一章 鈴前 七楓 (すずまえ ななか)2
「本当によく来ていただきました。何もお構いできませんけれど」
仏壇に手を合わせた私達は、そのままダイニングルームに通された。
恐ろしく物が少なく、恐ろしく生活感のない部屋だった。
置かれた家具はダイニングテーブルとちゃぶ台とエアコンの三つだけ。普段の食事に利用しているであろう四人掛けのテーブルに
「本日は急に大勢で押しかけてしまって申し訳ございませんでした。莉子さんのこと改めてお悔やみを申し上げます」
「わざわざありがとうございます。告別式の後もこうしてお友達が手を合わせに来てくれるなんて、莉子も喜んでいます。暑かったでしょ、麦茶飲んでね」
勧めの言葉に従って部員達が次々と麦茶のグラスに手を伸ばす。
私は一人、両手を膝に乗せたまま莉子のお母さんの顔を覗き込んだ。
辛そうだな。ちゃんと話をするのはこれが初めてだったけれど、やつれているのがよくわかった。目にも肌にも髪の毛にも精気というものが感じられない。
たった一人の娘を失った母親はこんなにも憔悴するものなのか。多分この人は、この先一生何があっても心の底から笑うことはないのだろう。そう思うと、ただでさえ沈んでいた心がもう一段深く潜り込んだ。
「
失礼だよ、そう言いたげに有沢先生が口を尖らせるが、
「いいんです、先生。ごめんね、七楓ちゃん。あなたは人が作ったものは口にできない体質だったものね。忘れてたわ、許してね」
「あ、いえ、そんな。こっちこそ、すみません」
っていうか、私名前名乗ったっけ? それになんで人が作った物が食べられないという体質のことまで。
「天文部のことはね、莉子からなんでも聞いてるの。すぐにわかったわ、あなたが
真面目で芯が強くてしっかり――莉子は私のことをそんなふうに思ってくれていたのか。何だか、頭のてっぺんがこそばゆい。
「それからあなたは
部員達を見回しながら淀みなく言葉を紡いでいく莉子のお母さん。私は天文部のことをこんなに詳しく誰かに話したことがあっただろうか。やっぱり莉子は本当に天文部のことが大好きだったんだ。そう思うと、また涙が込み上げてきた。
「それから顧問の
そこまで喋って莉子のお母さんは唐突に麦茶のグラスをあおった。こみ上げた涙を体内に無理矢理流し戻すような飲み方だった。
「……先生、部活の莉子はどんな子でしたか?」
空のグラスを机に戻して莉子のお母さんが尋ねる。
「部活の、ですか?」
「はい、莉子は天文部の部長だったんですよね。ほら、あの子って、その……そういう役目を引き受けるタイプじゃないじゃないですか。だから不思議だったんです。教えてくださいませんか、部活のあの子はどんなふうでした?」
「そうですね、部活の莉子さんは――」
部活の――と、くどいほどに前置きがされるのは、それ以外の莉子を語りようがないからだ。
莉子は、いわゆる不登校の一歩手前の状態だった。
欠席が目立ち始めたのは一年生の一学期の終わり。授業中に突然気持ちが悪いと言って許可も得ずに教室を出て、そのまま学校を休みがちになった。二学期になって少し持ち直したけれど、結局三学期で保健室登校に切り替わり、ギリギリで二年生に進級してからは一度も授業に出られていない。
何度聞いても理由は教えてくれなかった。誰にでも優しくて誰からも好かれていた莉子だから、虐めの類はなかったと信じたい。環境の変化と小さなストレスの積み重ねが、繊細な莉子の心を少しずつ削っていったのだろう。
一度だけ朝の校門で莉子を見かけたことがあった。生徒の流れの中で立ち止まり、必死に門をくぐろうとして、それでもくぐれなくて震えていた莉子。通り過ぎる誰もが横目で莉子を振り返り、不吉なものを見たとばかりに目を逸らす。好奇の視線に切り裂かれる莉子を見ていられなくて、背中から抱き締めて二人で泣いた。
きっと莉子は優しすぎたのだろう。天使のように純粋で、子供のように無防備で、成長する中で誰もが自然と手に入れる周囲とのフィルターを獲得できなかった。結果、ストレスを受け流すことも跳ね返すこともできないまま傷ついて、不登校の一歩手前まで追い込まれた。
そう、一歩手前だ。
学校と莉子を辛うじて繋いでいたのが、天文部だった。
莉子は唯一、部活にだけは毎日顔を出してくれていた。それだけが救いだった。放課後、ホームルームが終わって部室に行くと、必ず一番に莉子がいた。莉子の顔を見るとみんながほっとした。
