二章 有沢美織 (ありさわ みおり)2

 活動停止中の部室は相談事にはうってつけの場所だろう。


 理科室の隣の理科準備室、そのまた隣の小部屋の扉に鍵を滑り込ませた。

「うわ、あっつい。鈴前すずまえ、エアコンつけて」

 先立って入室して照明のスイッチを叩く。強烈な西日がカーテンを透かして部室をオレンジ色に染めていた。

「部室入るの久しぶりです。一週間ぶり……いや、もっとか。十日とかぶりぐらいかな」

 壁に設置されたエアコンの操作パネルをいじりながら、鈴前が懐かしそうに部室を見回す。

「私は二週間ぶりか、三週間ぶりってとこかな」

 天文部の主な活動は夜間の天体観察だ。当然、他の部のように放課後毎日などというわけにはいかず、観察の頻度はせいぜい二月に一回程度。それ以外の時間は部員だけで部室に集まって図鑑を読んだり専門書を読んだりと、天体に関する勉強にあててもらっている。

 あくまで、表向きにはだが。

 遊びたい盛りの高校生が集まって大人しく座学でもないだろう。実際に開いているのは本ではなくスマートフォンか、漫画か、カードゲームか、あるいはお菓子の袋か。

 私はそれでいいと思っている。天文部には他の部活と違って大会がない。青春のエネルギーを燃やすチャンスがない。であればせめて、気の合う仲間と放課後楽しく過ごせる空間を提供できれば。そんな思いで私は常に部室を解放してきた。教師が目を光らせていれば話せることも話せなくなるだろうと思い、なるべく部室には顔を出さず備品の管理も一任してきた。そうやって、一般的に地味なメンバーで構成されがちな天文部に、ささやかな憩いの場を作ってきたつもりだった。

 実際、試みはうまくいったと思っている。不登校気味の莉子りこも部活にだけは顔を出してくれていた。莉子を完全な不登校にさせない最後の砦、それが天文部の部室だったのだ。

 もちろん、盛岡もりおか先生は難色を示した。授業に出ない生徒を部活にだけ参加させていいのか、顔を合わせる度にそう言われた。『職員会議』、『教育委員会』、脅しとも取れる単語をチラつかせながら。

 それでも、私は守り抜いたのだ。莉子と学校の唯一の繋がりを。それなのに、なぜ莉子は……ああ、いけない。


「よし。じゃあ、座って。話って何?」

 生徒に暗い顔を見せるわけにはいかない。

 深呼吸一つで気持ちを切り替えて椅子を引くと、

「あ、それ――」

 思わずといったふうに鈴前が声を上げた。

 鈴前が見ているのは私が引いた椅子の座面に敷かれた青い花柄の座布団。途端に甘い香りの記憶が鼻を掠める。

「そうか。この座布団、莉子のだったよね」

「はい」

「後でお家の方に届けておくね」

 もちろん、郵送で。部室に椅子は六脚、その全てに色違いの花柄の座布団が置かれていた。六つとも手先が器用だった莉子の手作りだった。

「何か懐かしいね。いつだったっけ、莉子がこれ持ってきたの。最初はすごくいい匂いがしてたけど、もうすっかり消えちゃってるね」 

「はい。これ匂い付きクッションだったんですよね。いい匂いだったけど、さすがに六つも集まると匂いが強すぎて」

「天文部の部室から異臭がするって騒ぎになったのよね。教頭がすっ飛んで来て説明するの大変だったわぁ」

「莉子本人は幸せの香りって言ってました。だから、いっぱい振りかけちゃったって。ねえ、先生知ってました? このクッションって全員分のイメージカラーで作ってきてくれてるんです。私が緑でほたるがグレー。ピンクは智恵理ちえりで赤がしば。先生は紫、莉子は……莉子は……青です」

 莉子の座布団をなでながら鈴前は涙声を漏らした。

「鈴前……」

「ごめんなさい」

 やはり、部活動を停止して正解だったようだ。この部屋にはあまりにも莉子の思い出が多すぎる。

 座布団だけじゃない。例えば壁に立てかけられた文化祭の展示用パネル。絵も上手かった莉子が月の満ち欠けのイラストをほとんど一人で仕上げた力作だった。初披露してくれた時の満足げな笑顔が今でもパネルの横に浮かんで見える。

 日食観察の時に撮った記念写真。部員全員がサングラスのような日食観察眼鏡をつけて笑っている。似合っていると褒められた莉子は嬉しがって日食が終わったあともずっと外そうとしなかった。

 その写真が貼り付けられているインクの跡ひとつないホワイトボードも、会議で使用する度に莉子が真っ白に磨いてくれていた。「私、ホワイトボードの消し残しが許せないんですよね」、そう言って私が消した後のボードをムキになって擦っていた。

