第39話:突入

夜の闇が深まる中、俺たちはつかの間の休息に身を委ねていた。サイファー・アーキテクチャ社への潜入作戦開始まであと僅かだった。部屋の中は静かで、仲間たちの寝息だけが聞こえる。俺は眠れずにいた。明日の作戦のことが頭から離れなかった。


その時、突然俺の左手のデバイスが震え、メッセージが届いた。KBからだ。画面に浮かび上がった文字に、俺の心拍数が跳ね上がった。


「すぐに逃げろ」


俺は混乱した。意味が分からない。ベッドに横になっている西村さんと斎藤さんに画面を見せる。二人の表情が一瞬で緊張に満ちた。


「ガサ入れか」


西村さんが顔をしかめた。その目には長年のジャーナリスト経験から培われた危機察知能力が光っていた。


「すぐに逃げるべきだ」


斎藤さんも即座に判断を下した。


しかし俺は躊躇した。これまでの準備、仲間たちの努力、全てが水の泡になる。


「でも、作戦が...」


西村さんは厳しい口調で遮った。


「捕まれば元も子もない」


俺は歯を食いしばった。そうだ、ここで捕まるわけにはいかない。俺は急いで眠そうにしている結月を起こそうとした。あどけない寝顔を見ると、胸が痛んだ。こんな危険な目に遭わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


その瞬間だった。


小さな爆発音の後にドアが勢いよく開いた。


「動くな!」


怒号と共に、何人もの武装した警官が部屋になだれ込んできた。


俺の頭の中で様々な思考が駆け巡る。脱出ルート、抵抗の可能性、仲間の安全...しかし、現実は残酷だった。脱出の道はない。窓もなく出入り口が1カ所しかない地下シェルターでは袋のねずみだった。


俺は瞬時に判断した。仲間、特に結月の安全を守ることを最優先にしなければならない。今は抵抗せず、衝突しないことが大切だ。


俺はゆっくりと両手を挙げ、冷静を装って話しかけた。声が震えないよう、必死に努力した。


「我々は抵抗しません。この場所には銃も爆発物もありません」


NSP銃はあったが、今は手が届く範囲にはなかった。たとえ手元にあっても1丁では何もできないことは分かっていた。


「まずは、令状を見せていただけますか」


令状が無いことは承知していた。しかし、少しでも時間を稼ぎたかった。俺にはある任務を遂行する義務があった。


「令状は必要ない」


最も高位と思われる警官が冷たく答えた。その声には、法を超越した権力の傲慢さが感じられた。


「なぜですか?」


「お前たちが知る必要は無い」


治安維持法が根拠であることは間違いなかった。


突然、結月の震える声が響いた。


「兄者!」


さっきまで眠そうだった結月が、今は怯えた表情で俺にしがみついていた。その姿を見て、胸が締め付けられた。


俺は結月を抱きしめながら、警官たちに向かって言った。


「子どももいます。抵抗しませんので、手荒なまねはしないと約束してください。その様子を見ている人間もいます」


俺はPCのカメラに目を遣った。


「約束してくれれば、このPCのカメラを切ります」


警官は一瞬躊躇した後、頷いた。


「分かった。約束しよう」


俺は左手でAudreyの端末にあるキーボードの一つのボタンを押した。


「いま、切りました」


心の中で祈る。カメラなど作動していなかった。いつでもキー一つで起動できるように準備していたプロセスが走り出した。これで、Audreyは御厨博士のもとに無事転送されるはずだ。これが、最後の任務だった。


「それでは全員、壁に向かって手をついて」


警官の命令に従い、全員が壁に向かって並んだ。冷たい壁に額をつけながら、俺は必死に次の手を考えようとした。しかし、出来ることは何もなかった。


俺の頭の中で、KBの言葉が鮮明によみがえった。


「物理的に会うリスク」


全員が1カ所にいることのリスクを、最後の最後で理解した。俺はネットでの会話を傍受されるリスクを過大に評価しすぎていた。今気づいても遅い。後悔が胸を刺した。


心の中で呟く。


「ごめん、澪、みんな。俺の力不足だ」


警官たちが一人一人に手錠をかけていく。冷たい金属が手首に食い込む感覚に、現実の重みを感じた。結月が小さく震えているのが分かる。


「大丈夫だ、ユヅ」


俺は優しく声をかけた。


「必ず何とかする」


何の根拠もないことは自分が1番分かっていた。しかし、その言葉が、自分への励ましでもあった。


西村さんと斎藤さんは無言だったが、その表情は堂々としており、そこには修羅場を経験してきた大人の頼もしさがあった。彼らの姿を見て、俺は少し勇気づけられた。


俺は深く息を吐いた。確かに、この瞬間は敗北だ。しかし、まだ終わったわけではない。Audreyは無事で、御厨博士の元に着いているはずだ。インディゴも動いている。そして何より、自分たちの心は折れていない。


警官たちに連行されながら、俺は冷静に状況を分析した。俺たちへの治安維持法の適用は、エターナル・ソサエティが既に権力機構の中枢にまで食い込んでいることを示している。状況は想像以上に深刻だった。


俺たちは警官に押され、シェルターの外に出た。深夜の冷たい空気が頬を撫でる。俺は深呼吸をした。今は冷静に、次の展開を待つしかない。必ずチャンスは来ると信じるほかにない。


俺は仲間たちに向かって小さく呟いた。


「まだ終わっていませんよ」


その言葉には、決意と希望が込められていた。


人類の自由を守るための戦いは、まだ続いていた。そのはずだった。しかし、これからの道のりがいかに険しいものになるか、俺にはまだ知る由もなかった。夜空に輝く星々が、俺たちの未来を静かに見守っているようだった。

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