二章 有沢美織 (ありさわ みおり)1
「は? 自殺?」
翌日、放課後の職員室。
私を机の横に立たせ、片耳だけで報告を聞いていた教頭の
「な、何それ、どういうこと?」
「どういうことなのかは私にも。何しろ今警察から連絡を受けたばかりでして。とにかく、
「く、首って。だいたい、なんで警察から君に連絡があるの? 担任でもないのに」
「おそらく、昨日私が佐原さんのお宅に訪問したせいだと思います。前日に電話連絡を入れましたし」
「ああ、そういうことか……君、何もしてないよね?」
「はい?」
老眼鏡をずりさげて、フレームの上から覗き込むようにして盛岡教頭がこちらを見る。
「まさかとは思うけどさ、佐原さんに変なことしてないよね?」
「してません。むしろされた方です。突然手斧を持ち出して暴れ出して」
「は? は? 手斧ってどうこと?」
「わからないんです。佐原さんのお母様と話していたら突然父親が帰ってきて、手斧を持って暴れ出したんです」
「ちょっと、なにそれ。なんでもっと早く言わないの」
「すみません、教頭が出張中だったもので」
「それでも電話くらいできるでしょ。手斧って、暴行事件だからね、それ。本当に父親だったの?」
「は、はい、名簿で確認しました。母親が名前を呼んでいましたので、父親の佐原悟で間違いないと思います。とにかく、話もできない剣幕で。生徒もいたのですぐに逃げてきました」
「待って、生徒ってなに? まさか生徒連れて行ったの?」
しまった。これはわざわざ言うべきじゃなかったか。
「聞いてないよ、生徒を連れ出すならちゃんと事前に許可を取らないとだめだろう」
「ですが、教頭が出張中だったから――」
「だから、連れ出すべきじゃないって言ってんのよ。本当に怪我はなかったの? 生徒の親御さんは何も言ってきてない?」
「それは、はい。大丈夫です」
「ならいいけど。いつも言ってるでしょ、何かあったら遅滞なく報告しなさいって」
「……すみません」
「まったく、これは問題だよ。規則を破って生徒を連れ出したこと、保護者とのトラブルを黙っていたこと。もう無茶苦茶だなぁ」
盛岡教頭は老眼鏡を机に放り出し、両手で顔全体を揉むように擦ると、
「こりゃあ、もうタブレットは返ってこないな」
指の隙間からボツリとそう漏らした。
……やっぱり、そこに辿り着くのか。恐れていた事態がそのままやってきた。内臓が石化したように胸の奥がズンと重くなった。
「参ったなあ。あんな高い物なくしましたじゃすまないからね。なんで持ち帰らせちゃったりするかなあ」
「あ、あの、盛岡先生」
「いい、いい。後は校長と話すから。いや、でもこれは本当に問題だぞ。だから一部活にパソコンなんか買うのは反対だったんだよ。来年からは考えないとなあ」
最後の一言は職員室全体向けて放ったのだろう、盛岡教頭は大きく息を吐き出すと再びノートパソコンに向き直った。話は終わりという意思表示だ。
「失礼します」
職員室中の視線を感じながら、私は頭を下げた。
「……どうだった?」
自席につくとすぐに同期の
「やっぱりかあ。うわー……」
松本先生は言葉の最後を溜息に変えて天井に向かって放出した。発音されなくても溜息の深さと色で言いたいことはだいたいわかる。
『最悪』だ。
B町高校の盛岡教頭は管理の鬼だ。部下の失点は絶対に見逃さないし、いつまでだって忘れない。自分に責任が及ぶことを恐ろしく嫌い、リスクの種は徹頭徹尾排除する。B町高校で何か新しいことを始めようとすれば最初に反対するのが盛岡教頭であり、最後まで抵抗するのも盛岡教頭なのだ。
職員会議で各部活に一つパソコンを学校から支給するという提案が上げられた時も、無くしたらどうする? 盗まれたらどうする? ハッキングされたら? ウィルスに感染したら? と思いつく限りのネガティブな事象をあげ、可決の際も渋々といった体を最後まで崩さなかった。盛岡教頭にとってみれば今回のことは言わんこっちゃないに尽きるのだろう。
これで来年からはパソコンの配布が禁止になる。しかし、今時の部活にパソコンは不可欠だ。自然、購入は顧問の自腹ということになる。
最悪だ。
それだけではない。問題が起きた以上二度と類似災害が起きないように対策を立てろと厳命される。また余計な会議が増える。余計なルールが増え、余計な書類が増え、余計な雑務が増え、給与に反映されない残業が増える。そして、私は教員全員から恨まれる。
最悪だ。本当に最悪だ。
やはり、盛岡先生に報告する前にもう一度佐原家に向かってタブレットを回収してくるべきだったのだろうか。
「……無理」
思わず声が漏れた。想像するだけで怖気が足元からせり上がってくる。
あの家にはもう行ってはならない。本能がそう警告している。
佐原悟。背の高い筋肉質な髭面の男――あの男は危険だ。
昨日、佐原家であの男の姿を見た瞬間、血が逆流するような恐怖を感じた。あの男には決して近づいてはならないのだ。
なぜだろう、私の体にはすでに佐原悟の恐怖がインプットされていた。私はあの男に会ったことがあるのだろうか。保護者会にも三者面談にも一度も顔を見せていないはずなのに。
喉が鳴った。胸の奥が少しずつ捻じれ始める。
彼の声が聞きたい。疼くようにそう思った。
スリ師のような手つきでポケットからスマートフォンを引き出す。最近はめっきり電話に出ることもなくなった彼。画面に指を這わせると発信履歴にびっしりと彼の名前が並んでいた。届くことなく弾き返され続けた私の想いの残骸だ。
でも、今なら。今、このタイミングなら出てくれるかもしれない。いや、やっぱりだめだ。どうせ無理に決まっている。
理性に逆らって右手はスマートフォンを握っていた。
やめろ、どうせ無駄なのに。どうせ無視されて傷つくだけなのに。誰にも届かないコール音を耳元で聞くのは虚しい。耳孔に侵入した音がまるで喉に纏わりつくようで、重なる度に息が苦しくなっていく。もうあんな気持ちは味わいたくない。
味わいたくないはずなのになぜスマートフォンをポケットに忍ばせている?
なぜ足音を消すようにして職員室を出る?
なぜ後ろ手に扉を閉める?
なぜ人気のない場所を求めて足を速める?
やめろ、どうせ虚しくなるだけなのに。心をかき乱されるだけなのに。また届かない発信履歴に彼の名前が増える。心の錘がまた増える。もう、いやだ。心がもたない。誰か止めて。誰か――。
「待ってください、有沢先生!」
乞い願ったはずの制止の言葉に心臓を潰されそうになった。振り返ると廊下を小走りでやってくるのは、
「鈴前? どうしたの、まだ学校に残ってたの?」
「はい。あの、先生。ちょっといいですか。どうしても話したいことがあって」
周りを憚るように声を落とし、見たこともないような強張った顔で鈴前は懇願する。
胸はまだ捻じれている。耳は水を求める遭難者のように彼の声を欲していたけれど、
「いいよ、部室行こっか」
私はまだギリギリ聖職者でいられたようだ。
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