第10話 缶ビールと口づけ

 私の家で彼がすき焼きを、一生懸命作ってくれている。


 私が男性を家に連れてくるのは、これが初めてのことなんだ。

 この前の夜に送って貰ったのは、家に連れてくるのとは、少しニュアンスが違うと思う。

 家族と言っても〈おばあちゃん〉しか、私には家族がいないけど、今日は私の彼を家族に紹介する日。


 私は朝から少しドキドキしているし、大きく嬉しい気分。


 私よりも〈おばあちゃん〉の方が、すごく張り切っている気もする。

 すき焼きの具材を切る時に、鼻歌が出てたもの、機嫌がすごく良い時の証拠だ。  

 たまに腰が痛いと言っているのに、大丈夫かな、少し心配。


 すき焼きを作っている彼は、何だか頼もしい。

 うちには長い間、女しかいなかったので、今ここに男性がいるのが少しくすぐったい。

 その人が私と付き合っている彼なんだから、なおさらくすぐったい。


 彼が一生懸命にすき焼きを作る姿は、性格が真面目だから、それが表ににじみ出ているんだ。

 私の招待を快諾かいだくしてくれたのは、私を憎からず思っているはずよ。

 そんな彼を私は信頼して、一生ついていきたいと考え初めている。

 

 大きな嘘を吐いているくせに、信頼していると言えるの、〈美幸〉。

 いいえ、彼は分かってくれます。


 私は彼に全てを捧げようと思うの、また騙されていると言われても、彼にけるしかないのよ。

 だって好きになったんだもん。


 私が少し痛いヒロインを演じている間に、〈おばあちゃん〉が乾杯の発声を終えていたから、慌てて「か・ん・ぱ・い」と唱和しょうわしてからビールを少しめてみた。


 うわぁ、甘くない、かなり苦い。


 缶ビールをプシュッと、彼がいとも簡単に開けるのを見るのが、私は好きなんだと今日知ったね。

 これからもずっと見たいと、強く思ってしまう。


「家ですき焼きを食べるのは、両親が亡くなって以来なんですよ。 すき焼きってこんなに、甘くて美味しいんですね」


 彼の作ったすき焼きは甘くて美味しい、〈おばあちゃん〉も嬉しそうに食べている。

 こんな幸せな食卓を囲みたいと、ずっと思っていたんだ。


 彼は私の夢を、今も少しだけどかなえてくれた、もっと叶えてくれると信じて良いかな。


 「お肉も食べてくださいよ。 さっきから、キュウリの糠漬けしか食べていないですよ」


 〈おばあちゃん〉は彼に文句を言っているけど、目はそれを裏切って、嬉しそうに笑っているのがバレバレだよ。

 自分が作った糠漬けを、沢山食べてくれる人に文句があるはずないわ。

 それは自分自身が、褒められているってことと、ほとんど変わらないと思う。


 私も糠漬けを真剣に覚えよう、でもその前に、彼のグラスへビールを注がなきゃいけない。

 彼のお世話をしたい気分なんだ。

 お肉もネギも白滝も何もかも、全部食べさせよう、男なんだからいくらでも食べられるよね。


 えっ、お腹をさすりながら、もうダウンしている、思ったより食べられないんだ。

 私の五倍くらいはいけると思ったんだけど、それほどじゃないのね。


 でも味覚の限度は底なしみたい。

 会社の女子達の間で伝説になっている、あのおぞましい〈猫またぎ弁当〉を毎日食べているらしい。

 冗談でも笑えないわ、キャットフードの方が倍は美味しいと言われているのよ。


 「〈美幸〉ちゃんが作ってあげたら」


 ナイスフォローだよ、良く言ってくれました。

 さすがは私の〈おばあちゃん〉だけはありますね、孫の気持ちが良く分かっていらっしゃる。


 「美味しくなくても怒ったりしないでね」


 間髪入れずに私も良く言えました、自分を褒めてあげたいです。

 頑張って作りますけど、適当に作っても〈猫またぎ弁当〉に、味で負けるはずがありません。

 相手は食べ物と言えるか、微妙な物ですからね。


 おぉ、彼が遠慮しているのを、また〈おばあちゃん〉が粉々に粉砕してくれました、すごく頼りになります。


 すき焼きを食べ終わったら、彼が帰ると言い出した。

 当然のことだけど、好きになった人と別れるのは、こんなにも淋しいものなんだ。


 小さくてボロい家だけど、〈おばあちゃん〉と一緒に住んでくれないかな。

 もれなく私もついてくるけど、いらないって言わないでよ。


 「ふん、意地悪言わないでよ」


 腕をとって胸を押し付けあげるわ。

 ほれほれ、私も胸は普通にあるんだからね。


 「意地悪ってなんだよ」


 「一杯笑顔を見せてほしかったんだ」


 笑顔じゃなくても良いから、あなたの顔をもっと見ていたいの。

 私が彼の顔をじっと見ていたら、彼が私の頬に触れてくる。


 うわぁ、そんなのダメだよ。

 体がビクンと跳ねて、私の思いが色んな所から溢れ出してしまうよ。


 私は彼を求めて手を伸ばしたんだ、そしたら抱きしめられてしまった。

 心臓がバクバクとして、どうにかなってしまいそうだったけど、私の手はなぜか彼の背中へ回わされている。

 しようとしてしたことじゃない、ごく自然にそうなっていたんだよ。

 これが恋人同士の抱擁ほうようなんだと激しく思う。


 私は彼に抱きしめられて夢心地になっていたら、ふうぁ、今度は口づけをされてしまった。

 好きになった人から、口づけをされるなんて信じられない。

 頭がクラクラして、真っ白になってしまい、唇だけが生生しくて息が上手く出来なくなる。


 あぁぁ、胸が苦しくなって甘くて痛い。


 その後の私は、何かどうでも良い事を言っていたらしい、フアフアしていたから良く覚えていないの。

 ハッキリと覚えているのは、「私で良いの」と聞いたことだ。

 彼は「〈美幸〉のことは嫌いじゃない」と答えてくれた。


 口数が少なくて不愛想な彼が、精一杯私に愛を伝えてくれたんだ。

 私は嬉しくなり過ぎて、恥ずかしいのが彼方かなたへ飛んで、口づけをおねだりしてしまった。


 お布団の中へ入ってから、恥ずかし過ぎて長い間悶もだえてしまったよ。

 ファーストキスで、もう一回なんて、おねだりする人はいないと思う。


 そしてこうも思った。

 クズからされたのは、口づけじゃない。

 あれはケダモノという化け物に、生きる力を吸い取られただけのことだ。


 人間以外としても、それは口づけとは言わない。

 猿や犬や猫としたよりも、口づけからははるかにかけ離れたものなんだ。

 

 そのことが、さっき彼にされて、すごく良く分かった。

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