第8話 すき焼きと街灯
〈美幸〉の家に招待されて、俺はすき焼きを作らされている。
〈美幸〉の〈おばあちゃん〉が言うには、すき焼きは男が作るものらしい。
すげえ昭和だと思ったが、良く考えたら〈おばあちゃん〉は
俺の家でも、おじいちゃんや父親が作っていたけど、それは一家の大黒柱だからだと思う。
まさか俺を、一家の大黒柱にしようとしていないよな。
この家の柱はどれも細くて、折れてしまいそうに見えるけど。
すき焼きを作ると言っても、俺の知っている作り方は雑なもんだ。
〈おばあちゃん〉以外の俺の家族は、雑って言うか、無神経なヤツラばかりだからな。
すき焼き用の鍋に牛脂を溶かしながら塗って、長ネギと玉ねぎを炒めた後、割り下を入れるだけの
主役の肉の色が変わったら、固くならいうちに溶いた卵で、後はひたすら食べるだけだ。
俺が手土産代わりに持ってきた、缶ビールをプシュッと開ければ、〈美幸〉と〈おばあちゃん〉の笑っている顔が鍋の湯気越しに見えている。
何がそんなに楽しいんだろう。
賢い猿みたいに、俺が上手にビール缶を開けたのが、面白かったのかも知れないな。
きっと吹き零すと思っていたんだろう。
「皆の幸せを祈って、カ・ン・パ・イ」
〈おばあちゃん〉の乾杯の発声でささやかな
最初は俺に乾杯をしてほしいと言われたのだが、そこは当然年長者にお譲りしたんだ。
「すき焼きを作るのが、お上手ですね」
〈おばあちゃん〉が空になったガラスのグラスに、トクトクとビールを継ぎ足してくれる。
ヒマワリが黄色の太い線で
誰か忘れたけど小学校の同級生の家で、これにジュースを入れて貰った覚えがあるような、無いような。
「いやー、上手くはないです。見様見真似ですよ」
〈いやー〉って何だ。
もっと洗練された言い方があるだろう。
「家ですき焼きを食べるのは、両親が亡くなって以来なんですよ。 すき焼きってこんなに、甘くて美味しいんですね」
えっ、この家はまだ昭和なのか、〈美幸〉さんよ、いつの時代の話なんだ。
「お肉も食べてくださいよ。 さっきから、キュウリの
んー、そう言われてみればそうだ、
「いやー、このキュウリの糠漬けが絶品なんです。 糠床の手入れが素晴らしいのですね」
泣きながら食べた、〈おばあちゃん〉が作ってくれた、お茶漬けを思い出してしまう。
「ふふ、褒めて頂くのは嬉しいのですけど、お肉も食べて貰わないと余ってしまいます」
「ははっ、それじゃ遠慮なく」
「ビールももっと飲んでよ。 私が注いであげる」
〈美幸〉と〈おばあちゃん〉が俺の小鉢に、肉や
俺は食べ過ぎてもうギブアップだ。
もうすき焼き戦争からは、撤退させて頂きます。
「あれ、しめのおうどんは食べないのですか」
「もぉ、これが一番美味しいんだよ」
良く言うよ、あんたらが俺の腹をパンパンにしたんだろう。
鍋や食器を洗いながら、〈おばあちゃん〉が俺に聞いてきた。
〈美幸〉の家は狭いから、水を流しながらでも台所と居間の間で、普通に会話が可能なんだ。
便利と言えば便利なのか。
「お昼は外へ食べに出られているのですか」
はぁー、腹一杯の時に、食べ物の話はもうしないでほしい。
「いやー、お昼は配食弁当なんです」
「えぇー、あの〈猫またぎ弁当〉を食べているのですか、信じられない」
〈猫またぎ〉ってひどい言い方だな、でも令和の猫は高級志向だから、猫も食べないのはそのとおりかも知れない。
「〈美幸〉ちゃん、そんなに
「うん、一度頼んだことがあるけど、
