二章 有沢美織 (ありさわ みおり)4
「お先に失礼します」
部室から戻ると早々にパソコンの電源を落として席を立った。
もう帰るのか、粘着質な視線が二つ三つ追いかけてくるけれど、気付かないふりをして職員室を出た。
日の沈まないうちに校門を出たのはいつ以来だろう。夕日を浴びてオレンジ色に染まった町は、息をするのも暑いけれどなぜか全てが優しげに見えた。
「先生さようならー」、道いっぱいに広がって帰る生徒達も、「こころちゃーん、走らないよー」、散歩をする親子連れも、「神々の―、微笑む天地―、空に―、山に―、愛も深く―」、並んで歌う宗教団体の信者達も、その笑顔以上に楽しそうに見える。
私も傍から見ればいそいそとしているように見えるのだろうか。仕事をさっさと片付けて遊びに出かけるウキウキOL。
実のところ、今週中に片付けなければいけない雑務は山ほどあった。けれど、今日はもうとてもじゃないが仕事をする精神状態じゃない。かといって家までこの気持ちを持ち帰る気にもなれず……。
歩行者信号の点滅する横断歩道に駆け込んだ。
そのまま学校に併設されているスポーツ公園に足を踏み入れる。
考え事をする時はいつも足を向けてしまうこの公園。正式名称は確か、B町市立スポーツ公園といったか。野球場とサッカー場と陸上競技場とテニスコートが四面設置されており、緑地広場の外周はジョギングコースになっている。長大なコース上には1キロメートルごとに動物の石像が設置されているため、自分が走った距離がわかりやすい。
私のスタート地点はいつもクジラと決めている。ウォーキングに勤しむ高齢者に交じって赤茶色の舗装道路を歩き出した。
木立に西日を遮ってもらうと暑さは随分ましになる。しかし、ざわついた心はいささかもなぐ気配はなかった。バッグからスマートフォン取り出し、生徒には禁止している歩きスマホで動画を再生させた。最後の一秒、そのシーンで動画を静止させる。
画面の中からこちらを睨む髭面の男と目が合った。
そうか、お前の名前は佐原悟というのか。まさか、こんな近くにいたなんて。
「……随分痩せたな」
乱れた頭髪に無精髭、面貌はかなり変わっているけれど死霊を思わせる寒気のするような眼の光は変わっていない。
ずっと記憶の底に押し込めていた、この目。
決して思い出さないように厳重に記憶に蓋をして沈めていた、この目。
じっと見ていると息が苦しくなってくる。首を絞められるのではく無意識に自分で息を止めてしまうような、この感覚。
十年前に初めて会った、あの時と同じだ。
「お父さん、今日も遅くなるって」
お母さんがこの言葉を口にすると、家の中の空気が凍りついた。
お父さんの帰りが遅くなり始めたのは、私が中学二年に上がった頃だった。いつも夕食前には帰っていたお父さんが外で食事を済ますようになり、徐々に出張と休日出勤が増えていった。
部署が変わったからだ。人が辞めたからだ。お父さんはその都度言い訳をしていたけれど、男の嘘は女には通じない。
外に女ができた。私もお母さんもすぐに気が付いた。
それから、我が家の生活は少しずつ変わっていった。お父さんとお母さんの間で口論が増えた。冬と夏の家族旅行がなくなった。週に一度の外食に行かなくなった。お母さんが笑わなくなった。
これらの変化は決して一度に訪れたものではなかったが、少しずつ我が家の酸素を削り取るようにして家族を圧迫し余裕を奪っていった。
「お父さん、今日も遅くなるって」
いつしか、お母さんのスマートフォンが鳴ると家族に緊張が走るようになっていた。
私が高校生になると、お父さんはついに家に帰らなくなった。お母さんの酒量が増え、酔う度にお母さんは父さんの呪いの言葉を吐くようになった。
「死ねばいいのに……」
その言葉を私は自分が呪われているような感覚に襲われた。
そんなある日の夕食前、またお母さんのスマートフォンが鳴った。メールではなく電話の着信だった。すぐにお父さんからだとわかった。その頃にはすでに離婚の二文字を明確に意識していたので、ついにその日が来たかと覚悟したけれど、電話を切ったお母さんの表情はいつもと少し違っていた。
「お父さん、病院に運ばれたんだって」
それは、お父さんが入院したという知らせだった。
罰が当たったのか、それともお母さんの呪いが効いたのか、元々酒好きだったお父さんは職場で急に眩暈を起こして倒れ緊急病院に運び込まれたらしい。手術の結果なんとか一命は取り留めたものの、脳に障害が残ったらしく長期間のリハビリが必要になるとのことだった。
お母さんの話を聞きながら、私は喜びの感情が湧き上がってくるのを抑えることができなかった。
これで家族に平和が訪れる、そう思った。いつ終わるともしれないリハビリに不倫女が付き合うとは思えない。これで女がいなくなる。これでお父さんが帰ってくる。これでお母さんが笑ってくれる。またこれから家族三人で暮らせるようになる。また一緒に夕飯が食べられる。旅行ができる。
しかし、そんな私の無邪気な夢想は、次の瞬間にお母さんが漏らした呟きによって粉々に打ち砕かれることになる。
「……面倒くさっ。そのまま死ねよ」
「
不意に後ろから声をかけられて我に返った。
わざと低い声を絞り出したような不自然な声。無理をして大人の声真似をしているのだろう。振り向くと部活終わりと思しき学校指定のジャージ姿の一団が、鬼の首を取ったように囃し立てていた。
「ごめん、教頭には内緒にしといて」
そう答えると、どっと笑いが湧き上がり生徒達は肩を叩き合いながら帰って行った。
楽しそうだな。ふざけ合う若者の後姿を眩しい思いで見送った。正直羨ましい。私が高校生の頃はあんなに能天気に笑えただろうか。
またスマートフォンを開く。画面はずっと変わらない。佐原悟がこっちを見ている。クジラの石像をぺちりと叩き、人影もまばらな赤茶色の舗装道路を歩き出した。
意識はまた十年前のあの日に飛ぶ。
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