第15話 階段と踏み台

 そうだ、私も先輩のように乗れば良いんだ。

 スカートなら、高校生の時にあこがれていた先輩のように、股は開かないでお上品に乗るべきだ。


 先輩は彼氏の自転車で下校する時に、ちょこんと横に座って足を綺麗にそろえていたぞ。


 自転車に〈横座り〉で乗って、私は彼の腰へヒシっと抱き着いた。

 右の胸が彼の背中へ当たっているのは、落ちないためだからしょうがないんだ。


 ふふっ、憧れていた先輩も、彼氏へこんなに密着していなかったな。

 へへっ、私が大人になって、やっと高校生の時の先輩を超えた瞬間だよ。


 彼のアパートはかなり古いように感じる、そしてとても不便だ。

 急な階段を五階まで昇る必要がある。

 彼と一緒になれば大変だ、〈これを毎日昇るのは辛いな〉と、勝手な心配をしてしまうほどだ。


 彼は下着が見えないように、直ぐ後ろにいてくれている。

 私が頼んだら直ぐそうしてくれたんだ、小さな事だけど、守られているようで心が温かくなってしまう。


 ふぅー、だけどキツイな。

 五階までの急な階段は、私にとっては軽い登山並みの運動だよ。


 案の定あんのじょう踏み板ふみいたが狭いこともあり、四階くらいで足が引っ掛って手をついてしまった。


 私は「きゃー」と悲鳴をあげてしまったの。

 彼は直ぐに私を後ろから、抱き起だきおこしてくれたわ。

 だけどその動作は、後ろから抱かれて胸をつかまれた形になってしまったの。


 私は「きゃっ」と、さっきよりは小さいけど、また悲鳴をあげてしまった。

 わざとじゃないと思うけど、後ろから胸を掴まれたら、声が出るのは仕方がないよね。


 彼の手の感触が胸に甘く残り、良く分からない感情が生まれて、私は困ってしまう。


 クズに触られたのとは、全く違う感情だ。

 くっ、クズは人とは言えないから、ちゃんとした人である彼と比べるのは、失礼にあたるか。


 「お邪魔します」と言いながら、私は彼の部屋に入っていく。


 何だかドキドキして、甘酸っぱい気持ちになってしまう。

 彼女である私が、彼氏の部屋をおとずれた瞬間なんだ、私にとっては歴史的な快挙かいきょだ。

 ほんの一月前には、想像すら出来なかったこと。


 玄関で靴を脱ぎ部屋に一歩足を踏み入れれば、高揚感こうようかんと一緒に、なぜか違和感を覚えてしまう。


 「綺麗にしているんですね。 って言うか物がほとんど無いです」


 違和感の正体は、ガランとした殺風景なリビングにあった。

 私の家の居間より大きいのに、圧倒的に家具が無い、寒々さむざむとした空白が空間を占めている。


 私の彼は、薄々うすうす分かっていたけど、ちょっと変わった人なんだ。


 「シンプルイズベストだろう」


 はぁ、シンプルだとは強く思うけど、ベストだとはとても思えないよ。


 テーブルもなくて、どこでご飯を食べているのよ、あきれるわ。

 パソコン用の椅子に座れと言うけど、〈あなた〉は一体どこに座るのよ。

 もっと呆れた、み台に座っている。


 「えぇー、それは踏み台じゃないのですか」


 「〈ハイステップチェア〉って言う優れものなんだよ」


 どうして〈優れもの〉なのか、全然わかんない。

 普通に椅子かソファーを買えば良いだけじゃないの。


 寒いほどスペースはあるし、無理をしなくても椅子を買えるお給料を貰っているのは、私経理だから知っているのよ。


 まあ、良いか、良い事でもあるな。

 ここで住むことになったら、私の趣味で家具を買いそろえれば良いだけのことだ。


 ふふっ、将来のことはおいおい考えましょう。

 それより、この後の事だ。


 「掃除用具を忘れてしまいました」


 私はわざとらしく、頭を抱えている。

 でもこれは演技だ、初めから掃除用具を持ってくる気はなかったんだ。


 ほうきやバケツやちり取りを、電車で持ってくる勇気は、私にはそなわってはいない。

 雑巾ぞうきんや洗剤くらいなら持ってこれるけど、彼の部屋へ初めて行くのに、持ってくる気にはなれない。

 雑巾には、ロマンティックさの欠片かけらもないよ。


 要は〈掃除します〉は、その場限りの言訳なんだ。


 彼も全く気にすることもなく、ペットボトルのお茶を渡してくれた。

 ふふっ、私達って以心伝心いしんでんしんだね。


 ざっと見たとこ、掃除は行き届いているようだから、私がする意味が無いとも思う。


 彼が冷蔵庫を開けた刹那せつな、素早く中を確認した私に衝撃が走る。


 「食材が何も入っていない」


 私の目論見もくろみは、カラカラと音を立てて崩れ去ってしまった。

 冷蔵庫の余り物で、パパパッと夕ご飯を作るつもりだったんだ。


 余り物で、そこそこのおかずを作るが私の特技だから、それを披露ひろうして褒めて貰うつもりだったんだ。


 ガックリ、浅墓あさはかだったと思う。

 私は一人暮らしの男性の生態を、なんにも分かっていなかったんだ。



 彼が常食にしているであろう、カップラーメンを、互いのひたいがくっつきそうな距離で食べている。

 いかにも彼と彼女の関係らしい、こんな食事も悪くはないけど、この人には私がちゃんとした食事を作ってあげなきゃと改めて決意してしまう。


 カップラーメンやコンビニ弁当では、味気ないし病気になってしまうよ。

 私の愛情がこもったご飯を、毎日食べさせたいな。



 汚れを見つけたシンクを、どうでも良いやり取りの後、ピンクの可愛いエプロンをつけて、私はお掃除しだした。


 このエプロンは、あまりにも新婚の奥さんじみているので、違うものにしようと思ったんだ、でも鞄にちゃっかりと入っていたよ。

 どうしてだか、わかんない。


 いいえ、簡単に分かるよ、生まれて初めて彼氏が出来たので、私は舞い上がっていたんだ。


 手に持った〈怖いほど落ちるさん〉は、名前と違いごく普通のメラミンスポンジだから、ゴシゴシみがく必要がある。

 本当はシンクをメラミンスポンジで磨いてはいけないのだけど、クエン酸や重曹も洗剤も無いのだから、今はどうしようもない。


 次は朝から来て、洗剤や普通のスポンジを近くのスーパーへ買いに行こう。

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