第3話 死霊術師シド

「ひぃっ!」


 走っている馬車に飛び乗った男は器用にしがみ付いたまま、コツコツと窓を叩いてドアを開けるように促してきた。その間ずっと微笑みを張り付かせている。不気味すぎて怖いが、このままだといつ振り落とされるかわからないので知らない振りもできないだろう。さすがに目の前で怪我でもされては目覚めが悪いので、カレンは慌てて壁を叩いて御者に馬車を停めるよう指示を出した。


「ちょっと停めて! 人が飛び乗ってて……」

「え? 何です……って、うわっ! 何だこいつ!?」


 ようやく御者も馬車の異変に気付いたようだ。慌てて馬車を停めると、側面にへばり付いていた不審な男を引き剥がしにかかってくれた。

 このまま御者に任せていれば安心だ。そうホッと胸を撫でおろした瞬間、馬車の扉がなぜか御者本人の手によって開かれ、さきほどの男が柔和な笑みを浮かべたまま中に乗り込んできたのだった。


「こんばんは、カレン。いい夜だね」

「……え? え、なに……? どうして勝手に乗り込んでくるの?」

「ちゃんと御者には許可も取ったから大丈夫。さぁ、行ってくれ」


 あまりにも自然にカレン向かいの座席に座った男が、壁を叩いて御者に出発の合図を送った。すると何事もなかったように、馬車は再び夜の街を静かに走り出していく。

 さっきはあんなに男を警戒していた御者が、今ではまるで従者のようにおとなしく言いなりになっている。やっぱりこの男は只者ではないと、カレンの本能がますます危機感を募らせた。それでも動揺していることは悟られないよう、カレンは膝の上の置いた手を密かにぎゅっと握りしめた。


「同席を許した覚えはないわ」


 得体の知れない男と、馬車の中に二人きり。謂わば密室である。警戒心を剥き出しにして精一杯虚勢を張ってみたが、目の前の男はただへらりと笑っているだけで何を考えているのかまるでわからなかった。

 短い黒髪は宵闇のようになめらかで、左側の一箇所にだけ、落ちた流星のごとく一房色が抜け落ちている。服も黒。羽織る外套も帽子も黒一色で、他の色といえば両手にはめた白手袋と黒髪の隙間から覗く薔薇色の瞳だけだ。その赤い瞳をうっすら細めてカレンを見つめた男は、長い足を優雅に組んで、白手袋をした両の手を膝の上で軽く絡めて遊んでいる。

 纏う空気は軽く、でも底の知れない闇を孕んでいるかのようだ。その証拠に、カレンはこの男が馬車に乗ってきてからずっと心臓がバクバクと早鐘を打っている。


「許可は必要ないよ。だって僕がカレンと同席したいからね。それにカレンだって、結局こうして僕を迎え入れてくれたじゃないか。さすが僕の天使。心根まで美しい」

「私が拒否する間もなくあなたが勝手に入ってきたんじゃないの。できれば今すぐ降りて欲しいわ。どこの誰ともわからない人と一緒に仲良く馬車に乗るほど、この身を堕としたつもりはないもの」

「それはよくない噂が立つから?」

「そうよ」


 カレンは婚約破棄されたばかりだ。そんなカレンがパーティーから帰る途中、見知らぬ男を拾ってそのまま馬車で走り去ったなんて噂が流れでもしたら大問題だ。新しい婚約者を見つけるまで、ゴースト令嬢以上の余計な噂など立てられたくはない。弱味を見せないよう気丈に振る舞って男を睨みつけると、なぜか男はうれしそうに頬を緩めていた。


「そうか。そうだったね。自己紹介がまだだった。僕としたことが、君という存在を見つけて興奮しすぎていたようだ」

「話、聞いてた?」

「無論、聞いていたよ。互いを知れば、もう僕のことをどこの誰かもわからない……なんて言えないだろう?」

「それはそうだけど……」


 言いたかったことが何かちょっとずれて伝わっている気がする。けれどカレンが話の軌道修正をする前に、男は脱いだ帽子を脇に置いて、自身の胸に右手をそっとあてがった。そして座ったままわずかに状態を屈めると、反対の左手でカレンの右手をそっと持ち上げた。その時に「やわらかい」と惚けた声が聞こえたのは気のせいにした。


