二章 有沢美織 (ありさわ みおり)3
「先生言ったよね、あいつが
……ああ、しまった。
「言った、よね」
……やっぱり、聞かれていたか。
「莉子を殺したのがあのお父さんなら、きっとお母さんだってそうじゃないですか」
どうかしていた。あんなことを生徒の前で口走ってしまうなんて。どうする? どう取り繕う?
「そうでしょ、先生」
「待って。鈴前、私はそんなこと言ってないよ」
「はい?」
「私は、
「嘘! 言いましたよ」
「言ってない」
「言ったじゃないですか!」
ごめん、言った。でも、認めるわけにはいかない。
実際、あれはただの気の迷いだ。自分でも何であんなことを口走ってしまったのかわからない。なんの根拠もない偏見に満ちた直感、そんなものを教師の発言とするわけにはいかない。
「なんで? なんで、そんなこと言うんですか。私、確かに聞いたのに」
「だとしたら、
「そんな……」
鈴前の顔に失望の色が差す。一瞬心が痛んだけれど、これ以上鈴前に佐原悟への興味を持たせるわけにはいかない。あの男には誰も近付けてはならないのだ。
なぜこんなことを思うのだろう。やはり私は佐原悟に会ったことがあるのだろうか。
だとすれば、どこで? いつ?
「先生、お願い。嘘つかないで」
「嘘なんかついてないよ。相談はそれだけ?」
「待って、帰そうとしないで。私、怖いんです」
椅子から立ち上がった私の意図を敏感に察したのだろうか、鈴前は後ずさり、
「次は、きっと私が殺されるんです!」
悲鳴にも似た叫び声を張り上げた。
「……殺される?」
「お願い、先生……」
鈴前の大きな瞳にぶわっと涙の膜が膨れ上がる。
「どういうことよ、それ」
「これ、見てください」
鬼気迫る表情で鈴前が出してきたのは青いカバーのスマートフォン。直前まで見ていたのだろう、スイープ一つで望む画面を呼び出して再生のアイコンをタップした。
『やめて、悟さん!』
途端に部室に女の悲鳴が走る。スマートフォンの画面に、怯える女を容赦なく蹴りつける男の姿が映し出された。
「これ、もしかして……」
「莉子の家の小屋で撮った動画です」
「撮影してたの?」
「はい。莉子の家って、その、ちょっとおかしかったじゃないですか。色々と。だからいつ何が起きてもいいように準備してたんです」
「そんなことを……」
一瞬、鈴前が違う生き物のように見えた。今時の子は何でもすぐに動画に撮ろうとするから気を付けろと一時期盛岡教頭が口癖のように繰り返していたけれど、まさか本当に実行する子がいるなんて。画面を見つめる鈴前の顔に悪びれた様子は微塵もない。ただただ怯え自分の身だけを案じている。
これが今時の子の倫理観なのか。正直引いた。
『鈴前早く!』
私の怒鳴り声を最後にして動画は唐突に終了した。
撮影時間は莉子のお父さんがお母さんを殴り始めてから、私達が小屋を逃げ出すまでの数秒間。思い出した。この時鈴前だけが逃げ遅れていたんだ。てっきり、恐怖で足が竦んでいたのかと思っていたけれど、これを撮影していたからなのか。
「先生、見てくれました?」
「見たけど、これがどうしたの。これでなんで鈴前が殺されるの?」
「私、莉子の家から帰ってから何回もこの動画見たんです。怖かったけど、なんか見ちゃって。それで不思議に思ってたんです。なんで、このお父さんはこんなにキレてるのかなって」
「なんでって……」
一瞬、教師にあるまじき言葉が口をつきそうになった。決して生徒や同僚の前で口にしてはいけない言葉。
この男が狂っているからだ。頭のおかしい生まれついての危険人物だからだ。決して近づいてはならない人種だからだ。
「最初は私達が勝手に小屋に入ったからかなって思ったんです。ほら、あの小屋鍵がかかってたでしょ。あそこきっとお父さんの部屋だったんですよ。で、莉子のお母さんが鍵を壊して無理矢理壊して入って行ったから」
「はあ……」
「でも、それだったらお母さんだけじゃなくて私達にも怒らないと変じゃないですか」
変じゃない。この男がキレるのにまっとうな理由なんていらない。こいつはそういう類の男なんだ。
「で、気付いたんです。ここ見てください」
鈴前はもう一度動画を再生させると、何度も見たシーンなのだろう、慣れた手付きでシークバーに指を這わせ、四秒の位置でぴたりと止めた。画面の中で父親が手斧を振り上げている。
「先生ここです、見てください」
鈴前がスマートフォンを突き出してくる。腕をはたきそうになった。もうやめて。この男の顔はもう見たくない。体がこの男を拒否している。
『お前も悪魔に憑りつかれている』
その言葉の直後フルパワーで斧は振り下ろされ、母親の髪をかすめて傍らに落ちていたスマートフォンを砕いた。
「このシーン、最初に見た時はお父さんが狙いを外したんだと思ったんです。でも、違うくて。ほら、この後も何度も何度もスマホを叩いてるでしょ」
鈴前の言う通り、父親は完全にスマートフォンに狙いを定めて斧を振るっているように見える。それも恐ろしいまでの執念で。すでに真っ二つに裂けて用をなさなくなった電話に向かってしつこいほどに打撃を加えていた。
