一章 鈴前 七楓 (すずまえ ななか)4
「ここです。ここの離れにあると思いますので、どうぞ」
いやいやいや。
無理無理無理。
勘弁してよ。なんなの、この部屋。
案内されたのは離れと呼ぶにはあまりにもお粗末な、物置のような木造の掘立小屋だった。板を張り合わせただけの乱雑な作り。窓もなく中の様子はうかがい知れない。今にも崩れ落ちそうな外観もさることながら、さっきのガンガンという音はなんだ。
「さあ、どうぞどうぞ」
もしかして、この人今、鍵を壊したの?
「どうぞ、入ってください。タブレットは、きっとここです」
もう無理だ。もう帰る。ここには絶対入れない。
だって、膝が震えるんだ。さっきからこの小屋を見ているだけで膝の震えが止まらないんだ。本能が警告している、この小屋には入っちゃだめだ。
「……では、失礼します」
嘘でしょ。なんで入っちゃうの、先生。
見れば、
ほら、先生だってわかってるんでしょ。ここがヤバい場所だって。どうしてそこまでして入ろうとするの? そんなにタブレットが大事なの?
私は嫌だ。私は絶対に入らない。
「どうしたの、
ああ、だめだ。みんなについて行かないと、ここでお母さんと二人きりにされてしまう。そんなことになるなら皆と一緒にいた方がまだマシだ。
そう思って小屋に足を踏み入れて、
「なに……ここ?」
すぐに後悔した。
窓も照明もない薄暗い小部屋。
真っ先に目に入ったのは、壁に掛けられた大きな布地だった。何かの旗なのだろうか、白地に黒で蛇のようなモチーフが描かれている。
その前には講演用の台のような物があり、木の枝の刺さった白い花瓶と空の徳利と、額縁に入れられた誰かの白黒写真が並べられていた。
一見した印象は、「儀式の部屋」だ。
花瓶も徳利も額縁も、角がひび割れている。
見えるもの全てが気持ち悪かった。薄ら寒い。外はあんなに暑かったのに冷房もない小屋の中が妙に肌寒く感じだ。
なんなんだ、この部屋は。
肌が泡立つ、呼吸が乱れる。目に見えない何かが、毛穴から体の中に染み入ってくる感じ。やっぱり警告は正しかった。ここは、いてはいけない場所なんだ。
後ろを振り返ると、戸口に佇んでいた莉子のお母さんの膝も小刻みに震えていた。
ねえ、おかしいでしょ。自分も震えが止まらなくなるような小屋にどうして連れてきたの。こんな場所にタブレットなんかあるはずないのに。
「あ、あったよ、先生。天文ブック」
あるんかい。
嘘でしょ。あるじゃん、本当に。
それは確かに見覚えのある天文ブックだった。ゴザの引かれた床の上に無造作に放り出されている。
見つかってよかったなんて微塵も思わない。
なんで、こんな所に電子機器が置いてあるんだ。
照明も電源もないようなこんな場所に。ああ、もう理由なんかはどうでもいい。とにかく早く回収してこの小屋を出たい。
「見つかってよかったですね」
真後ろから莉子のお母さんの声がした。鳥肌が電撃のように体表を駆け上っていく。弾かれるように振り返ると、何が嬉しいのだろう、お母さんは薄ら笑みを浮かべて私の真後ろに迫っていた。スマートフォンを胸の高さに構えながら。
「それじゃあ、みんなで記念写真を撮りましょう」
……は?
「今時の子はみんな写真撮るの好きでしょ。だから、はい。撮ろ」
もうやめて。今度は何を言い出したの。
「さあ、並んで並んで。撮ってあげるから」
「ちょっと、お母様。勝手に写真はやめてください」
「いいじゃないですか、先生。一枚だけ。仲良し天文部が六人全員揃った記念にね」
「だめなんです。写真撮影については学校でも指導を厳しくしています。こういうことは困ります」
「そんなこと言わずに。天文部が六人揃うなんて多分これが最後だから」
ねえ、本当にやめて。もう変なこと言わないで。天文部六人って、何? ここに天文部は先生を入れても五人しかいないでしょ。
「莉子はここで死んだんです」
「え?」
お母さんは何も見ることなくそう言った。
「莉子はこの離れで死んでいたんです。ほらちょうど、そこのタブレットがある位置に倒れていました」
――きゃあっ。
――うわぁっ。
複数の悲鳴が重なった。
まるで爆発でも起きたかのように全員が一斉にタブレットの位置から飛び退く。
「どうしたの? 何で離れたの? 莉子は友達なんでしょ。病院で死んだとでも思ってた? 違うよ。莉子はね、ここで死んだの。ここで自ら命を絶ったのよ」
「お母様、違います。莉子さんは病気で亡くなったんです」
「適当なこと言わないで! 先生に何がわかるの。病気だなんて嘘ばっかり。あの子はね、ずっと苦しんでたの。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて……なんて可哀想なの……あの子は自分で自分の命を………だからね、莉子の魂はまだこの部屋にいるの。写真を撮りましょう。今日こうして天文部が全員揃ったのは何かの奇跡なの。写真を撮りましょう。あの子を一人にしないであげて。ねえ、早く」
ああ、だめだ。涙ながらに捲し立てるお母さんの表情を見て確信した。
この人はもう、心がだめになってしまったんだ。娘を失った悲しみでだめになってしまっているんだ。
「お願いします、先生。早く、早く撮らせてください。それで全て終わるんです。お願いします。この通りですから、お願いしますお願いしますお願いします」
「ちょっと、お母様。そういうことはやめてください!」
目の前で人が土下座をするところを初めて見た。莉子のお母さんは汚れたゴザに這いつくばり、額を擦り付けて懇願する。
もう言動がまともじゃない。
これ以上何を言っても無駄なんだろう。寒い。震えが止まらない。ここはどうしてこんなに寒いんだ。もう嫌だ、早く外に出たい。
「わかりました、撮りましょう」
「先生!」
「嘘でしょ、なんで!」
「しっ」
部員達の抗議を人差し指で黙らせて、有沢先生は目線で私達の視線を誘導した。
先生の目が示したのは震えながら床に這いつくばる莉子のお母さん――の手に握られた短い斧。ついさっき入口の南京錠を壊した時に使っていた手斧だ。
漠然とした恐怖が急速に現実味を帯びていく。
先生が何を警戒しているのか、ようやく理解できた。今この人を、凶器を手にしたお母さんを刺激してはいけない。
「一枚撮ったら帰ります。それでいいですね」
「ええ、もちろんです」
「みんな並んで、急いで」
有沢先生に手を引かれ、私達は物も言わずに一列に並んだ。もうどうなってもいい。とにかく一刻も早くこの場を去りたい一心で。
「ありがとう。本当にありがとうみんな。先生もう少し右に寄ってくれる? 芝くんももっと右よ。そう、蛍くんと永見さんもその横に並んで。ああ、だめよ。七楓ちゃんは寄っちゃだめ」
どうして? どうして私は詰めないの? 私の横はなぜ人一人分空けられたの?
「そこは莉子の場所だから」
もうやめてくれ、お願いだから。
「うん、これでいいわ。ほら、笑って莉子。この写真はみんなに送るから。それでいいわよね、莉子?」
お母さんには何が見えているのだろう。誰に笑いかけているのだろう。涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を拭おうともせず、スマートフォンのカメラを構えている。
そして、シャッターを切ろうとしたその瞬間、
「……何をやっている」
いつからそこにいたのだろう、男が戸口に立っていた。
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