第36話 被害者とひどい

〇■☆◆


 それから直ぐ警察官が、ドタドタと五、六人やってきた。

 婦警さんがいるのは〈美幸〉を保護するためだろう、〈葵〉さんが事前に事情を説明してくれたんだな、推測だけど。


 警察官の態度は、〈美幸〉が被害者で、〈クズ部長〉が犯罪者と言うあつかいだ。

 〈美幸〉は服をビリビリに破かれているし、鼻血も出して頬も腫れている、それに比べて〈クズ部長〉はいかにもクズ顔だ、〈葵〉さんが事情を説明してくれていなくても、一目瞭然いちもくりょうぜんだと思う。


 微妙なのは俺だ。


 ただ〈美幸〉が「夫が危ないところを助けに来てくれました」とピッタリと引っ付くから、警察官に「おぉ、頼りになる旦那さんですね」と褒められてしまったよ、俺は当たりさわりないことを答えておく。


 「えぇ、大切な嫁ですから、そりゃ無我夢中むがむちゅうでした」


 だけど思わぬことで責められてしまった、〈葵〉さんにシーツを血で汚したと、モップで叩かれているんだ。


 「てめぇ、許せねぇ。 掃除をする者の事をわずかでも考えたのかぁ、それなら出来ねぇはずだ。 〈葵〉さんはそんな、てめぇを鬼となって半殺しにしてやらぁ。   痛みで覚えろ。 このくそたわけが」


 警察官が止めてくれなかったら、俺は五体満足ではラブホテルから出て来れなかっただろう、〈クズ部長〉のしょんべんを拭き取ったのがバレたら、もうこの世には存在していないだろう。


 「ポリ公が五月蠅いから、しょうがねぇな。 これぐらいで勘弁してやらぁ。 嫁を助けるために、ドアと窓ガラスを壊したのは不問にしてやるが、シーツをわざと汚したのは許せねぇんだ」


 後で警察官に聞いたら、〈葵〉さんはこの辺りの地主で、ラブホテルのオーナーでもあるらしい、掃除は運動と巡視をねてやっているとの事だ、従業員の人が可哀そうになるな。


 「悪い人じゃないんですがね。 大金持ち特有って言いますか、変なこだわりと傲慢ごうまんさを持っている人なんですよ」


 警察官は俺が目の前で暴行をされていたのに、〈葵〉さんを押さえる気が全くなかった、お金持ちはそれだけで権力があるってことか、割り切れないけど、俺は〈葵〉さんに「すんません」と謝っておいた、だって大金持ちらしいじゃん。


 〈クズ部長〉は浴室の中でほうけた顔でうずくまっていた、警察官に身柄みがらを拘束される時もおとなしかったな、色々諦めたんだろう。

 もうコイツは俺の中では過去の野郎だ、どうでも良い存在しか見えない。


 俺と〈美幸〉もパトカーに乗せられて、〈美幸〉は病院へ、俺は一足早く警察署に連れてこられた。

 パトカーには初めて乗ったけど、普通の車と乗り心地はあまり変わらないな。


 調書を作成するために長時間質問攻めにあったが、深夜近くになりようやく解放してもらったが、〈美幸〉は明日も警察署で事情聴取されるらしい。

 〈美幸〉がどうしても髪を洗いたいと言うので、シャワーだけ浴びて、夕食も食べずに抱き合って泥のように二人で眠りについた。



 俺は何とか会社で業務をこなしているが、〈クズ部長〉は有給休暇と言うことで昨日の事件はまだおもてざたにはなっていなかった、俺も〈美幸〉のことがあるので黙っておく、ベラベラしゃべる話じゃないからな。


 定時でアパートへ帰ってきたら、〈美幸〉が思い詰めた表情で、俺に話さなければならない事があると言ってきた。


 俺と〈美幸〉は、〈美幸〉が買った二人掛けの小さなソファーに座って、話すことにした。

 正面に座らなかったのは、正対して話をすれば人はつい対立構造になってしまうと、会社の研修で教えて貰ったからだ。


 俺も昨日の事で薄々分かっていたが、〈美幸〉の話は、やはり〈クズ部長〉に乱暴されて動画で脅されていたと言うことだった。


 想像した事に近いので、俺はそれほどの衝撃は受けなかった、騙されて不倫される事と比べれば、〈美幸〉には申し訳ないけど、俺にとってはまだマシな事だ、〈美幸〉とこのまま夫婦を続けられる可能性がある。

 これも〈美幸〉には申し訳ないけど、元カレに抱かれて処女を失ったとすれば、それは青春の甘い思い出だろう、再会すればまたその思いが燃え上がるかも知れない、要は元カレと浮気をすると言う定番が無いってことだ。


 総合的に考えて、〈美幸〉は浮気をする可能性がほとんど無い、信じられる女だと思う。


 疑問に思っていた、〈美幸〉が痴女みたいな恰好をしていたのも、急にアパートへ行きたいとか、家族に会わせてくれとかと言った理由が、全て氷解ひょうかいしスッキリすることも出来た。


 「〈美幸〉は辛い目にっていたんだな。 分かっていなくて、ごめんなさい。 ただ俺は〈美幸〉と一緒になれてすごく嬉しいんだ。 嫌々俺と結婚したと思うけど、俺は〈美幸〉に好きになって貰えるよう努力するから、このまま夫婦でいさせてほしい」


 「ひどい。 〈あなた〉はひどいよ」


 涙をこらえて辛い告白をしていた〈美幸〉の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


 「そんなに俺はひどいのか。 努力をしてみるから、考えてくれよ」


 「うぅ、努力なんていらないわ。 私がこんなに愛しているのに、どうして分からないの、ひどいよ」


 〈美幸〉は涙を流しながら、真っ赤な顔で俺に対して本気で怒っている。


 「えっ、嫌々じゃなかったのか」


 「うぅ、最初はそうだったけど。 好きでもない男に口づけをされても、気持ち悪いだけで嬉しくなんかならないよ。 〈あなた〉は私を見てくれていなかったの」


 「うーん、正直に言うとそんな気もしていたんだけど、自信が無かったんだ」


 「そんなのは女の私が聞くこと。 〈あなた〉は私を強く抱きしめて、口づけをすれば良いのよ」


 俺は確かめずにはいられなかったんだが、〈美幸〉の言うことも少しは分かる、でも聞いて良かったじゃないか、あははっ、〈美幸〉を抱いてキス出来るのだから大正解だ。


 「もぉ、笑いながら口づけをしないでよ。 〈あなた〉はヒーローで、私はヒロインなんだから、誠心誠意で真剣な愛なんだよ」


 「えぇ、俺はヒーローなの」


 「当たり前です。 私を絶望から救ってくれて、愛してもくれている、かけがえのない私の愛のヒーローよ。 死んでも離さないからね、覚悟しなさい」


 〈美幸〉はそう言って、スカートをたくし上げて俺の膝の上に座ってきた、手は俺の首に回している、笑うなと言ったくせに嫣然えんぜんと微笑んでいるぞ。

 文句を言う代わりに俺はまたキスをした、今度はいつ終わるとも知れない長いヤツだ。

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