「僕はシド・メルスウィン。この国の中枢を担うメルスウィン伯爵家の次期当主二十一歳独身。絶賛花嫁募集中だよ。でも、花嫁にしたい令嬢はもう見つけてあるんだけどね」

「……メルスウィンって……し、しっ、しし……」

「し?」

「死霊術師のメルスウィン伯爵ーーっ!?」

「えぇー。初対面なのに僕のことを知ってるなんてうれしいな。それほど僕のことが気になっていたんだね、カレン。あぁ、やっぱりこれは運命の出会いなんだ」


 死霊術師のメルスウィン伯爵家。この国で一番不気味な存在として恐れられている一族で、知らない者はいないほど有名だ。なのにその彼らの姿をまともに見た者はいないという。カレンだって一族の存在は知っているが、姿を見たことは今までに一度もない。

 死者や霊を用いた術を得意とする死霊術師。ただでさえ禁忌の領域に近い術であるゆえに、死者への冒涜として一部の魔術師からは忌み嫌われている。それでもメルスウィン伯爵家が途絶えないのは、この国にとって彼らの力が必要不可欠であるということを意味している。


 そんな一族の次期当主であるシドが、なぜカレンの目の前にいるのか。彼の行動からカレンに用があるのは推測できるが、当の本人はさっきからカレンの手の甲を指の腹でスリスリと延々撫で続けているだけだ。ちょっと気持ち悪いが、払いのけるにしては、相手はカレンより地位も名誉もある人物である。下手に刺激しない方がいいかもしれない。


「ちょっ……と待って、ください。何が何だかまるで理解できないんですが……」

「あ、普通に喋ってくれていいよ。そっちの方が何て言うか、お互いの距離がぐっと近付く気がするしね。僕としては物理的な距離も縮めたいところなんだけど」


 そう言って、シドが更にぐっと顔を寄せてきた。なまじ美形なのが癪である。けれどその美貌はこの世のものとは思えないほど危険な魅力を孕んでもいそうで、深みにはまると危険だとカレンの本能が警鐘を鳴らした。


「近いから!」

「カレンは恥ずかしがり屋なんだね。こんなにかわいい姿を知らないまま婚約を破棄するなんて、アーサーはよっぽど見る目がないんだな。でもそのおかげで堂々と君に婚約を申し込むことができるんだけど」

「……はい?」


 聞き間違いだろうか。婚約とか何とか聞こえた気がする。


「霊を見ることのできる子がいるって言うから気になって覗きに来たんだけどさ。カレン、君はすごいよ! 君のその肉体のバランス。四肢の長さ、肌の艶やかさ、匂い、関節の角度、体の左右比、すべてにおいて君はかんっっっっぺきだ! こんなに完成形に近い肉体を持つ者がこの世に存在したなんて……神にこれほど感謝したことがあっただろうか」

「は、はぁ……。それはどうも……?」

「幸い君はちょうどアーサーに婚約破棄されて自由の身になったわけだし、この機会を逃すまいと君に愛を伝えに来たというわけさ。気が急いて、ちょっと強引になってしまったけれどね」

「もしかして……馬車に飛び乗ったのも、行く先々で姿を見かけたのも、あなたの力のせいなの? 御者にも何か術を……」

「そうだね。少し彼らの力を貸してもらった。ほら、見てごらん」


 促されて窓の外を見ると、外灯の下に佇む黒い影が「がんばれ」と言わんばかりにサムズアップしている。ひどく人間らしい死霊だ。


「ということで、カレン。改めて、僕の妻になってくれないか? 君ほど美しい肉体を持った女性を僕は知らない。加えて死霊を見ることのできるその瞳。死霊術師である僕たち一族をも恐れない豪胆さ。あぁ、カレン。君の何もかもが欲しい」


 狭い馬車の中、手を取られたまま美形の男に甘く熱く口説かれている。相手は不気味な死霊術師で行動も思考も若干難がありそうなのに、カレンはシドに取られた手を振りほどくことができなかった。闇に魅入られてしまったと、そう思った。


「一生、死ぬまで君を愛することを誓おう。そして君が死んだら――その肉体を僕のコレクションに加えて、永遠に君を愛してあげる」


 ぞくりとするほど美しい笑みを浮かべて、シドは半ば舐めるような仕草でカレンの手の甲にくちづけを落とした。



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