第43話:静寂と違和感
黒川との対面を終えた俺は、街に出た。彼の「厚意」で評価値をリセットしてもらい、久しぶりの自由な外出に、複雑な思いを抱えていた。解放の喜びと、これからの不安が胸の中にあった。目的地はかつての勤務先、クオンタム・ダイナミクス社だ。サイファー・アーキテクチャ社のビルから徒歩で30分ほどの場所にある。御厨博士に会うため、そして街の様子をうかがうため、俺はゆっくりと歩を進めた。思いのほか足取りは重く、6か月の拘留生活が体に刻み込まれているかのようだった。
街並みは6か月前と変わらないように見えた。高層ビルが立ち並び、ドローンや車、人々が行き交う。しかし、俺の目には微妙な変化が映っていた。路地裏に至るまで、街全体が異様なほど清潔になっていた。ゴミひとつ落ちていない歩道、完璧に整備された植え込み、どこまでも透き通った空気。まるで、現実世界ではなく、仮想世界の中にいるような錯覚さえ覚えた。
人々の表情にも、何か違和感があった。怒っている人、苛立っている人が見当たらない。むしろ、皆が柔和な表情を浮かべていた。笑顔こそ見せていないものの、穏やかな表情ばかりが目に入る。老若男女問わず、強い感情を発露させている人は見当たらなかった。
「これが、『定常状態』の社会なのか」
俺は心の中でつぶやいた。その言葉には、恐れと驚きが染み込んでいた。俺は内心、何かひどいものを目にすることを期待していた。貧困にあえぐ人々や、悲しみや怒りに満ちた抑圧された市民の姿を。そうすれば、俺の選択は簡単に決まっただろう。黒川たちに抵抗する理由が明確になるはずだった。しかし、実際に見た静かな街は俺の心をさらに迷わせた。表面上は、みな穏やかに見える。これは本当に間違った世界なのだろうか。
クオンタム社が入るJDタワーの姿が大きくなってきた。俺は足を止め、深呼吸をした。ここで働いていた日々が、まるで遠い過去のように感じられた。あの頃の自分は、こんな未来が来るとは想像もしていなかった。
受付のAIアバターに御厨博士との面会希望を告げると、「すぐに上がってきてください」との返事があった。もし評価値がマイナスのままだったら、間違いなく面倒なことになっただろう。ロビーを歩く俺と時折すれ違う、旧知の社員たちは驚きと哀れみの目で俺を見つめていた。中には露骨に避ける者もいた。かつての同僚たちの冷たい態度に、そんなものだと自分を納得させた。
クオンタム社のフロアに向かうエレベーターの前で、俺は躊躇した。まだ考えが整理できていなかった。御厨博士に会って、何を伝えればいいのか。黒川の提案をどう受け止めればいいのか。頭の中は混乱し、思考は堂々巡りを続けていた。
「屋上庭園に行こう」
俺は突然思いついた。あの場所なら、少し頭を整理できるかもしれない。
エレベーターのボタンを押そうとした瞬間、扉が開いた。中から降りてきたのは、中川莉子だった。彼女の姿を見て、俺は一瞬、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
「真島先輩!」
中川莉子の声が響く。驚きと喜びに満ちた表情で、彼女は俺に駆け寄った。その姿は、この6か月間で見た中で最も人間らしい反応だった。
「大丈夫だったんですか?」
中川莉子の目には涙が浮かんでいた。その純粋な心配に、温かい感情が胸に広がった。
「ありがとう、大丈夫だよ」
俺は優しく答えた。その言葉には、感謝の気持ちが込められていた。
「またいつかで話そう」
そう言って、俺はエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前、小さく手を振る中川莉子の心配そうな表情が目に入った。その表情が、俺の心に深く刻み込まれた。
エレベーターが上昇する間、俺は中川莉子のことを考えていた。評価値や流される情報ではなく、彼女は俺自身を自分の目で見て判断してくれている。俺は中川莉子を見直した。同時に、自分の人を見る目の不確かさを恥じた。
エレベーターが屋上階に到着し、扉が開いた。俺は深呼吸をして、庭園に足を踏み入れた。懐かしい風景が、俺を出迎えた。
目の前に広がる景色は、以前と変わらなかった。季節は初夏、色とりどりの花々が咲き誇り、東京の街並みが一望できる。しかし、俺の心の中には、以前とは全く違う景色が広がっていた。かつての希望に満ちた未来への光は消え、不安と迷いが闇の中に沈んでいた。
ちょうど1年前、昼休みに澪と二人でここに立ち、ライフコードを変えていくことを話し合ったのが、まるで昨日のことのように思い出された。あの頃は、世界を良くできると信じていた。しかし、今は澪はここにはいない。その事実が、俺の心に重くのしかかった。
俺は手すりに寄りかかり、遠くを見つめた。これからどうすべきか。黒川の提案を受け入れるべきか。それとも、抵抗を続けるべきか。昔、プログラミングに迷ったときにそうしたように、俺は深い思考に入っていった。目の前に広がる東京の街並みを見つめながら、俺は自分の選択が、この街に住む全ての人々の未来を左右すると考えると、その重圧に、わずかに肩が震えた。
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