第1話 逃走の章

(ああ全く、この名に良い思い出なんて、一つもない)


 村の外れ、明け方のもやに霞む藪の中。

 は、自らが嫌うその名に相応しい動きで音も無く移動していた。山の者だった父が、山神の化身と信じている名を息子に与えた想いは、里で暮らすくちなわを縛り続ける。会った事も無い父を恨みもしたが、この名を捨てられない自分はもっと恨めしい。


 すぐそこから感じた村人が自分を探してうろつく気配に、くちなわは首を竦めた。用心深く身を屈めて移動を繰り返し、漸く人の姿の無い村外れまで辿り着く。


(ここまで来りゃ、後はどうにかなる。さあ、どっちに行こうか)


 目の前の獣道を、左に行くか、右に行くか。くちなわは立ち止まると目を瞑り、大きく息を吸った。


 左へずうっと行く道は、海沿いの集落を目指すのに都合がいい。但し、足場は悪く幾つかの山越えが必要で、身を隠す場所には事欠かないが、道行きは穏やかとは言い難い。

 右へ行くなら、都行きだ。川沿いを大きく外れること無く伸びる道は、迷う心配はない分、人目にも付き易い。道中には旅人を狙う賊が出るという噂もある。


 細く、長く、息を吐き、瞑っていた目を開く。何方がより安全な道かを選ぶことは、くちなわにとっては容易いことだ。


(左に行こう)


 山の何処にどんな獣が居るかは知り尽くしている。足場にさえ気を配れば、案外危険は少ない。集落に着いたら都行きの船に乗ろう。いや、都まで行かなくても、人の集まる所なら何処でも構わない。誰も自分になど目を留めない程、人で賑わう土地ならば。

 そこなら屹度、誰もが顔見知りの狭い村と違い、こんな自分でも紛れて暮らすことが出来るに違いない……母が望んだ通りに。


 左の道に一歩踏み出しかけたくちなわの足が止まった。突然の激しい頭痛と眩暈に膝から力が抜ける。いつの頃からか覚えるようになった痛みは、近頃は特に頻度を増し、くちなわを苦しめる。

 幸い、頭痛も眩暈もそれ以上酷くなることは無かった。くちなわは軽く頭を振り立ち上がると、すぐに左の道に一歩を踏み出した。



 慣れた山道を、くちなわはひたすら歩き続ける。時折後ろを振り返り、追跡者が居ないことを確かめるが、そんな心配は不要だ。自分以上にこの山を知る者は村には居ない。

 地面を這う木の根や岩に息が上がる。くちなわは荒い息に紛れ、溜息を吐いた。静かにひっそりと暮らすことすら儘ならない暮らしが、若者とは思えない程に彼を草臥れさせていた。


(どうせ一人きりの身だ、先立つものさえあれば、何処にだって行ける)


 弱気を追い払う様に両手で頬を叩き、腹に目を落とす。

 粗末でありふれた衣の下の、胴にきつく巻いた布に挟み込んだ小袋の存在が、多少なりとくちなわの気を上向かせた。数日前まで手製の薬を入れていたそれには、今は金粒と銀粒、玉が入っている。どれも小粒で大した量でもないが、船を雇うくらいなら難しくは無いだろう。それから先の事は、その時に考えればいい。


 漸く足を止めたくちなわは呼吸を整え、衣の上から懐を撫でた。その動きで立ち上った僅かなにおいが、記憶を刺激する。消えかけのそのにおいは、かつての小袋の持ち主から漂っていたものと同じものだ。

 幼かった自分にこれをくれた薬売りは、今頃どうしているだろう。


 ずきん!


 いつも以上に激しい頭痛に、くちなわの足が縺れた。右手で頭を押さえ、ふらつきながら周囲を探る左手の指先が樹に触れる。頽れそうになりながら、咄嗟に掴んだ枝の感触で失敗に気付いた時には、もう遅かった。既に体重を預けてしまっていたオオバアサガラの枝は容易く折れ、頭の痛みで力の入らない身体がたたらを踏む。数歩目で足元から大地の感触が消えた。




 やがて日が高くに昇り、靄も晴れて来た頃。


 さらさら

 さらさら


 耳のすぐ脇を流れる微かな水の音で、崖下に横たわるくちなわは意識を取り戻した。頭痛どころか、もはやどこが痛むのか分からない程身体中が痛い。浅い呼吸に合わせ、くちなわの口から血が零れる。


 ふいに、くちなわの視界が暗くなった。

 目が霞み、はっきりとは分からないが、何かが自分を覗き込んでいる。足音一つ聞こえなかったが、それは全身をぎしぎしときしませる痛みにかき消されていたからかもしれない。相手が獣ならば今の自分は格好の餌だな、とぼんやりと思ったが、不思議と恐怖は無かった。


 くちなわの手首を、影はそっと取った。その感触は、少なくとも熊とも猿とも違うものだ。


「もし、意識はございますか? しっかりなさいませ」


 影が喋った。唇を震わせ、影への答えの代わりに、小さな呻きと赤くぬめる体液を口から零したくちなわの鼻腔で、鉄臭い臭いに嗅ぎ覚えのあるにおいが微かに混じる。


 ――あの小袋と同じ、樟脳のにおい。


 くちなわが気付くと同時に、影が名乗った。


「くちなわ様、憶えておいででしょうか。『クスノキのりん』でございます。無理にお話しなさらないで下さいまし、十分に伝わりますから」


 くちなわの口元の血を、影……りんがそっと布で拭った。

 りんは背負っていた行李を下ろすと、そこから瓢箪を取り出し、先程くちなわの口元を拭った布に瓢箪の中身を含ませると、それをくちなわの口元に当てた。


「痛みを麻痺させる薬でございます。強力で即効性がございますから、すぐに楽になるかと存じます」


 くちなわの口中にどろりとしたものが流れ込む。甘いようなすえたような、何とも言えない臭いのするそれが喉を通過すると、間もなくくちなわの全身の痛みが軽くなった。それでも身体を動かすことも声を発することも出来ず、口だけを動かし、


(ありがとう。おいらのこと、憶えていてくれたんだな……)


 その言葉にりんが微笑んだ様だったが、視界が霞んで良く見えない。


「勿論でございます。薬が効いたようで、良うございました」


 くちなわの唇が小さく震えた。

 この人はずっと、自分の事を憶えていてくれたのだ。一刻にも満たない僅かな邂逅を……幼かった頃の、いつも寂しさに埋もれていた自分のことを。

 半年前に母が死んだ時、自分の中の温かなものは全て、この世から消えてしまったと思っていた。まさか、自分を憶えていて、こうして手を差し伸べてくれる人が現れるとは、思ってもみなかった。


 くちなわの胸に、忘れかけていたぬくみが甦る。


(本当に、本当にありがとう、りんちゃん……おいらの懐の袋に金粒が入っとる。薬代に取っておくれ)


 なんとか力の入らない腕を動かそうとするくちなわに、りんが小さくかぶりを振った。


「お代なら既に頂いております。あの時の魚は、大変美味しゅうございました」 

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