 手入れの行き届いた天体望遠鏡。観測練習の度に愛犬でも抱くように愛おしそうに抱えて他の誰にも触らせようとしなかった。

この部室の至るところに莉子の思い出が生きている。今にも莉子の声が聞こえてくるかのようだ。

 散りばめられた莉子の面影を順々に辿っていくと、自然と壁に掛けられたコルクボードに目が向いた。貼り付けられた無数の観測写真の中でも一際目を引く一枚、赤銅色の満月と斜め下にかすかに光る小さな光。去年の冬、四四二年ぶりに同時に起こった皆既月食と天王星食を一つのフレームに収めた会心の作品だった。

「これが撮れたのも莉子のおかげでしたよね」

 同じ一枚を見つめていた鈴前が悲しそうに呟いた。

「よく覚えてるわぁ、この時のことは」

 去年の一月に起こった皆既月食と天王星食の同時発生は、安土桃山時代以来の天体ショーともてはやされ、世間からも高い注目を浴びていた。去年発足した宝梅高校天文部とっても初めての本格的な遠出の夜間観察であり、部員全員大いに盛り上がったものだった。

 が、あいにく天候は三日前から大荒れ。当日の朝になんとか雨は上がったものの、気象庁は一日雲が引くことはないだろうと残酷な予報を出していた。

 持ってない。どんよりと広がる雲を見上げながら部員の誰もが肩を落としたが、莉子だけは違った。いそいそと準備を整えながら「大丈夫。きっと晴れるよ」と断言していた。

「空に詳しい莉子が言うんだから、絶対に何か科学的な根拠があるんだろうなって思いましたよね」

「本当に。まさかの御まじないだもん。真に受けてレンタカー借りてきちゃってたから、それ聞いた時はゾッとしたわ」

 車を借りてしまった以上は後には引けない。駄目もとで出発してみたらしかし、嘘のように空は晴れた。

 それからだ。莉子の御まじないは天体観測の恒例行事となった。車内でみんなで唱えたら必ず毎回夜空は晴れた。

 伝統が生まれる瞬間に立ち会えたのだと思った。今年は一年生が入部しなかったけれど、この御まじないは必ず次の世代に引き継がれる。そして、この月食の写真は天文部の伝統の始まりを記す記念碑的な一枚になるはずだった。

 それなのに――。

「楽しかったですね、この頃は」

「うん、楽しかったね」

 なぜ、今はこんな悲しい気持ちでこの写真を眺めなくてはいけないのだろう。なんで私達はこんなことになってしまったのだろう。

「……ねえ、先生。莉子のお母さんが自殺したって本当ですか?」

 唐突に鈴前が話題を切り替えた。引いた椅子に座るでもなく、背もたれに両手を乗せている。視線を合わせると、鈴前は素早く目を伏せる。相談が始まったのだと思った。

「本当だよ。少し前に警察から連絡があって。そう言われた」

「それって本当に自殺なんですか?」

「どういうこと?」

「…………」

「鈴前?」 

「……殺されたんじゃないんですか? あの、お父さんに」

 やっぱり話はこのことだったか。佐原のお母さんの訃報を聞いた時から、誰かが言い出すのではと思っていた。

 ゆっくりと鼻から息を吸い込んだ。ここは慎重に対応しなければ。興味を持たせてはならない。あの危険な家に生徒を近付けてはならない。

「なんでそう思うの?」

「だって! 先生だって見たでしょ。あのお父さんまともじゃなかったよ。あんなに人が殴られてるの初めて見た」

 昨日のことを思い出しているのだろう、椅子の背を掴む鈴前の手に力がこもった。

「お母さんって、私達が帰った後に死んだんですよね。絶対あのまま殺されてるじゃないですか。昨日のこと警察には話したんですか?」

「もちろんよ。警察は一人娘の病死と、父親の暴力が自殺の原因と判断したみたい」

「絶対違う。あいつが殺したんだよ。やっぱり、あの時に引き返してたら……」

「鈴前、昨日も言ったでしょ。あの家には関わっちゃだめ。それに証拠もないのに滅多なこと言うもんじゃないよ」

「証拠ならあるじゃないですか、私達見たんだから」

「何も見てないでしょ。私達が見たのはお父さんがお母さんを叩いてたところだけ。確かに、あの時お父さんは異常だったと思う。でも、警察が自殺だって判断してるんだから自殺なのよ」

「でも」

「そりゃドラマや映画の中の警察はしょっちゅう自殺と殺人を間違えるけどね。でも、わかってるでしょ。フィクションってのは現実では起こらないことを描くものなのよ」

「………」

「ねえ、考えてみてよ。あんたならわかるでしょ。仮にあのままお母さんが殺されたとして、その後に警察を欺けるほどの精度で自殺に偽装できるほどお父さんは冷静だった?」

「…………」

「そう思わない、鈴前?」

「でも――」

「でも、何?」

「先生言ったよね、あいつが莉子を殺したんだって」 

 ……ああ、しまった。

「言った、よね」


 ……やっぱり、聞かれていたか。

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