ込む。

「ああ、蛍くん」

 電話が通じた。それだけで立っていられないほど嬉しかった。

 聞きたいことがあったのは本当だ。だから極力教師の皮を脱がないようにしたつもりだったけれど、うまくいったかどうかはわからない。彼の声を聞くだけで体の中の全ての固いものがふやけてしまうようだ。

 我ながら不思議に思う。さっきまであんなに荒れ果てていた心が、今は甘いドキドキで満ちているなんて。付き合った期間はほんの数か月だったけれど、私はまだまだこんなに蛍くんのことが好きなのだ。電話に出てくれる、ただそれだけのことで夢見心地になるほどに。

 本当に夢じゃないことを確認したくて通話履歴を開いてみた。


百地ももちほたる 通話 23時44分】


「――は?」

 そして、ゾッとした。

「え、23……23時? え? え? なんで?」

 愕然として辺りを見回した。

 公園はすっかり真っ暗だった。人の気配も感じない。

 そんなバカな。今日はまだ日の高いうちに学校を出た。それでちょっと寄り道して、せいぜい三十分歩いただけ……。

 それで何でこんな時間になっている? 

 待って、生徒に歩きスマホを注意されたのはいつのことだ? あの時はまだ夕日が見えていたはず。それから何があった? なぜ深夜になっている? 

 時間が飛んでいる。

 私のそばにいるのはのっぺりと暗闇に浮き上がるクジラの石像だけ。

 ああ、クジラだ。

 そうだ、クジラの石像だ。

 私は今日、何度この石像の前を通り過ぎた? 三度か? 四度か? 五度か?

 ここのジョギングコースは一周10キロを超えるのに。

 私はいったい何時間この公園を徘徊していたんだ。


 帰らないと。不安感に押し出されるように足を踏み出した。

 それに合わせるように数メートル先の街灯が突然消えた。

 別に珍しいことじゃない。ジョギングコースには数メートルおきに街灯が設置されている。その内の一個が自然に消えただけだ。早く帰らないと。

「――え?」

 もう一歩踏み出すと、さらに一つ手前の街灯が消えた。

「え? え?」

 二つ三つと街灯が消えていく。闇が迫ってくる。

 本能的に駆け出していた。おかしい。この場所は何かがおかしい。ここにいてはいけない。逃げないと。

 夢中で駆けた。どこをどう走ったのか覚えていない。何度か転んだと思う。何度か何かにぶつかったのだと思う。それでも闇雲に走り続け、

「嘘でしょ、なんで?」

 私はまたクジラの石像の前にいた。

 大きな固いクジラが憐れむように私を見下ろしている。

「どうなってるの?」

 またジョギングコースを一周してこの場所に戻ってきてしまったのか?

 恐怖が肌を這い上がってきた。明らかにこの場所はおかしい。また駆け出した。息が苦しい。喉が詰まる。まるで悪い夢のようだ。息を切らして、肺を痛めて、喉を焼きそうになりながら、

「なんでなの!」

 私はクジラの石像の前に戻ってくる。

 また駆け出す。頭がおかしくなりそうだ。

 ああ、まただ。またクジラの石像が遠目に見えてくる。そっちじゃない。そっちに向かって走ってはいけない。引き返さないと。

 でも、止まれない。前にしか走れない。

 結局、同じ場所にたどり着く。

 徘徊。同じ場所をぐるぐると回っている。今の時刻は? 午前二時? そんなバカな。

「……誰か助けて」

 ついに倒れこんだ。クジラの石像の前に崩れ落ちた。

 だめだ、ここにいてはいけない。この場所は一番だめだ。でも、もう走れない。肺が痛い。足が痛い。膝が痛い。

 ねえ、蛍くん。お母さん。お願い、助けて。


『――じさま』

 

 その時、何か聞こえた。なんだ、今の声は。


『――いじさま』


 ああ、この声は知っている。古くて懐かしくて……怖い声。


『おだいじ様、おだいじ様』


 やめて、お父さん。もうその言葉を唱えないで。


『おだいじ様、おだいじ様、おだいじ様、おだいじ様』


 お願い。お父さん、もうやめて。お願い。


『おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様……』


 何かが来る。

 唐突に気配を感じた。

 どこかから何かが来る。

 この世のものではない何か。

 決して存在してはいけない何か。


『おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様……』


 ああ、ああ。来る。

 来る来る来る来る来る。逃げないと。来ているから。

 でも、もう立ち上がれない。恐怖で膝に力が入らない。涙が止まらない。

 もうそこにいる。ずるずると足を引きずって、ゆっくりゆっくりとやって来る。


『おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様おだいじ様……』


 もうやめて。ごめんなさい、許して。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


「ねえ、蛍くん……」


 ああ、来た。

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