二章 有沢美織 (ありさわ みおり)5
「今日、おじさんが来てるよ」
病院の受付で声をかけられたのは高校二年の夏、お父さんのリハビリも最終段階に至り、いよいよ退院も視野に入った八月の午後だった。
「最近よく来てるわよね。あんまり顔似てないのね」
すっかり顔馴染みになった看護師さんはそう言って笑ったけれど、私は笑顔を返すことができなかった。
おじさんって、誰だ?
お父さんのお兄さんのことなら、お父さんが入院してから顔も見ていない。「薄情者の家系なのよね」、お母さんがそう愚痴っていたのを聞いたことがある。あの人はこの病院の場所すら知らないはずだ。
何かおかしい。
不安で足が早まった。
階段を駆け上がって角を曲がる。二階の廊下に出ると、男はちょうどお父さんの病室から出てくるところだった。
この人が、看護師さんの言っていた『おじさん』か。
大きい。鴨居に頭を擦りそうなほど背の高い男だった。
「……誰ですか?」
そう声をかけるのに勇気を総動員しなくてはならなかった。男は立ち止まり、黙って私を見下ろした。
怖い。目が合った瞬間そう思った。別に睨まれたわけではないけれど、虚ろでまるで死霊のような目が怖くて仕方がなかった。
「父のお知り合いですか?」
「……」
結局、男は何も答えないまま立ち去った。それ以上何かを尋ねることも後を追いかけることもできず、後姿が階段に消えると喉が裏返るような長い長い安堵の溜息が漏れ出てきた。
「おお、美織来たか」
部屋に入ると、珍しくお父さんは上機嫌で迎えてくれたけれど、
「お父さん、それ、何持ってるの?」
すぐに違和感に気がついた。お父さんが大事そうに握っていたのは、白いお守り袋。
「これはな、おだいじ様のお守りだよ」
お守り袋を撫でながらお父さんは笑顔で答える。
「何? 何様って言ったの、今?」
「おだいじ様、おだいじ様」
「おだいじ……様? 何、それ?」
「おだいじ様、おだいじ様」
「ねえ。やめてよ、それ。お父さん」
「おだいじ様、おだいじ様」
「お父さん」
「触るな!」
お守り袋に伸ばした手を思い切り弾かれた。すっかり痩せた細い腕のどこにこんな力があるかと思うほど強烈な勢いだった。
「この悪魔め!」
悪魔。浴びせられた言葉よりも、表情に戦慄を覚えた。お父さんのあんな顔を見たのは初めてだった。逃げるように病室を飛び出した。
「おっと、危ない!」
「え、うわっ」
突然の大声に我に帰った。意識が十年前から現代に戻ってくる。
ボーっと歩いていたら自転車とぶつかりそうになった。よろけた拍子にとっさにクジラの石像に手を付く。ざらりとした痛みが掌に走った。
「すみません」
「いえ、こちらこそ」
こっちは歩きスマホで、向こうの自転車は無灯火だ。過失割合はいくらくらいだろう。
お互いに謝って歩き出す。怪我をしかけた直後なのにスマートフォンの画面を覗くことをやめられなかった。クジラの石像に見送られ、人影もない赤茶色の舗装道路を歩き始める。
そして意識は、また十年前のあの日に飛ぶ。
お父さんの病室から飛び出し、談話スペースですぐにお母さんに電話をかけた。繋がり次第全て話した。叔父を名乗る見知らぬ男が訪れて来たこと、男は看護師が顔を覚えるほど頻繁にお父さんの元に通っていること、お父さんが不気味なお守りを携えていること、悪魔と罵られたこと、全てが恐ろしかった。
今思い出しても、まともに説明できた気がしなかったけれど、お母さんは何も質問を差し挟むことなく最後まで私の話を聞き、静かに言った。
「もういいよ」
「え……?」
「あんたはもう、帰っておいで」
それは、もう何年も聞いていなかったお母さんの穏やかな声だった。まだ私達が三人家族だった頃の幸せな声。
次の瞬間、お父さんの病室の方から悲鳴が迸った。
「
看師達の緊迫した声も聞こえてくる。
すぐに電話を切って駆け出した。階段を素っ飛ばし、廊下を突っ走り、部屋の前でちょうど中から出てくる顔馴染みの看護師さんと鉢合わせになった。
「お父さんは――」
「だめ!」
中を覗こうとした瞬間、物凄い力で引き戻された。
「見ちゃだめよ!」
そのまま壁際まで引っ張られる。私達がもみ合う横を医師達が慌ただしくすり抜けていく。何とか後に続こうとしたけれど、