「私思ったんです。このお父さんが怒ってるのってお母さんが写真を撮ろうとしてたからなんじゃないかって」
「写真?」
「はい。この時私達って、莉子のお母さんにしつこく言われて記念写真撮ろうとしてたじゃないですか」
「ああ、そうだったね」
思い出したくもない。薄気味悪い離れの小屋。冷房もないのにやたら寒くて空気が重くて湿っぽい小部屋。そこで記念写真を撮ろうとしつこく迫られたのだ。
手斧を片手に。
「あの時の莉子のお母さんって、物凄く焦ってましたよね。まるで何か追い立てられているみたいに写真を撮ろう写真を撮ろうって土下座までして。明らかに異常だったじゃないですか」
「そうだね、あれは異常だった」
「それで、その、うまく言えないんですけど、あのお母さんにとってあの場所で写真を撮ることってすごく意味のあることだったんじゃないかって思ったんです。先生も見たでしょ、あの小屋。すごく気持ち悪かった。まるで呪いの祭壇って感じで。あの小屋って、莉子のお父さんにとって聖域みたいなものだったんじゃないですかね」
「聖域……」
「はい。あそこはお父さんにとっての聖域で、写真を撮る行為はその聖域を決定的に犯す行為なんじゃないかって思うんです。莉子のお母さんは写真を撮ることによって、お父さんの聖域を汚そうとしたんですよ」
「……なんで、そんなことを?」
「それは、まだわかりません。でも、とにかくお父さんはタブーを犯したお母さんに激怒して、それでスマートフォンはしつこいほど徹底的に壊されて、お母さんも殺された」
「……そして、撮影をしているのは鈴前も同じ」
「私、逃げる前にお父さんと目が合ったんです。あいつ、私が撮影していたことに気付いていたはずです」
「だから、佐原さんの次の標的は鈴前ってことか」
「そうなんです! ねえ、先生。私どうしたらいいですか?」
「どうって……」
今にも泣き出しそうな鈴前に迫られて、私は堪らずに視線を宙に逃がした。
本気で言ってるのか、この子は?
正直、がっかりだった。聞いて損をした。あの気味悪い小屋は撮影禁止の聖域であり、その禁を破ったものは佐原悟に片っ端から殺される。そんな荒唐無稽なことが現実に起こると本気で思っているのか?
一考するふりをして、鈴前の顔を盗み見た。色素の薄い瞳がふるふると震えていた。
鈴前は賢い子だ。成績だって悪くない。しかし、そんな生徒に限って思春期特有の悲劇的な妄想に囚われやすいのもまた事実。家庭内暴力が行き過ぎて父親が母親を殺したというならまだしも、そこからそばにいただけの自分まで殺されると考えるのはいくらなんでも飛躍し過ぎだろう。
「先生、どうですか?」
もう一度、鼻から息を吸い込んだ。さあ、どうしよう。この悲劇のヒロイン気取りをどう言いくるめたものだろう。
『鈴前、早く!』
またスマートフォンから私の怒鳴り声が迸る。そして、振り返る父親の顔を最後に捉えて再生は終了する。
「――っ」
その瞬間、頭の中で何かが弾ける音がした。
「鈴前、もう一度動画見せて。最後のところ」
「え?」
「早く!」
「は、はい」
腕ごとひったくるようにして、スマートフォンを覗き込む。また、また頭の中で音が鳴った。それは多分、記憶の蓋が外れる音。
「もう一回。今度は最初から」
「あの先生、動画送りましょうか?」
「ちょうだい」
送信された動画を今度は自分のスマートフォンで再生させた。何度も何度も。見る度に頭の中の音は大きくなる。軋みを上げて重い蓋がこじ開けられる。
そして。
「……ああ」
「先生? どうかしました?」
思い出した。
「先生?」
そうだ。どうして今まで忘れていたのだろう。
こんな大事なことをどうして……。
「ねえ、先生。どうしたの?」
「鈴前、この動画誰かに見せた?」
「え?」
「他の部員とか、家族とかに見せた?」
「いえ、誰にも……」
「そう、よかった。いい? このことは誰にも言っちゃだめよ。友達にも家族にも誰にも」
「あ、え?」
「後、今すぐこの動画を消しなさい」
「そんな! なんで?」
「常識で考えなさい、撮影したから殺されるなんてそんなことがあるはずないでしょう。こんな動画を持ってるからそんな妄想に囚われるのよ。あなた来年受験でしょ、こんなことに割いてる時間はないはずよ」
「でも……」
「鈴前」
「……はい」
もっと抵抗されるかと思ったけれど、存外素直に鈴前は私の目の前でメモリーを削除した。ただ、心底納得しているわけではないことは表情から簡単に見て取れる。頭ごなし、そうとられてもしょうがないだろう。
ごめんね、鈴前。でも、やっぱりこの件にあなたを深入りさせるわけにはいかないの。
「じゃあ、もう帰りなさい。このことは絶対誰にも言っちゃだめよ」
「はい……あの」
「何?」
「いえ、なんでもないです。さよなら」
帰りがけに振り返った鈴前の表情は、部室に入る前より不安の色が増しているように見えた。
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