第41話:自由と代償

拘束から6 か月が経ったある日、俺は突然の釈放を告げられた。理由は一切説明されず、ただ「もうここにいる必要はない」と言われただけだった。俺は、この理由のない解放に戸惑いを感じたが、拘束され続けるよりましなのに間違いはなかった。不安と期待が入り混じる複雑な心境で、俺は拘置所の出口へと向かった。


係官から左手のデバイスを無言で返却される。それを左手に装着すると、冷たい金属の感触が、現実世界に戻ってきたことを実感させた。画面に表示された評価値を見て、俺は天を仰いだ。


「マイナス800…」


拘束されたときと数値は変わっていなかった。その数字が意味するものを、俺は痛いほど理解していた。社会からの完全な疎外。これからの生活がいかに困難なものになるか、想像するだけで心が沈んだ。


2050年6月、拘置所の重い扉が開き、久しぶりに外の空気を吸い込んだ。わずかな風が頬をなでる。いつの間にか夏になっていた。木々の緑が鮮やかで、目が眩むほどだった。俺は、拘束されたとき着ていたジャケットを脱いだ。6ヶ月前の服は、今の季節にはそぐわなかった。汗が額を伝う。


拘置所の出口に停まっている黒塗りの高級車が気になった。誰かが俺を待っているようだった。胸の奥に、かすかな不安が芽生える。


「真島樹さん」


俺が歩みを進めると、車から降りてきた男が声をかけてきた。スーツ姿の男性は、どこか官僚的な雰囲気を漂わせていた。


「サイファー・アーキテクチャ社からのお迎えに上がりました。黒川相談役がお呼びです」


俺は一瞬、逃げ出すことを考えた。しかし、孤立無援の今の状況ではほとんど無意味だ。むしろ、黒川彰と会うことで、道が開ける可能性に賭けるべきだ。深い吐息と共に、俺は覚悟を決めて車に乗り込んだ。


車内は静寂に包まれていた。柔らかな座席の感触が、長い拘留生活を経た体には心地よく感じられた。窓の外を流れる初夏の景色を見ながら、6ヶ月間の拘留生活を思い返していた。狭い独房、味気ない食事、そして何よりも自由の喪失。あの日々が、まるで悪夢のように感じられた。


車は甲州街道を東に向かっているようだった。俺は府中に拘留されていたことを理解した。仲間たちのことが頭をよぎる。澪、結月、西村さん、斎藤さん。彼らは無事なのだろうか。今、どこで何をしているのだろうか。心配と後悔が胸に去来する。


30分ほど走ると、車は見慣れたビルの前で止まった。それは半年前に澪と潜入したビルそのものだった。複雑な感情が蘇る。あの日の緊張感、興奮、そして澪との別れ。全てが鮮明に蘇ってきた。


今回は何の妨害もなくエレベーターで最上階まで案内された。静かに上昇するエレベーターの中で、俺は深呼吸を繰り返した。何が待っているのか分からない不安と、ここまで来た以上何かを変えられるかもしれないという期待が入り混じる。


