第44話:無限ループの先
屋上庭園から見渡す夕暮れ時の空が、燃えるようなオレンジ色に染まっていく。俺は、はるか下に広がる街並みを見下ろした。かつては誇らしく思えたこの景色が、今は何か冷たく、よそよそしく感じられる。
「人々が自主的に選び取った未来」
黒川の言葉が口をついて出た。呟いた言葉が、夕方の冷たい風に流されて消えていく。
突然、強烈な混乱が俺を襲った。自分が作り上げたシステムが、こんな歪んだ世界を作り出してしまった。その責任に、心を押しつぶされそうになる。しかし、その中で人々は不満なく暮らしている。社会は完全な安定を達成している。矛盾する現実に、自分が積み上げてきた価値観が根本から揺さぶられていた。頭の中に、様々な思いが押し寄せてくる。
これまでの出来事が、走馬灯のように頭をよぎる。失われた友人関係、家族との断絶、社会からの排除。そして、人々の目に宿る冷たさと無関心。それらの記憶が、一つ一つ鮮明に蘇ってきた。胸が痛むほどの後悔と、やり場のない怒りが胸に満ちていく。
「自由とは何か」
その疑問が、心を深く刺す。俺たちが追い求めてきた「自由」は、本当に人々が望んでいたものだったのか。それとも、単なる俺たちの独りよがりだったのか。人々が自ら望んで自由を手放すとき、俺たちは何をなすべきなのか。
「自由を手放す自由」
そんな言葉が頭の中を巡り続けた。俺は頭を強く振ると強制的に考えることをやめた。
ここに澪がいてくれたら、と思う。結月も西村さんも斎藤さんも、ここにはいない。もし、彼らを取り戻したければ、黒川に協力することが必要だ。そんなことができるだろうか?仲間を危険に晒してまで戦ってきた黒川のもとにくだるのか?深い葛藤が心を満たしていく。
状況は絶望的だった。黒川と戦うとしても、地下シェルターで助け合った仲間はもういない。KBらも消息不明だ。御厨博士とふたりで、国家権力に深く食い込む黒川と対峙することが、いかに無謀なことかを6か月の拘留によって俺は身をもって理解していた。
選択肢の一つ一つが、俺の心を引き裂いていく。俺は、出口のない無限ループの中にいた。視野が狭くなっていた。気がつくと、俺はフェンスを乗り越え、186階の端へと足を向けていた。まるで何かに吸い込まれるように。風が強くなり、髪を乱暴に揺らす。その冷たい風が、俺の心の中の混乱を凍らせる。
虚ろな目で遥か下を見つめる。あと一歩踏み出せば、この無限ループから脱出できる。俺の作り出した歪んだ世界との繋がりも、価値観の混乱も、心を引き裂かれるような決断も、絶望的な状況も、全て消える。その誘惑に、俺の意識が揺らいだ。
右足が宙に浮いたその瞬間、左手首のデバイスが激しく振動した。その振動が、俺を現実に引き戻した。
驚いて確認すると、デバイスの小さな画面上で、信じがたい数値が踊っていた。
「+500...+700...+800」
評価値が、驚異的な速度で上昇し続けていた。数字は止まることを知らず、上昇を続ける。俺は言葉を失った。
俺が作ったこのシステムは、俺が死ぬことを望んでいるのだ。「死」という選択が、今の俺にとって人生の「最善手」なのだ。どの選択肢にも苦しみが伴うとしたら、死こそが幸福への道だと、システムは推奨しているのだ。
怒りとも悲しみともつかない感情が広がった。その瞬間、全ての感情が一気に溢れ出す。
気がつくと、俺は生まれたときから一度も出したこともないような声で、叫んでいた。この瞬間、俺は全てを理解した。ライフコードは、やがて人類を破滅に導く。その認識が、俺の中で鮮明に形作られていく。
急いで屋上の端から離れる。意思に反して足が震える。心臓の鼓動が、耳に響くほど激しくなっていた。
「ねーよ」
なぜか笑いがこみ上げてくる。今なら断言できる。このシステムは完全に間違っている。その確信が、俺の中で強まっていく。
もう一度、街の風景を見渡す。今度は、違った光景が見える。規則的な光の流れの中に、それに逆らうように不規則に動く光の点がいくつか見える。社会は完全に安定しているわけじゃない。人々の心の中には揺らぎが残っているはずだ。その小さな光が、俺の中に希望を灯す。この世界を変える道は、まだ残されている。
心は決まった。俺は屋上庭園を後にし、御厨博士のもとへ向かった。その足取りは、屋上庭園に上ってきたときよりも格段に確かなものになっていた。
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