第1話 契約の章

「そこの兄さん。あたしを買わないかい?」


 都の南東の外れ。北に連なる山々を背に、僅かに東西に長い方形をした都を縦横に伸びる幾本の道の中の、一番細い往来の殆ど無い一筋。

 そこに繋がる、埃っぽい荒れた脇道の端から、旅人に声を掛ける女の姿があった。


 年の頃は十七、八か。身体を隠すように頭からむしろを巻き、やや背を丸め俯く姿は、しかし、意外な程の力強さと存在感を放っている。

 旅人が立ち止まった気配に、女が伏せていた顔を上げた。その動きで、首に下げたぼろぼろの守り袋が襟合わせからちらりと覗く。


 すっきりとした顎と形の良い唇は、この貧し気な身なりの女が存外美形であろうと匂わせはしたが、それも想像に過ぎない。女の顔は、小鼻の上から額にかけて巻かれた布で、半分も見えてはいなかった。


 女は鼻をひくつかせると、正確に旅人の顔に自分の顔を向けた。


「買うだろう?」


 問いかけではない、確信の言葉。

 ややして、いらえがあった。


「……お声がけは大変嬉しゅうございますが、生憎と、に興味がございません。申し訳ございませんが、別の方をお誘い下さいませ」


 それは、男とも女ともつかない、独特な響きの声だった。言葉と言うよりも、耳を通り抜け、意味だけをほんのりと頭に残して行く、風の音のような声だ。

 旅人の、過ぎる程に丁寧ですげない断りに、女が、かか、と笑った。


「ああごめんよ、そんなつもりじゃないんだ。あんた、都を目指してるんだろ。道案内……護衛してあげるって言ってんのよ」


 棒切れ一つ携えず、華奢な身体でそう談判する女に、旅人の細い目が更に細まる。


「失礼ながら、その細い手足で護衛が叶うでしょうか。ここから都までそれ程離れている訳ではございませんし、道案内でしたら間に合っております」


 女はまた、かか、と笑って、己の顔に巻いた布に手を触れ、


「いいね。これを見て何も言わないなんて、やっぱり兄さんで間違いない」


 女が筵を下ろし、背筋を伸ばした。粗末だが、さっぱりと洗われている丈の短い衣類から覗くほっそりした手足は、立ち居振る舞いから感じるよりも、女の年齢がもっと下であることを物語っている。


「確かにあたしは女で、おまけにめしいさ。けど、身を護るのに不便したこたあ無いんだよ」


 女は足元を探り、小石を一つ拾いあげると、それを無造作に放り上げた。思いの外高く放られた石は女の頭上目がけて落下し、


 かつん。


 既に一歩を踏み出していた女の背後で、石の転がる音が小さく響く。


「なにも、ぼかすかやり合うだけが護衛って訳じゃないだろ。目が見えなくても、耳や肌で見りゃいいだけさ。残念ながら、兄さんの姿形まで分かる訳じゃないけどね」


 それはある意味、幸いだったのかもしれない。もしも女に旅人の姿が見えていたら、声を掛けるのを相当に躊躇っただろう。


 木彫りの面の様にのっぺりとした白い顔の中で、刻まれた様に三日月型に撓む目と口。何の変哲もない旅装束から覗く胸元やひょろりとした腕や脚には布がきつく巻かれ、全身そうなっているだろうことが容易に想像出来る。痩せぎすの身体に柳行李を背負った姿は、背後から見れば、まるで荷に棒で出来た手足をくっ付けた様だ。

 そして、その身体から薄っすらと漂うのは、樟脳のにおい。


 おかしないで立ちの旅人の口角が、更に持ち上がった。


「わたくしは単なる薬売りでございます。面倒事など、とんと縁がございません」

「そう? けど、こんな物騒な世だもの。これから巻き込まれるかもよ……ほら」


 そう言うと、女は正確に旅人の右手の袖を取って、丈の高い草の茂るくさむらに引っ張りこんだ。

 よろけた旅人を蹲らせた女は、自分の被っていた筵を旅人の頭から被せ、引き抜いた草をかけていく。されるがままの旅人の姿がすっかり隠れると、女は道端に戻って膝を抱え、その膝の上に顔を伏せた。


 程なく、都とは反対側から、綺麗に禿げ上がった男が荒々しい足音と共に現れる。

 男は通り掛かりざまに、がらがらとした声で、


「おい、女。おかしな男を見なかったか? 旅人風で、背に行李を負っているひょろひょろの野郎だ」

「へえ、わしは盲ですんで、よう分かりませぬ」


 顔を上げた女の小さな顔を覆う布に、男の太い眉が寄る。男は拳を固めると、出し抜けに女の顔を目がけそれを放った。当たる寸前で止まった拳にも、女は微動だにしない。男は拳を降ろし、舌打ちした。


「くそ、見失ったか……まあいい。お前、良く見りゃまだ若い娘っ子じゃねえか。そんな身体じゃ、真面まともに男も知らんだろ。どれ、俺が情けをくれてやろうか」


 にやつく男の手が肩に触れる寸前、女もにやりと笑った。


「やれ嬉しい。病に侵されたわしに触れてくれる男が居るとは。ご案じなさるな、例えうつっても、ちょいと目が見えなくなるくらいで痛みは無いさね。ささ、こちらへ」


 男は再び盛大に舌打ちし腕を引っ込めた。口汚く罵り言葉を吐き、足音も荒く来た道を戻る男を女が囁いた。


「今の奴、えらく腹を立ててるみたいだったけど。兄さん、何やらかしたのさ?」

「薬をお売りしただけでございます」


 もしや、お気に召さなかったのでしょうか……と、いかにも不思議そうに叢からくぐもった声が答える。

 女は耳を澄まし、人気が無いことを確かめると、草に覆われた旅人の居る辺りをぽんと叩いた。


「もう行っちまったみたいだね。ほら掴まって……大丈夫、うつる病ってのはさ。それにしても、一体何の薬を売ったら追われる羽目になるってんだい?」


 身を起こした旅人が、身体の土や草を払いながら、


「お助け頂きありごとうございました。ですが、恩人である貴女様にも、薬をお買い上げ頂いた方の身上をお話する訳にはまいりません……強いて言うならば、『一部身体が元気になる薬』とだけ」

「ああ、成程。助平ったらしい野郎だったもんね」

「言い訳がましゅうございますが、きちんとご説明申し上げたのでございますよ。即効性の高い薬でございます、御髪おぐしが抜けることがございますので、一度に多量の服用はおやめ下さいまし、と。ですが、あの声のご様子からすると、もしかしたら……」


 女が吹き出した。


「こんな時は、見えないのが無念だね。さぞかし見事な禿げ頭だったんだろうさ……で、どうだい? あたしを買ってくれたら、後で面白いものを見せてあげるよ」


 沈黙が流れ……旅人が口の湾曲を更に深くした。


「なにせ、その日暮らしのしがない身の上でございます。儲けはあまり期待なさらないで下さいませ」

「ああ。何なら、飯を食わせてくれるだけで構わない。あたしの名は、あきむし。あきって呼んで」

「わたくしは『クスノキの』と申します。りん、とお呼び下さい」

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