豪華なオフィスに足を踏み入れた瞬間、俺の目に飛び込んできたのは、結月がハッキングした資料で何度も見返した男の姿だった。


「やあ、樹くん。だね」


黒川彰が穏やかな笑顔で迎えた。その態度に、俺は戸惑いを隠せなかった。想像していた冷酷な独裁者のイメージとは、かけ離れていた。


「どうぞ、座ってくれたまえ」


俺は慎重に椅子に腰掛けた。緊張で背筋が伸びる。柔らかな椅子の感触が、妙に現実感を欠いているように感じられた。


「まず、君に謝罪したい」


黒川が口にしたのは意外な言葉だった。表向きは柔和な表情を浮かべているが、目に宿る光は鋭かった。その目は、俺の心の奥底まで見透かしているかのようだった。


「長い間、不自由な思いをさせてしまった」


俺は黙ったまま、黒川の次の言葉を待った。何か裏があるはずだ、そう直感が告げていた。


「実は、君とじっくり話をする機会が欲しかったんだ。誤解を解きたかったんだよ」


「誤解?」


俺は思わず声を上げた。その言葉に、怒りが込み上げてきた。仲間の皆が6ヶ月も拘留されていることが「誤解」で片付けられるものなのか。


黒川は俺を見てゆっくりと言った。その口調には、まるで子供をなだめるような優しさがあった。


「君は我々のことを、悪の組織か何かだと思っているようだね」


俺は言葉に詰まった。確かに、そう思ってる。しかし、目の前の黒川の態度は、想像していたものとは違う。穏やかに振る舞い、理性的でもある。


「我々の目的は、社会の安定と人々の幸福だ」


黒川は静かに語り始めた。意外にも、その言葉に嘘が含まれているようには思えなかった。


「ライフコードは、それを実現するための大切な手段なんだ」


「でも、ライフコードを使って、あなた方は人々の自由を奪っているじゃないですか」


俺は反論した。胸の内にある怒りと正義感が、その言葉を絞り出させた。


「本当にそうかな?」


黒川は穏やかに問いかけた。その表情には、少しも動揺の色はなかった。


「君も知っているとおり、人々は、自ら望んでライフコードに従っている。人間は自由を与えられても、それを正しく扱えないことがある。いや、むしろ多数の人間は、自由を持て余して困っているんだ」


俺は黙って聞いていた。黒川の言葉には、一理あるように思えた。確かに、人々はライフコードを自ら選択し、それに従っているように見える。しかし、本当にそれが正しいのだろうか。


「ただ」


黒川が声のトーンを変えた。その口調に、俺は思わず身を乗り出した。


「今の状態から、少しずつ、君たちの言う『自由』を人々に認めていくことに私は反対しない」


俺は驚いて顔を上げた。これは予想外の展開だった。黒川の真意を探ろうと、俺は必死に頭を働かせた。


「君が我々と協力してくれれば、ライフコードを段階的に自由化していくことも可能だ。そして...」


黒川は一瞬言葉を切った。その間際、俺の心臓の鼓動が高まるのを感じた。


「君の仲間たちを解放することもできる」


俺の心臓が高鳴った。仲間たちの解放。それは、俺が最も望んでいたことだった。しかし同時に、それが罠である可能性も頭をよぎった。


「どういうことですか?」


俺は慎重に尋ねた。声が少し震えているのを感じた。


「簡単だ」


黒川は微笑んだ。その笑顔に、俺は一瞬、魅了されそうになった。


「君がライフコードの開発に協力してくれれば、我々は君の仲間たちを全員解放する」


俺は深く考え込んだ。確かに、魅力的な提案だった。仲間たちの安全が保証され、同時に社会も少しずつ良い方向に向かう可能性が生まれる。しかし、それは本当に正しい選択なのだろうか。黒川の言葉を信じて良いのだろうか。


「考える時間をください」


俺は静かに言った。すぐに答えを出すのは危険だと直感していた。


黒川は穏やかに頷いた。その表情には、理解と期待が滲んでいた。


「もちろんだ」


俺は窓の外を見た。高層ビルの窓から見える東京の街並みは、6ヶ月前と変わらないように見えた。しかし、その表面下で何が起きているのか、想像もつかなかった。人々は本当に幸せなのだろうか。この静かな街並みの下に、どれだけの苦しみや矛盾が潜んでいるのだろうか。


「考えてみてくれ」


黒川は続けた。その声には、真摯さと期待が込められていた。


「君の力があれば、我々はより良い社会を作り上げることができる」


俺の頭の中で、様々な思いが交錯した。仲間たちの安全、社会の未来、そして自分の信念。全てが複雑に絡み合い、簡単には答えが出せそうになかった。俺は今、人生で最も重要な決断を迫られている。その重圧が、俺の肩に重くのしかかっていた。

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