第2話 くちなわの章

 村外れに立つぼろぼろの小屋の中で、くちなわが母の膝に縋りついた。


「ねえ、やっぱりおいらは、皆と違うの?」

「また、虐められたんか。今度は何されたんじゃ?」


 母親は幼い息子を抱き上げ、背中を擦ってやる。くちなわは母の胸に顔を埋め、しゃっくりを上げた。


「お前、は厄介者、だって……山のだって、宗太に、殴られ、たっ」


 比較的羽振りの良い家の長男である宗太は、同い年のくちなわよりもずっと身体が大きかった。その体格に物言わせ、気に食わない子や自分の弟を小突いて悦に入る様な悪餓鬼だ。村の子等は乱暴な宗太を恐れて逆らわず、大人達も宗太の家とは穏便に付き合いたい、家では祖父母も父母も長男に甘いとなれば、宗太を止める者は誰も居ない。

 それでも、少し前まではくちなわと宗太に交流は殆ど無かった。村の中心近くで暮らす宗太と、村外れで暮らすくちなわは家も離れていたし、山で薬草を摘んだり小動物や川魚等を捕って暮らしているくちなわのことなど、宗太は気にも留めていなかった。



 宗太がくちなわに手を出すようになった切っ掛けは、些細なことだった。

 村で一番愛らしいと評判のに頼まれたくちなわが、山でも珍しい花を摘んできてやったことがある。菜のはは余程嬉しかったのか、村中にその花を見せて回った。勿論その中には、菜のはに惚れている宗太の姿もあった。

 菜のはもくちなわも全く互いを意識してなどいなかったが、菜のはを喜ばせたのが自分ではないということが、宗太にとっては面白くなかったのだろう。翌日、宗太は村近くで一人薬草を摘んでいたくちなわを、背後から蹴りつけた。


 最初の一蹴りはもろにくちなわの脇腹に入った。身体をくの字に曲げ、訳も分からず呻くくちなわに、宗太はもう一蹴り入れ……その足が空を切った。宗太が何度蹴ろうとしても、呻きながら転がるくちなわに掠りもしない。苛立った宗太は、くちなわの襟元を掴み馬乗りになって何度も、何度も殴った。

 殴られている内に、宗太の尻の下で身を捩る動きで、くちなわの衣の合わせが徐々にはだけ始めた。くちなわの手が無意識に掴んでいた宗太の衣から離れ、硬く布を巻いた薄い腹を隠すように己の衣の前を掻き合わせる。獲物の抵抗がなくなり、宗太は更に数発くちなわを殴ると、漸く気が済んだのか去って行った。


 子供とはいえ、体の大きな宗太にひどく殴られたくちなわは、暫く寝込むことになった。宗太の家に抗議に行ったくちなわの母は、「子供のやったことじゃ、そう目くじら立てんでもよかろう」と、申し訳程度の米や青物を渡され追い返された。

 その日、母は熱で荒い息の息子を諭した。


「最初の数発は黙ってやり過ごせ。逃げてもやり返してもいかん」

「…………」

「分かっとる、お前は一つも悪くない。でもな、生きてりゃ理不尽なことなんて、たんとある。自分を守らなきゃならん、が、時には相手に合わせなきゃならん。それも含めてが、人と暮らすってことなんだ」


 流石にやり過ぎたと思ったのか、それからも度々宗太はくちなわを殴ったが、最初のようにくちなわが寝込む程の無茶はしなくなった。母の教え通り、くちなわも敢えて避けようとはしなかったことで、理不尽で張り詰めた均衡は保たれていた。



「なあ、おっ母に言われた通り、おいら、ちゃんと黙って殴られた。でも、いつまで殴られりゃいい? もう……避けたらいかんのか?」

「駄目じゃ」


 母親はきっぱりと言った。


「始めの二、三発を我慢して殴られときゃ、宗太だってそれ以上に絡んでくることもあるまい。逃げ出すのはそれからじゃ」

「でも……」

「いいか? お前が上手く避けられることはわしも知っとる。けど、お前が避けるのが上手い程、相手は焦れる。焦れて獣になった相手に取っ捕まったら、何をされるか分からん。だから、最初から避けたらいかん」


 母はそう言って息子を宥め、諭した。これまで何度も繰り返した遣り取りだ。逃げる為に殴られるとは理不尽極まりない。だが。

 くちなわは己の腹を撫でた。納得いかないが、確かにを見られるくらいなら、何発か殴られるだけで済む方がましだった。


「ほら、布が緩んでる。ちゃんと巻いてやろう」


 母が荒れた手で、くちなわの胴に布を巻きつけ直す。触れられたところが痛い位にがさがさとした母の手に、くちなわの目にまた涙が盛り上がる。


「もう大丈夫、おいら、薬草取って来る!」


 慌てて立ち上がり、くちなわは小屋を飛び出した。


 山を奥へ奥へと進む。村の誰も来ない様な山奥も、自分にとっては庭の一部の様なものだ。肌荒れに効く草を何種類か摘み、ついでに小さな水場に向かうと、そこらに生えている蔓や枯れ枝で罠を作って水の中に沈めた。誰かに教わったのではなく、必要に駆られて身につけた生活の知恵だ。自分に流れる山の者の血の現れなのかもしれないと、くちなわは膝を抱え、複雑な思いで水面をぼんやりと眺めた。


(どうして、おっ父はおっ母を連れていかなかったんだろ)


 川で溺れる母を、通りすがりの父が助けたのが二人の出会いだったのだそうだ。

 互いに一目惚れた二人は逢瀬を重ね、程なく子が出来たが、一緒にはなることはなかった。母は里の人間、父は山の民、夫婦になるには暮らしが違い過ぎたのだろう。


 山の者である父は、じきに生まれてくる子に付ける名を言い残し、赤子の顔も見ることなく一族の者と他の山に移っていった。元々、一所に身を置くような暮らしをしていなかった山の一族は、里村の出身である母を敢えて連れて行かなかった。里の暮らししか知らない身重の女が山で暮らすのは、厳しいと考えたのかもしれない。母も、村に老母を残してまで父に付いていくことは望まなかったようだ。


 互いに想い合っていた二人だが、別の暮らしを選んだ。それが間違っているかは分からない。だが、くちなわは時折、そのことを恨めしく思う。


 村の中には、山の者を快く思わない連中もいる。祖母と母は村の外れに住むことを余儀なくされ、その祖母は、くちなわが生まれて一年程で亡くなってしまった。

 もし父が村で暮らす決意をしてくれたら、もし母が父に付いていってたら……山の者になり切れず、村での居場所もないような暮らしを、自分も母もしていなかった筈だ。

 母は、別れて以来一度も会いに来ない父をどう思っているのか分からないが、今更村を離れる心算は無いらしく、くちなわにも村の衆と上手くやっていくことを望んでいた。時折、誰に教わるでもなく山で生きる術に長けた息子に何とも言えない顔を向け、一所で人と人の間で生きるのが本当の暮らしなのだと言い含める。


 くちなわは目を瞑った。山か、村か、何方かを選べたら……くちなわは目を開き、肩を落とした。


(選べない。おっ母を残すことも、村の窮屈な暮らしも……暮らせる所なんて限られとる……)


 子供らしからぬ溜息がくちなわの口から漏れる。

 その時、背後の茂みが、がさり、と鳴った。咄嗟に身構えるくちなわの耳を、男とも女ともつかない不思議な響きの声が撫でた。


「おや、こんな山奥に何方かいらっしゃるとは思ってもおりませんでした。お騒がせして申し訳ございませんが、ご一緒させていただいてもようございましょうか?」

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