大好きな莉子、そう莉子は――。
「優しい子でした! 一番!」
先生の言葉を遮るように私は声を張り上げていた。
「一番一番、優しい子でした。私が知ってる中で一番。多分優しすぎるくらい。確かに中心に立ってグイグイ引っ張るようなタイプじゃなかったですけど、みんなの話をいつもニコニコしながら聞いてくれて。みんなが莉子を頼りにしてました」
「星の知識が一番あったのも莉子です」
私の言葉に蛍が続いた。セルフレームの眼鏡を弄りながら伏し目がちに口を開く。
「どうやったら綺麗に星が観察できるとか色んな方法を知ってて、機材についても僕なんかよりずっと詳しかったです。あと、歴史系の科目は莉子の方が成績よかったです」
「あと料理も得意だったよね。手作りのお菓子とかよく持ってきてくれた。マジ美味かったし。マドレーヌ大好きだったわぁ。莉子ってさ、うちらのお母さんみたいだったよね」
「わかる。ほら、あれもうまかったよな、夜の山で飲んだトロトロの甘いやつ!」
「甘酒でしょ! 夜間観察の時の。あれサイコーだった! 甘酒なんて初めて飲んだけど、めっちゃ寒かったからめっちゃうまかったわ」
智恵理と芝も口々に莉子の思い出を語り出す。重苦しかったリビングにほんの少しだけ爽やかな風が吹いた気がした。
「莉子さんは本当にみんなに頼りにされていました。普通は面倒くさがる雑用も部長だからって率先して引き受けてくれて。クラスに馴染むのは難しかったのかもしれませんが、天文部の莉子さんは紛れもなくみんなの中心でした」
「そうですか。ありがとうございます、先生。それが聞けて安心しました」
有沢先生の言葉にダメを押されたように、今度こそ莉子のお母さんは涙を零した。
「莉子……莉子……」
そして、呻くような声で娘の名前を何度も繰り返しながら服のポケットを探る。
ハンカチを探しているのかと思ったら、出てきたのは一台のスマートフォンだった。
見覚えのあるピンクのカバー。これって――。
「莉子の携帯電話よ。あの子の形見みたいなもんね」
そうだ。莉子のスマートフォンだ。カバーを一緒に買いにいったから覚えている。
本当はUSBメモリーを買いに行ったのだけど、本命の買い物も忘れて二人でお揃いのシリーズのカバーを選んだんだ。
わたしは青で莉子はピンク。
「初めてこのカバーを見た時はあの子らしくもない派手な色だなって思ったの。でも、今こうしてみんなの話を聞いてみると、これもあの子の個性のような気がする。私はあの子のこと何にもわかってなかったのね」
涙交じりにそう言って莉子のお母さんはそっとスマホのカバーを撫でた。
「莉子……ごめんね、莉子……お母さん何も知らないで」
それがまるで莉子の体の一部であるかのように。
「あ、あの、お母さん!」
そんなお母さんを見ていると黙っていることができなかった。
「このカバーを買う時に莉子が言ってたんです。こんな色初めて買うって。お母さんをびっくりさせちゃうかもって笑ってました。だから、お母さんがらしくないって思うのはしょうがないことで、むしろそうなることを狙って買ったんで、だから、だから」
だから――なんだっけ。
着地点も考えないまま話を始めて案の定、口ごもってしまった。
「そっか、莉子がそんなことを。ありがとう、七楓ちゃん。私の知らない莉子を教えてくれて。あなたは本当にいい子ね」
何も喋れなくなった私を補うように、莉子のお母さんが言葉を繋ぐ。
「いえ、そんなことないです、私なんか全然です。莉子に比べたら。あ、そうだ! 莉子、よく言ってました。お父さんとお母さんが大好きだって。二人とも優しくて、たくさん話を聞いてくれて、最高の両親だって」
「そう……そうなのね……本当にありがとう。七楓さん、莉子があなたを好きだった理由がよくわかったわ」
そう言ってお母さんは涙を滲ませながら少し笑った。笑ってくれた。
よかった、拙くても言葉を尽くして。若くして命を失った莉子、その莉子にようやく何かを奉げることができた気がした。
「ねえ、七楓ちゃん。もう一つ教えてもらってもいい?」
「はい、なんでも聞いてください」
それでお母さんの気持ちが少しでも楽になるのなら。お母さんがこれから前を向けるのなら。
「この携帯電話のね、暗誦番号を教えて欲しいの」
「え?」
……今、何て言った?
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