第7話 虐めとライオン

 〇■☆◆


 「頭がすごく痛いです」


 会社の廊下ですれ違った〈美幸〉が、青い顔をして俺に辛いと言ってきた。


 「弱いのに飲むからだよ」


 「うぅ、反省してます。 でも嬉しかったな」


 「へっ、そんなにお酒が好きなんだ」


 「違いますよ。 可愛いって言ってくれましたし、ホテルへ連れ込まなかったです」


 「あっ、ちょっと、会社でそんなことを言うなよ」


 「うふふ、そうですね。 会社以外で言いますね」


 何が嬉しいのか、〈美幸〉は言うだけ言って歩いて行ってしまった。


 今の話だけ聞いていたら、クズ部長と不倫関係にあって〈寝取らせプレイ〉のためだけに、俺と偽装結婚をしようとしているとはとても思えないな。


 だけど俺を色仕掛けで落とそうとしているは、まぎれもない事実だ。


 良く分からない女だなと思うけど、他の女のことも俺はまるで分っていないからな。

 今まで付き合っていた女には、短期間で全員に振られているんだ。

 全員と言っても三人だけだけど。


 別れを告げられる時の言葉は、若干は違っているけど「愛されている気がしない」で共通している。

 俺はあの行為をする時だけ、「好きだ」「愛している」と言うけど、普段は一度も言ったりしないらしい。


 大いに自覚がある。


 「好き」だとか「愛している」は、興奮している時にしか恥ずかしくて言えないし、そもそも行為を盛り上げるためのスパイスだとしか考えていない。


 俺は小学生の頃に軽い虐めを受けて、先生や両親にもその事を訴えたんだけど、先生は虐めている子に注意もしないで、ホームルームで虐めの授業をしただけだった。


 両親には、やられたらやり返せ、情ないと言われる始末しまつだ。


 それから両親を含めて他人は、俺の事を分かってくれない、助けてもくれない、冷たい生き物だと言うことをさとったんだ。

 人間は決して信用してはいけないことを、経験から学びとったんだ。


 その時、唯一俺の苦しい心を聞いてくれたのが、死んでしまった〈おばあちゃん〉なんだ。

 俺は辛いことを聞いて貰って、抱き着いて泣かせて貰ったことを、今でも鮮やかに覚えている。


 俺は〈おばあちゃん〉に救われたんだ。


 実家には帰らないけど、お寺にある墓には毎年欠かさず、お参りに行っているんだ。


〈美幸〉から、携帯にデートのお誘いがあった。

 今度は動物園に行こうと言ってきた。


 係長と金は諦めてもう断ろうと思ったのだが、デートの後、〈美幸〉の家で〈すき焼き〉を食べましょうと言ってきたんだ。

 この前に奢った分を返すつもりなんだとは思うけど、「〈おばあちゃん〉も、すごく楽しみにしています」といやらしい事をつけ足してくる。


 ぐぬぬ、俺が〈おばあちゃん〉に弱いことを知って、そこをついてくるとは、卑怯じゃないか。

 俺は死んだ〈おばあちゃん〉も、大好きだった〈すき焼き〉を食べるしかないじゃないか。



 動物園で俺は猿山を見ている。


 猿の世界にも序列じょれつがあり、その世知辛せちがらいことで嫌な気持ちにもなってしまうが、どうしても見てしまうんだ。


 群れの中で第一のオスは、他のオスとメスが交尾をしたら攻撃するらしいけど、それでもメスは第一のオスの目を盗んで、他のオスとも交尾をするらしい。

 子孫を、遺伝子を残すための知恵なんだろうけど、不倫をする人間も猿と同じなんだと思う。


 この前までの俺は第一のオスじゃないのに、結婚という契約をしたメスを奪われようとしていたんだな。


 金を得ようとすれば、何かの代償を支払うことになるのは、るぎない真理かも知れない。

 よこしまな金なら、代償はかなりのを帯びているのだろう。


 「お猿さんが好きなんですね」


 「そんなことはないよ。 猿と人間は同じだなと思って見ていたんだ」


 「うーん、人間はお猿さんよりも、ずっと凶悪だと思いますけど」


 〈美幸〉の言うことはもっともだ。

 ここの猿は檻に入れられていちじるしく制限された環境でも、必死に生きていると思う。


 だけど人間は傲慢ごうまんにも生きるかて以上に、他の生き物を殺戮さつりくしまくっているんだ。


 少し飛躍するけど、クズ部長がその典型だ。

 結婚という檻に自分から入っているくせに、チョロチョロと抜け出して、悪さをしてやがる。

 奥さんがいるのに、俺を出汁だしにして〈美幸〉と下劣な行為をしようとしているんだ。


 それに加担かたんしようとしている〈美幸〉も傲慢なんだろうか。

 デートで会っている限り、下劣な女だとはとても思えないが、何を考えてクズ部長と不倫をしているのだろう。


 人間って理解出来ないほど、傲慢なんだな。


 「私は小さなころ、家族でここへ来たことがあるのよ。 ライオンに吠えられて、ワンワン泣いたわ」


 ワンワンね。

 俺は幼い頃の思い出を語り純朴をよそおう、〈美幸〉をからかってやろうと思った。


 「へぇー、可愛い頃もあったんだ」


 「あー、ひどいな。 今は可愛くないみたいじゃないですか」


 〈美幸〉は傷ついたような、次の言葉を待っているような、複雑な表情になっている。


 「ははっ、ごめんよ。 〈美幸〉は可愛いって言うより、今は綺麗になったんだよ」


 俺もこんな歯が浮くような台詞セリフが言えるんだ。

 まやかしの恋人だからだと思う。


 直ぐに壊れる砂上の楼閣さじょうのろうかくみたいな関係だから、何を言ったところで、崩れ去って虚無きょむへ帰って行くだけだ。


 「もぉ、そんなことを真顔で言わないで。 私は綺麗じゃありません」


 〈美幸〉は顔を赤くして、俺の次の行動を待っているように、手の平を開いている。


 俺はちょっと考えて、〈美幸〉の手を少し強引に握って、また恋人繋ぎにしてみた。

 俺はもうガッポリ慰謝料作戦を諦めて、〈美幸〉との関係も今日で終わらせるはずなのに、何をやっているんだ。


 〈美幸〉の目が、何かを必死に訴えているように感じたからだと思う。


 「あっ、私の手を握ってくれるのですね。 もう離さないでほしいです」


 〈美幸〉は寄り添うように俺の顔を見上げながら、ニッコリと微笑んでくる。

 そうされると演技だと分かっていても、ドキッとしてしまうじゃないか。


 「檻に入っているから、今見るとライオンってそんなに怖くないですね」


 当たり前だな、檻に入ってなければ、多くの動物は人間にとって脅威きょういだよ。

 アニメで人気が出て野生化したアライグマは、デッカくて凶暴で、ものすごく怖いらしい。


 「幼かったから、檻から出てくると思ったんじゃないかな」


 「この檻が壊れたりしないと、今の私は信頼しているってことですね」


 「まあ、皆そう信じているよ。 その信頼を裏切られることは万に一つもないからね」


 「その信頼が裏切られてしまうと、襲われてひどい目に遭うのですね」


 「それはそうだな。 その時は上手く攻撃をかわして、僕達が檻に入るしかないな」


 「ふふ、逆に檻に自分達から入るのですか」


 「少し壊れていても、何もないよりは檻の中の方がまだ信頼出来るだろう」

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