夏に忽ち

かしゆん。

おかえりなさい

「うるっせぇな」

「ちょっとあんたっ!」


 呼び止めるものの、忽智こつはるは目も合わせずに家を出て行ってしまう。一体いつからこんな風に育っちゃったんだろう。


「……育て方を間違えたかしら」


 うちは放任主義だった。もちろん小さい頃はほったらかしになんてしてない。しっかりと愛情を注いで、色んなところに連れて行ってあげた。


 でも、高校からの友達で私よりも先輩ママからのアドバイスを前に受けた。『小さい頃は親が色んなところに連れてってもいいけれど、子供が大きくなったら、ある程度好きにさせた方が良いよ』って言われた。


 うちは一人っ子なのに対して、友達は子供が四人もいる大所帯だったから子育ての事に関しては私よりもずっと正しいと思ったのに……

 やっぱりもう少しくらいは厳しくしてた方が良かったかな。今になっては私の言葉は忽智には届かないし、もう私じゃ力も敵わないからどうしようもないけれど。


「はぁ、こっちの気持ちも知らないで……」


 忽智は最近は帰って来るのが遅い。遅く帰って来るその度に、心配してたと伝えても、当の本人は知らぬ顔。帰るなり部屋に籠って何してるんだか分からない。


「まぁ、外向的な性格になったのはお父さんに似て良かったけど」


 逆に夜まで帰ってこないなんてこともしばしばだから、それはいただけないと思っているけれど、若いしそれくらいは大目に見てあげようと思う。他人様に迷惑かけずに犯罪紛いの事でもしなければ、どんなに我儘でも私だけは愛そうと思う。


「だから、ちょっとはあんたも私を心配させてないで早く帰ってきてよ……」


 お父さんも、もちろん忽智も帰ってきていない部屋で、一人祈っている。




 夜になった。


 メッセージを送っても、返事がこない。というか、既読すらつかない。


「はぁ、今日も遅くなるのね……」


『早く帰ってきてください』

『ご飯冷めちゃいます』

『二十三時までに帰ってこないなら、寝ちゃうからね。そしたら冷蔵庫の中にラップ巻いて置いてあるから、温めて食べてね』


 これは嘘。本当は居間でひたすらに帰りを待つ。


 きっとあの子も思春期なの。直に昔の様に素直で可愛い子に戻ってくれる。そう信じるしか、今の私に残された選択肢は無い。もっと強い母親じゃなくてごめんね。


久美子くみこ、忽智はまだ帰ってこないか?」

「……分かんない。既読が付かないの、多分帰ってこないわ」

「そうか……はぁ、小遣い渡すの止めるか」

「そんなことしたら今の忽智は、忽智は……」

「……過敏な時期に変えない方が良いか」

「うん……」


 分からない。あの子の親なのに、どうしてあげたらいいか分からない。門限は七時、特別厳しくはしてないと思う。前に罰と言って、お小遣いを抜いた時期もあったけれど。コッソリ私の財布から三千円が無くなってた。


 私は怖かった。まだ家族内だったら最悪叱るだけで済む。でも外でお金を盗んでしまったら、それは立派な窃盗罪。一回してしまっただけで、息子は犯罪者の肩書を背負いながら生きていくことになるし、なにより他の人が迷惑を被る。それだけは、私も許せなかった。


「はぁ、久美子。もう寝よう、明日も早いから。それともまだ何か手伝った方が良い事あるか?」

「ううん、何も無い。あなたにこれ以上負担をかけてられないもの」

「久美子、無理しないでくれ。洗濯とか風呂掃除とか簡単なやつはやっておくぞ?」

「平気よ。もう全部終わってる。あなたが夜中に家事までしたら、昼間満足に動けなくなるでしょう?」

「……そうか、何もないなら俺は寝るよ。久美子も二十二時までには寝なさい」

「ありがとう。おやすみ」

「おやすみ」


 働き詰めの夫を寝かせる。営業のげんちゃんに迷惑はかけられない。休みが日曜日だけなのに、家事まで手伝わせていたらいつか倒れてしまう。


「あんた、早く帰ってきてよ……」




「なんで、この時間になっても既読すらつかないの……?」


 零時を回ってしまった。


 胸騒ぎが収まらない。何か嫌な予感がして堪らない。いつもなら、どんなに遅くても二十二時迄には既読くらいはつくのに。


 今どんなに捻くれていても、一時の感情で私に暴言を吐いてきたとしても。私は自分の息子を愛してる。何か事件に巻き込まれたりしてないか考えると心が重くなる。


「早く帰ってきて……」




 丑三つ時を回った。


 今までこんな時間まで帰ってこなかったことは無い。


「どうしよう……」


 警察に連絡する? でも、思春期真っ盛りの高校生男子よ?


 警察に連絡した後に何事も無く帰ってきて『ただいま』の一言も無かった時は、それこそ手を上げてしまうかもしれない……忽智、どういうつもりなの?