「あなたは見ちゃだめ!」
入るなではなく見るなと言われことが気にかかった。
あの男だ。あの男がお父さんに何かしたのだと確信した。
ややあって、けたたましい音を立ててストレッチャーが病室に運び込まれていく。
「離れて! 絶対に見ちゃだめよ!」
そう言われても見ないわけにはいかなかった。
お父さんがストレッチャーに乗せられて運び出されて行く。息がないのは一目でわかった。あれは生者の顔ではなかった。何かに怯えたように口を歪ませ、眼球が飛び出るほど大きく目を見開いている。
「――ひぃっ」
思わず悲鳴が漏れた。見るなと言われた意味がようやく理解できた。
お父さんの喉が、ぱんぱんに膨れ上がっていたのだ。
枯れた木の枝のようだった細い喉が、まるでスイカでも丸ごと飲み込んだかのように異常なほど大きく、顎よりも高く膨れ上がっていた。
吐き気がこみ上げた。
――気持ち悪い。
たった一人の父親の最後を、そんな感情で見送ってしまっていた。
記憶はそこで止まっていた。それ以後のことは何も覚えていない。
眩暈を感じて足を止めた。また意識が十年前から戻ってくる。喉が詰まった。息が苦しい。暑いのに冷や汗が止まらなかった。堰を切ったように記憶と感情が体の中で荒れ狂っている。
だから、封じ込めたんだ。あの日のことを思い出すと、いつも息ができなくなる。
だから忘れることにしたんだ。あの時、病室に現れた男、佐原悟の記憶と共に。
胃がきりきりと痛んだ。クジラの石像に手をついて吐き気を堪える。懸命に嵐が過ぎるのを待った。そして、また赤茶色の舗装道路を歩き出す。スマートフォンを開き、今度は動画ではなく電話帳を呼び出した。
【お母さん】
少し迷ってから通話のアイコンをタップした。
『美織? どうしたの?』
いつもより少し長くコールの時間を空けてお母さんは電話に出た。
「ちょっと、聞きたいことがあるの」
『何? 外にいるの? こんな時間まで仕事? 大変ねえ。そうだ、今週こっちに帰ってきなさいよ。お隣からお野菜いただいたから――』
「おだいじ様って、何?」
『――――』
お母さんの饒舌がビタリと止まった。
『あ、あんた……どうしてそれを』
「昔、お父さんが言ってたのを思い出したの。病院で白いお守り袋を撫でながらおだいじ様、おだいじ様って――」
『やめて!』
耳元で金切り声が破裂した。
「お母さん?」
『その言葉はもう聞きたくないの』
「どうして? なんなの、これ」
『あんたももう忘れなさい。呪いの言葉なんだから』
それだけ言われて一方的に電話は切れた。
鉈で電話線ごと切り落とすような切れ方だった。しばし足を止め、スマートフォンの画面を眺める。
……呪いの言葉?
やはり、お母さんは知っていたんだ。
あの時病室に現れた男、あれは間違いなく佐原悟だ。あの男がお父さんの死に深く関わっている。
はっきり言おう。あいつがお父さんを殺したんだ。そして十年経った今、教え子が不審死を遂げ、また佐原悟の影がちらついている。
「確かめないと、何があったのか」
でも、あの様子だとお母さんはもう何も話してくれないだろう。そうなったら頼る先は一つしか……。
「仕方ない、よね?」
そう、この電話はそういう電話だ。
決して未練などではない。必要にかられた、いわば業務連絡だ。
そう自分に言い聞かせてスマートフォンの画面を擦った。呼び出すのは電話帳ではなく発信履歴。お母さんの名前の下にズラリと並ぶ『彼』の名前。
こんな時ですら、彼の名前を見ると心が震えた。荒んだ胸の中にとろりと暖かい気持ちが湧き出してくる。愛おしいその名前を撫でるようにそっと指で触れた。
コール音が耳に纏わりつく。
お願い出て。これはそういう電話ではないから。
いつもの惨めで情けなくて虚しいだけの電話じゃないから。お願い、繋がって。
『――もしもし』
繋がった。
安堵感が涙になって溢れ出た。
「ねえ、蛍くん。ごめんなさい、いきなり電話しちゃって」
『……どうしたの、先生。こんな時間に天文部の話?』
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