一章 鈴前 七楓 (すずまえ ななか)1


「間もなく前畑まえはた駅、前畑駅でございます。右側の扉が開きます。ご注意ください」


 冷房の効いた車内からプラットホームに降り立つと、待ち構えていた熱気に全身を包まれた。車両とホームの隙間から湧き出す煮立った空気が、触手のようにぬめぬめとスカートの中を這い上がってくる。 

 学校指定のプリーツスカートは夏服のくせにやたらと分厚くて熱がこもる。早く日蔭へ。逃げるように踏み出したその足が、

「うわっ、死ぬほど暑いな」

 不意に耳に飛び込んできた一言でビタリと止まった。

「マジで死にそう。こんな日に対面で呼びつける客とか、何様のつもりなんだよな」

「いや、お客様のつもりでしょうよ。でも、マジで人死んでそうですね、今日の暑さは」

「死んでる死んでる。バッタバタ死んでるわ」

「町一つ丸ごと死んでますよねー」

 喉の奥がギュッと縮んだ。汗ばんだ掌に爪が食い込む。

 営業のサラリーマンだろうか。まるでキャッチボールでも楽しむかのように、軽々しく『死』という言葉を投げ合う二人組。

「ちょっと、鈴前すずまえ。なんて顔してんのよ」

 あれ、私今どんな顔してた? 顧問の有沢ありさわ美織みおり先生に肩を叩かれるまで、私は自分が二人の背中を睨み付けていることに気付かなかった。

 わかっている。あの人達に悪気はない。一週間前なら私達だって同じようなことを言って笑い合っていたはずだ。

 だけど。

「あー、マジで死にそー」

「死んでますー。今まさに死んでいってますー」

 汗ジミの広がるYシャツの背中が視界から消えるまで同じエスカレーターに乗る気は起きなかった。 



「うげ、西日キツっ。遠回りになるけどこっちから行こっか。ずっと日陰だし」

 改札を抜けた有沢先生は、勢いの衰えない夕日を忌々しそうに掌で隠しながら、ロータリー脇の小道に向かってさっさと歩き出した。私達も各々日差しを手で遮りながらその後に続く。

 ここが莉子りこの生まれた町。

 高校の天文部で出会ってから一年以上が経つけれど、家に行くのはこれが初めてだ。当たり前だけど見える景色は私の町と大差ない。

 歯科医院、眼科医院、コンビニ、クリーニング店、百円ショップ、塾、交番。ロータリーを取り囲むようにお店や医院が立ち並び、その向こうには似たような外観の民家と畑が続く。

 街並みが似ていれば生活する人間も似通ってくるのだろうか。コンビニ前の日陰で話し込む学生達も、バス停でバスを待つ老人達も、駅の階段前で歌を歌っているよくわからない宗教団体の信者達も、同じエキストラを使い回しているかのように私の町と代り映えがしなかった。

「鈴前、こっちよ。何してるの?」

 振り返ると、有沢先生の手がぱたぱたと私を招いている。無意識に立ち止まってしまっていたらしい。小走りで後を追って無言のまま列に混じった。


 今日は皆、静かだな。 

 莉子の葬儀から一週間、天文部のメンバーが集まるのはこれが初めてだった。こんな時いつも率先して話し出すはずの永見ながみ智恵理ちえりは、物思いにふける面持ちでハンディファンを見つめている。小中と野球部でならしたしば大悟だいごの大声も今日はほとんど聞いていない。寡黙な百地ももちほたるが喋らないのは普段通りとして、あとは――。

 ああ、後はもういないのか。

 無意識に五人目を探している自分に気付いて泣きそうになった。


 部員が五人しかいない弱小部活の天文部、その部長が急逝したことを受け、部は一時的な活動停止を宣告されていた。皆が顔を合わせれば否が応にも莉子の欠落を意識してしまうからとの配慮なのかもしれないが、突然の仲間の死という衝撃は高校生一人の心にいつまでも置いておけるものではなかった。顧問の有沢先生から莉子の家に備品を受け取りに行くと告げられた時、我も我も随行の手を挙げたのは、とにかく皆集まる理由を欲していたからだろう。