「ふふ、それなら〈美幸〉ちゃんが作ってあげたら」
「えっ、良いけど。 美味しくなくても怒ったりしないでね」
「いやー、それは申し訳ないですから、ご遠慮します」
「それはダメです。 それほどマズイものには、きっと体に良くない物が使われていますわ。 健康を
うわぁ、あれほどニコニコしていた〈おばあちゃん〉が、
笑顔と怒った顔の落差が激し過ぎて、
死んだ〈おばあちゃん〉に叱られたことを思い出して、チビッてしまいそうだ。
ビールを五缶も飲んでいるから、冗談ではすまない。
「えと、えと、食べさせて頂きます」
「うふふ、分かってくれたら良いのよ」
えへへ、〈おばあちゃん〉が、朝顔の大輪が開いたような笑顔になったから、俺も嬉しくなってしまう。
でも、俺のことを本当は好きでもない〈美幸〉は、迷惑じゃないのか。
「〈美幸〉さんは負担じゃないのか」
「んー、負担とは思わないな。 いつもの倍の量を作れば良いだけだから、あまり変わらないよ」
どうして俺の弁当を作ることになって、邪魔くさいと思わないんだ、良く分からない女だな。
すき焼きをご馳走して貰ったお礼に、俺はペコペコと頭を下げて、〈美幸〉の家を出てきた。
「まだ早いよ」と
「子供じゃないから、一人で帰れるよ」
「ふん、意地悪言わないでよ」
怒っている顔をしているくせに、〈美幸〉は腕を絡めて俺に体をすり寄せてくる。
〈おばあちゃん〉が玄関で見ているのに、色仕掛けをするんだ。
一応結婚はするから、〈美幸〉としてはこれで良いのか。
〈美幸〉の体からはプーンとすき焼きの匂いが漂っているので、空腹の時なら〈美幸〉を美味しそうだと思うのだろう。
「意地悪ってなんだよ」
「〈おばあちゃん〉には優しい笑顔をしてたくせに、私にはかなり冷たかったよ」
「えっ、そうだったかな。 そうでも無かっただろう」
「ふぅん、そうだったのよ。 もっと一杯笑顔を見せてほしかったんだ」
そう言うと〈美幸〉は暗い路地で立ち止まって、俺の顔じっと見詰めてきた。
古い街灯は
ただここで、俺は笑ったり出来ない、笑う要素がなにもないじゃないか。
顔の良いヤツなら
顔が良くない男は、基礎値が低い影響でスキルが生えてこないんだ。
髪の毛も生えにくいと、
〈美幸〉の真剣な
何の意味も無かったんだ、寂しそうに頬が街灯の灯りで淡く光っていただけだ。
「あっ、触ってくれたんだ。 嬉しいな」
〈美幸〉も俺の頬に手を伸ばしてきたので、そのまま〈美幸〉を抱きしめてしまう。
こんなことをするつもりは、全く無かったんだ、その場の勢いってヤツなんだ。
「良い匂いがする」
まだすき焼きの匂いが濃く漂っている。
「うぅ、恥ずかしいよ。 ふぅん、私の匂いを嗅いじゃダメ」
〈美幸〉がトロンとした目で俺を見詰めるから、流れるようにキスをしてしまった。
偽りでも結婚するから良いんだよな。
あれ、そうか。
〈おばあちゃん〉を泣かせないように、結婚するのは止めたんだ。
〈美幸〉に触れた唇を離すと。
「私で良いの」
と〈美幸〉が俺に答えを迫ってくる。
「〈美幸〉のことは嫌いじゃない」
けっ、なんだこれは。
ハッキリしろよ、中途半端な腰が引けた答えだな。
「私はあなたを好きになったの。 もう一度してほしい」
俺はさっきより少し長くにキスをして、〈美幸〉とそこで別れた。
〈美幸〉は古ぼけた街灯の下で、いつまでも俺に手を振っていたな。
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