一章 鈴前 七楓 (すずまえ ななか)5

「……何をやっている」


 いつからそこにいたのだろう、男が戸口に立っていた。

 背が高い。鴨居に頭がつきそうだ。口髭が顎鬚まで繋がった体格のいい中年の男。

さとるさん……」

声が聞こえた瞬間に莉子りこのお母さんの顔色が変わった。

「ち、違うの、あなた。これは」

「馬鹿野郎!」

 お母さんが何かを言うより早く、男はいきなり顔面を平手で叩いた。ばしっと乾いた音が小屋に響く。続けて二発三発四発、五発。

「痛いっ。待って、許して悟さん。お願い、痛いっ」

 悟と呼ばれた髭面の男は、莉子のお母さんに一切の弁明を許さずフルスイングの打撃を加えた。打たれる度にお母さんは短い悲鳴を上げゴザの上を転がる。

 私は、身動き一つ取れなかった。大人の暴力を目の当たりにしたのは初めてだった。恐怖で気道が詰まる。声が出せない。でも、止めないと。

 「だめよ、鈴前すずまえ!」

 割って入ろうとした腕を有沢ありさわ先生に掴まれて引き戻された。

「あいつに近づいちゃ、ダメ」

 なぜ? そう問おうとして血の気が引いた。男の手に、さっきまで莉子のお母さんが持っていた手斧が握られていたからだ。

「……やめて、あなた。お願い」

 懇願ずるお母さんを見下ろしながら男はゆっくりと斧を振り上げた。

 胃液が上ってきた。マズい。これは本当にしゃれにならない。止めないと。

 でも、動けない。怖くて足が動かない。動いたとしてどうする? 止めに入ったとしても斧に頭を割られるのが私に代わるだけだ。どうすればいい。とっさに手がポケット探っていた。

「やめて、悟さん!」

「お前も悪魔に憑りつかれている」

 躊躇なく男は斧を振り下ろした。

 一瞬、鮮血が飛び散る様が目に浮かんだが、実際に手斧が打ち下ろされたのは莉子のお母さんの頭ではなく、傍らに転がるスマートフォンだった。ぐちゃりと耳障りな音を立てて電子機器が真っ二つに裂けた。

 外した――のではないのだろう。

 その証拠に男は折れたスマートフォンを目がけて何度も何度も執拗に斧を振り下ろしている。 

「やめてぇ!」

 そして、莉子のお母さんはそこが己の臓腑であるかのように悲鳴をあげて取りすがっている。男はその体を蹴り飛ばし、また手斧を振り下ろす。

「みんな逃げて!」

 有沢先生の声が小屋に響いた。それでも男は憑かれたように斧を振るい続けていた。なんだ、この男。何でこんなおかしなことをやっているんだ……。

「鈴前早く!」

 ああ、違う。おかしいことをやっているのは私の方だ。

 逃げないと、早く。振り返れば皆はすでに駆け出している。無我夢中で後を追った。



 転がるように小屋から飛び出した。

 庭を抜け、門を抜け、そのまま道路を走りに走った。どう走ったかは覚えていない。目の前を走る誰かの背中をひたすらに追いかけて、

「みんな待って! もう無理、走れない」

 気が付けば池の畔の砂利道に崩れ落ちていた。私の声を合図にするように皆もばらばらと道に転がる。

 目が回る。喉が苦しい。息をつくたびに肺が裂けるように痛む。忘れていた汗が全身からどっと噴き出してきた。暑い。日の光も空気も砂利道も体も全部が熱い。熱いと感じることができて心底ホッした。

「みんな大丈夫? 怪我はない?」

 有沢先生が額の汗を拭いながら部員達の様子を見回した。 

「なんなんだよ、あの家。マジわけわかんねえよ」

 ようやく息の整ったしばが池のフェンスによっかかるようにして立ち上がった。

「大丈夫じゃないよ。あたし、めっちゃ怖かった。まだ足震えてるもん。あれ誰? 途中で入ってきたおっさん。あれが莉子パパなん?」

 智恵理ちえりは立つことを諦めたようだ。砂利道にしゃがみ込んだまま自分を抱き締めるように両の二の腕を握りしめている。

「親父さんもたいがいだけど、お母さんの方もヤバかったでしょ。普通じゃなかったよ」

 あの家でのどんな出来事を思い出しているのだろう。ほたるも珍しく顔を顰めて感情を昂ぶらせている様子だ。

 全員が全員、口々に何がしかの文句を吐き出している。つまりみんな無事ということだ。

 よかった。安堵で背筋の力が抜ける。全員何事もなくて、本当によかった。

 いや、違うか。みんなじゃなかった。心配な人があと一人……。

「莉子のお母さん、大丈夫だったかな?」

「はあ?」

 至極まっとうな思いを口にしたつもりだったけれど、私を振り返るみんなの表情には驚愕を通り越して呆れの色さえ浮かんでいた。

「嘘でしょ、七楓ななか。今、莉子ママの心配出てくる?」

「でもだって、みんなも見たでしょ。莉子のお母さん、お父さんにめっちゃ殴られてたじゃん。様子見に行った方がいいんじゃ……」

「バカバカバカ、逃げてきたばっかなのに戻ってどうすんだよ! あの家はガチでヤバいから。莉子が不登校になった理由がわかったわ。あんなのが両親だったら俺だってストレスで病気になって死んじまうわ。あり得ねえ、まじであり得ねえわ」

 無抵抗のまま逃げ出したことに男としての矜持を傷つけられたのだろうか、芝が語気も荒く捲し立てる。しかし、その声は隠しようもないくらいに震えていた。

怖いのはかくいう私も同じだ。まだ手の震えが収まらない。スマートフォンをひしゃげるほど強く握りしめたままガタガタと――。


「病気じゃないよ。あいつが莉子を殺したんだ」


 ……え、今の何? 

 誰が言った?

 確認しようと顔を上げるも、

「てゆーかさ、これって警察とか連絡した方がいいんじゃないの?」

「あ、あたしもそれ思った! 普通に犯罪じゃん、こんなの」

「あの父親、斧構えてもんな!」

 みんなの興味はもっと強い話題へと移っていた。

「ねえ、先生。あたしが通報してもいい?」

「だめよ、絶対だめ! 逆恨みされたらどうするの。後の対応は学校側でするから。みんなはもうあの家に関わらないこと。わかった?」

「対応って……どんな?」

 智恵理に問われて先生が腕を組む。

「まあ、そうね。最終的には教頭先生と相談してからの判断になるけど、手斧まで持ち出された以上はやっぱり警察に連絡することになるでしょうね。今日は教頭不在だから明日か。明日警察に相談します。さ、わかったらもう帰るよ。みんな立って」

 ぱしぱしと手を叩き、有沢先生は部員を立たせる。

「ねえ、先生。マジで通報することになったらグループラインで教えてよ。逮捕の瞬間見に行きてー」

「だから、ダメだって言ってるでしょ!」

 芝の軽口を先生が真顔で窘めた。

 もちろんそれが冗談であることはみんなわかっていたけれど、次の日夕方、本当に  

 天文部のグループラインの通知は鳴った。

 父親についてではない。


 莉子のお母さんが自殺したという知らせだった。


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