第3話 交差の章
茂みから現れたのは、不思議な人物だった。
真っ白な顔の中、張り付いた様に微笑む三日月形の細い目と薄い唇は木彫りの面を思わせ、親しみと言うよりは得体のしれない怖さを滲ませる。ひょろ長い胴から伸びる、これまたひょろ長い腕と脚は棒きれのようで、強い存在感と静けさを同時に感じさせる独特の気配と相まって、生き物とも器物ともつかないじわりとした不安を見る者に与える。
怯えるくちなわの眼が、その人物の身体に釘付けになった。
彼――彼かどうか自信はなかったが――の細長い腕と脚は布がぐるぐると巻きつけられ、それが、ありふれた旅装束の下にまで続いている。
(おいらと一緒だ! いや、この人の方がもっと凄い)
胴にだけ布を巻いたくちなわと違い、その人物は手足の指と顔以外、衣類から覗く処全てが布で巻かれ、恐らく全身そうなっているだろうことが容易に想像できた。
まじまじと向けられた視線を気にする風も無く、その人物はくちなわの隣まで来ると、背にした柳行李を下ろし、片膝をついて水面を覗き込んだ。その動きに合わせ漂うにおいが、くちなわの鼻腔に届く。
――樟脳のにおいだ。
「罠でございますか、拝見したことのない形でございますね」
「え、ああ……おいらが拵えたんだ」
思わず答えたくちなわの言葉に、その人物は細い目を更に細めた。
「左様でございましたか。素晴らしい道具作りの腕前でいらっしゃる」
褒められ慣れていないくちなわは、顔を赤らめ、もぞもぞと身体を揺すった。
「失礼致しました、余り騒がしくすると、折角の漁が台無しになってしまいますね」
「大丈夫! えと、ここの魚は、あんまり臆病じゃないから」
その場から離れようと腰を浮かせた相手を咄嗟に引き留める。「では、失礼致します」と言いながら再び腰を下ろした人物は、腰紐に挟んでいた竹筒を手に取り、
「こちらの水場の水源から汲んでまいりました。一度沸かしてありますが、何ともまろやかな味。澄んだ水質は、まるで極上の甘露でございますね」
「水源って……あんな所に行ったの?」
栓を抜き、美味そうに水筒を傾けている相手の言葉に、くちなわは驚いた。ここの水源は、くちなわでもあまり行かない程に途中の足場が険しく、樹々に紛れて分かり辛い場所にある。
「わたくしは手作りの薬を商っておりまして、薬草を求め、断崖絶壁から獣の巣跡、里、海、時には山奥の更に奥まで、あちらこちらを旅する身でございますから……申し遅れました、わたくし『クスノキのりん』と申します。りん、とお呼び下さいませ」
「おいらは、くち……」
くちなわは名乗りかけ、口を噤んだ。見知らぬ相手への用心からではない。ただ、村の子供達に散々揶揄われた名を名乗るのが怖かったのだ。
くちなわは葛藤した。
(おかしな人だけど、悪い人じゃない……多分。子供のおいらにも丁寧に接してくれている。そんな人に嘘を吐いたり誤魔化したりするのは、何だか嫌だ)
「……くちなわ」
膝頭に額を載せ呟くように名乗ったくちなわに、りんは先程と微塵も変わらない口調で促した。
「くちなわ様、そろそろ罠が魚で一杯の様でございますが……」
「えっ、あっ!」
くちなわは慌てて立ち上がり、罠を引き上げ逆さに振ると、まろび出た三匹の魚が草の上で跳ねる。くちなわは茂みから枝を集めて手早く火を熾し、残りの枝で一匹ずつに串打つと、懐から小袋を取り出し塩を一摘み振った。再び小袋を仕舞おうとしたくちなわの手が止まった。
「どうされましたか……ああ、成程」
くちなわの手元を覗き込んだりんが、小袋に開いている小さな穴に気付いた。りんは柳行李を漁ると、似た大きさの袋を取り出した。
「よろしければ、こちらをお使い下さいませ。粗末な物ですが、丈夫で目が詰まっている割に風は良く通します。中身が零れる心配も、塩が湿気る心配もございません」
「だ、大丈夫、帰ったら繕うから」
遠慮がちに、くちなわが首を振る。
「ですが、そのままでは塩が零れてしまいます。勿体のうございましょう……それでは、こう致しませんか? その袋をわたくしに売って下さい。勿論、中身は要りません。そして、わたくしの袋をその代に充てる。それで如何でしょう?」
結局、くちなわとりんは袋を交換することになった。魚を焼き始めたくちなわは、不思議そうに首を傾げた。
「おいらは助かるけど、穴の開いた袋なんてどうするの?」
「後で繕って、薬草を入れておくのに使おうかと思います。少々変わった拵えが面白いと思いまして……こちらもくちなわ様が拵えたのでしょうか?」
「うん」
「本当に器用でいらっしゃるのですね」
暫くして、香ばしい香りが周囲に漂い始めた。くちなわは、程よく焼けた魚の一番小さな串を取って一口齧り、よく焼けていることを確かめると、一番大きな串を手に取り、りんに差し出した。
「はい、りんちゃん」
「りんちゃ……」
りんの細い目が精一杯見開かれる。くちなわが不思議そうに首を傾げると、三日月に撓んだりんの口の両端に、僅かながら柔らかに持ち上がる。
「そのような呼ばれ方は初めてでございます。なんとも、こう……面映ゆいと申しましょうか……それに、この大きな魚をわたくしが頂いてしまってもよろしいのですか? ご家族の分なのではございませんか?」
「残りはおっ母に持って帰る。家には一昨日獲った鳥の肉も干してあるし、この天気なら明日も魚は捕れるから、これはりんちゃんにやる」
りんは差し出された串を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「それでは、有難くお言葉に甘えさせていただきます」
くちなわは隣を横目で窺った。美味そうに魚を食べるりんに、顔が自然とほころぶ。
(……おっ母以外の人と飯食うのなんて、何年振りだろう)
勢いよく齧り付いた魚は、何時もの倍美味しかった。
「御馳走様でございます。大変美味しゅうございました」
魚を食べ終えたくちなわとりんが、既に消えかけの火に交互に水を掛ける。きちんと火が消えたかを確認しているくちなわに、
「くちなわ様は山の暮らしに詳しいご様子ですが、海については如何でございましょう? 例えば、わたくしよりも大きな魚と、それを食べる更に大きな海鳥をご存じでいらっしゃいますか?」
「聞いたこと無いや。本当にそんな鳥なんて居るの?」
「おや、お疑いでございますか? わたくし、こう見えて嘘は申しません……大抵の場合は」
「えっ、じゃあ、やっぱり嘘なの?」
「さて、ふふふ……」
目を細めたりんが話し始めた。
大きな魚と海鳥の格闘に始まり、都に出没すると噂の鬼とその正体、遠い島に代々伝わる変わった祭りやら、この世で最も不味い花の蜜の話等、りんの口から次から次へと飛び出す不思議な話はどれもこれも面白く、くちなわは目を輝かせて聞き入った。
「りんちゃんは色んな事を知っとるんだなぁ」
「あちこち巡っておりますと、自然とこういった話が耳に入るのでございます。それに、案外商いの役にも立つのですよ」
りんに対して最初に感じた不気味さは、くちなわの胸からすっかり払拭されていた。
「ねえ、他には? 他の話は無いの?」
子供らしく強請るくちなわに、りんは唇の端を上げた。
「ならば、とっておきの話を致しましょう。清流に棲まう生き物の話でございます」
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