「既読はようやくさっきついたけど……」


 あまりにも遅すぎるよ。何かに巻き込まれてたりするのかな、もしも助けて欲しいなら助けてって言ってくれないとこっちとしても分かんない。


 『友達の家に行ってる』とか、そう言う理由でも良い。朝方に帰るのはうちは許可してないけれど、連絡が何にもないよりは私の心も軽くなるというのに。


「……」


 どうしようも無いから、居間にただ座って帰りを待っているしかない。体は眠いと言ってるのに、精神が眠らしてくれない。あぁ私、将来早死にするんだろうな。


 それは忽智にも当てはまる事なのに。子供の頃から行き過ぎた夜更かしなんてしていたら、大人になって体が壊れちゃう。


「ねぇ、今何してるの……?」


 そう口にしてみるけれど、もちろんのことその質問を答えてくれる人は誰も居ない。ただ空虚な孤独を孕む六畳に、吸い込まれて消えていくだけ。


「……んぁ?」

「あ……」

「おい、久美子! まだ起きてたのか!?」

「そう、なの。忽智がまだ帰ってこなくて」

「は、嘘だろ?」

「……玄関に靴、無いでしょ」

「おいおい……」


 苛立ちが隠せないのか、玄ちゃんは寝起きの顔を更に酷くして時計を睨む。長細い針が三を指している事を確認してくしゃくしゃと頭を搔き毟り、顔を洗いに行く。中途半端に目が醒めてしまったらしい。


「仕事もあるんだし、休んで良いよ?」

「あ~いや。いいよ、有給使う。どうせ今年の分全く使ってないから」

「……そ、そう?」


 顔を洗い終えた玄ちゃんは私の隣に座りこんで、背中を撫でてくれる。本当に私にはもったいないくらい良い人を旦那に貰った。


「優。眠ってていいぞ」

「いいの、どうしても不安で眠れないから」

「そうか……スープでも飲むか?」

「う、ん」


 言われるまで気が付いていなかったけれど、夏だからと付けっぱなしにしておいた冷房で体が冷えている。


「眠たければ寝ても良いからな。俺は取り敢えず朝まで待って、それでも来なかったら交番にでも行くよ」

「……」

「……優?」




「……うぅっ!?」


 ……悪夢を見た。忽智がどれだけ待っても帰ってこない夢。


 ……夢?


「……忽智?」


 返事は無い。締め切ったカーテンから柔い日の光が部屋を鈍く照らす。こんなにも重たい朝があっただろうか。


 悪夢を見たからといって、現実に忽智が居るとはならない。これは正夢だ。


「玄ちゃん……?」


 居ない。仕事に行っちゃったのかな。


 ……あ、違う。交番で行方不明の届を出してくれてるんだ。


「……」


 誰も居ない空間がどうにも心細い。携帯の画面を開こうとも、既読だけが付いた忽智へのメッセージがなんとも言えない不安感を昂らせるだけだ。


『ピロン』


「っ!」


 着信音。これほどまでに求めていたものは無い、玄ちゃんと付き合っていた時ですらこれほどまでに待ち望んだ事は無かった。


『不審者情報:昨日の昼過ぎに市内の高等学校に通う十七歳男子生徒が頭部から血を流して田圃に倒れているのを地域住民が発見し、通報が入りました。』


「へぁっ」


 あ、だめ。もう、見たくないかも。


『本件を非常に緊急性を要する事態として、すぐに同市内の警察にパトロールの強化及び犯人特定に動いていただいています。不審者の人相は、被害者と同じ十代男性、目つきが悪く上下黒い制服を着用し、白い……』


「だめ」


 みて、みてられない。


 どうしよう。どうしたらいいの、あ、だめ。


「はぁっはぁっ」


 激しい動悸、汗ばむ体躯、几帳面に結われた長い髪がだんだんと解れ始める。


「まだ、決まってない。決まってないから……」


 そう言いながら自分でも分かってる。だめなの、現実を見たくない。見てられないよ、夢に戻ったらいいのかな、夢でも帰ってこないかな。


「あぁ……」


 ピンポーン


「あぅぇ」


 下手な呼吸をしながら、這いずる様にモニターを確認しに行く。


 そこには、確かに忽智が居た。やつれながらも、しっかりと立っている。


「あ、あ……」


 どこから湧き出るか分からない力を振り絞りながら、必死の覚悟で玄関の扉を開けに行く。この機会を逃したら、一生忽智に会えなくなるかもしれない。


 扉が開かれる。淡い光に包まれて、忽智がそこに居た。


「……た、ただいま、母さん」

「……」


 無言で抱きしめる。もう、はなしたくない。


「……母さん、き、聞いて、欲しい」

「……忽智。いいの、帰ってきてくれただけで」

「ち、違くて」

「お茶、淹れるから」


 制服の裾を引っ張って、家に引き入れる。こうでもしないと、また出ていってしまうと思ったから。


「あ、あのさ!」

「なに? そんなにかしこまって」

「謝りたいことが、あって、その」

「……ふふ」


 怒るつもりだったのに、何故だか怒る気力が湧いてこない。安堵の渦に攫われて今はただこの空間が心地よい。


「紅茶でも淹れて、本でも読みましょ」

「母さんっ!」


 いいのよ。謝らなくていい、その気持ちがあるだけで今は良いの。


 玄ちゃんにはこっぴどく叱られるかもね。何しろ届まで出しに行ってくれたんだから。お茶と一緒に玄ちゃんに連絡いれようかな。


 ピンポーン


「……? あら、お巡りさんね」

「っ」

「忽智、お父さん届まで出してくれたんだから。多分それだわ、申し訳ないけど謝りに行くよ?」

「あ、あぁ……」


 顔が青いけれど、具合が悪いのかな。じゃあ、私だけで行こうかな。


 良かった。本当に良かった。可愛い忽智が戻ってきてくれて。
























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夏に忽ち かしゆん。 @sakkiiozuma7

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