 雑木林と溜め池に挟まれた未舗装道路を一列になって黙々と歩く。靴裏が砂利を踏みしめる音だけが辺りを埋めていた。

 やっぱり四人は少ないな。誰の横に並んでも納まりが悪い。私達は今までどうやって歩いていたのだろう。歩き方まで忘れたようだった。

「ねえ、先生」

 重苦しい沈黙を破ってくれたのは、やっぱりいつものように智恵理。

「莉子の死因ってはっきりしたの?」

「ああ、うん……やっぱり病死だそうよ」

「何の病気?」

「さあ、お医者さんも見たことがない症状なんだって」

「そっか」

「うん」

「そっかぁ……そっか」

 同じ言葉を違う言い方で三度繰り返して智恵理が俯いた。何を言わんとしているのかは容易に察しが付く。皆が皆、恐らく有沢先生も含めて同じ思いだからだ。

医者でも見たことがない症状、それでどうして病死という診断が下りるのか。病名も症状も未知の病死、それって不審死とどう違うのか。

 ――死因不明。

 ただでさえ重い仲間の死は、不穏な四文字によってまた別の角度からの深みを増していた。現代の医学をもってしても莉子がなぜ死んだのかわからないのだ。それって本当に病死なのか。事故死の可能性はないのか、あるいは自殺や他殺という線だって……。


「ありえないよ、何で莉子が死ななきゃいけないの?」

 智恵理がハンディファンをマイクのようにして呟いた。そうだ。例えどんな死に方をしたのだとしても結局考えはそこに至る。

 なぜ莉子が。

 莉子はだめだ。莉子だけは違うんだ。例えこの世で誰かが死ななくちゃいけないんだとしても莉子だけは違うんだ。いったいどうしてあんないい子が。

 チャポンと池の魚が跳ねる音がした。それに合わせるように誰かが鼻をすする。私もつられて鼻を拭い、

「あー、でも、マジ暑い。先生、莉子んちまだ?」

 悲しみの連鎖を食い止めるかのように芝が大げさな声を上げた。

「もう少しよ。ほら、もう見えてる。あそこの大きな庭がある家」

 私達の校区は取り繕いようがないくらいの田舎なので庭のある家は珍しくないけれど、先生が示したのは中でもとりわけ大きな庭の広がる一軒家だった。失礼を承知で言わせてもらえば、広いだけで特別裕福というわけではなさそうだ。古びた母屋と古びた離れが、広い敷地を頼りなさげに埋めている。

「ちょっと早く着いちゃったけど、もうお邪魔しちゃおうか。みんな絶対に失礼のないようにね。芝シャツ入れて。永見も第一ボタン。百地と鈴前はよしっと。じゃあ、ベル押すからね」

 有沢先生は門前で部員達の出で立ちを順々に指差し確認すると、同じ指でインターホンを押しこんだ。呼び出し音が家の中で反響するのが聞こえてくる。

 ややあって、

「……はい」

 恐る恐るといった速度で玄関の扉が薄く開かれた。隙間から中年の女性が顔だけを覗かせる。


 ああ、莉子のお母さんだ。

 一瞬莉子が生き返ったかのような錯覚に襲われてドキリとした。莉子と同じ薄い唇と細い顎、特にそっくりな黒目がちな目が戸惑ったようにこちらを見つめていた。

「早くにお邪魔して申し訳ございません。有沢です」

「有……沢……?」

 莉子のお母さんの眉間の皺が深くなった。名乗ったことによりさらに困惑が増したかのようだ。

「えっと、あの、昨日電話差し上げましたよね? 莉子さんが持って帰ったままの天文部の備品引き取りたいと。私が電話を差し上げた顧問の有沢美織です」

「はあ……莉子の部活の先生ですか。そちらの方々は?」

「こっちは天文部の部員達です。私がお宅にお伺いすると言ったら、お線香を上げたいと言ってきかなくて」

「え、みなさん天文部の部員さんなんですか?」

 突然、莉子のお母さんの目が大きく見開かれた。

「はい。この子達も是非莉子さんのお仏壇に手を合わせたいと」

「天文部の……部員さん……全員ですか? 全員いらっしゃるんですか!」

「あ、はあ。もしかしてご迷惑だったでしょうか。でしたら、この子達には日を改めさせますけれど。取りあえず、タブレットだけでも頂けたら」

「……と」

 と?

「と、とんでもない! ようこそいらしてくださいました。さ、さあ、どうぞ中へ。どうぞどうぞ、おあがりください」

 顔一つ分だけ開いていた扉が一気に一杯まで押し開かれた。両の瞼も眼球が零れ落ちそうなほど見開かれている。


 その顔は、なぜだろう、私に蜘蛛の糸にすがりつくカンダタを連想させた。

 

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