第35話:怪物

ある夜、地下シェルターの薄暗い照明の下、俺、西村さん、斎藤さんの3人が食事用のテーブルに向かい合って座っていた。ささやかな夕食の後の落ち着いた雰囲気の中、俺は静かに口を開いた。


「斎藤さんはなぜ官僚を目指されたんですか? 東大卒では珍しいと思うんですが」


斎藤さんは少し驚いたような表情を浮かべた。西村さんが笑いながら割り込んだ。


「そうか、真島くんは官僚と言えば東大、という時代を知らないのだな」


「いや、私の時代でも既に東大から官僚を目指す人間はごく少なかったんですよ」


と斎藤さんが西村さんに言う。


斎藤さんは俺の方を向いて、語り始めた。


「自分で言うのもなんだが、当時は人材が不足していたんだよ。ほとんどの人間は『官僚にでもなるか』という感じで、何か志を抱いている人間は極めて少なかった。激務なのは前提として、私が官僚になったころは財政赤字が重くて新しいことをする余裕はないし、政治家の質も低くて、ほとんどの人は官僚は後ろ向きな仕事だと思っていたんだ」


西村さんが頷きながら言った。


「そうだな。だから斎藤君は目立っていた。発言も異彩を放っていたし、30代前半で課長なんて、昔なら絶対考えられない。だから、目をつけたのさ。将来必ず次官になると踏んでね」


俺は真剣な表情で聞き入っていたが、ふと疑問が湧いてきた。


「そんなに優秀な人が、なぜ官僚なんかに」


そういった後、俺はしまったと思った。失礼な言い方だった。


斎藤さんは俺の率直な質問に微笑んだ。


「いや、当然の疑問だ。私の場合、父が官僚だったというのもあるが、それ以上に、このまま何もしなければ、この国はなくなってしまうんじゃないかという危機感があったんだ。今となっては青臭い、自信過剰の思いだったかもしれない」


国がなくなってしまう危機感。俺はその言葉に衝撃と違和感を覚えた。俺はこれまで、国について漠然とは考えたことがあっても、それが存在するのは大前提で、なくなるとか、なくならないとか、そういう風に考えたことは一度もなかった。


齋藤さんは続けた。


「ただ、この危機感は概ね正しかった。実際に官僚になって分かったんだが、この国には「運転手」がいないんだよ。例えるなら、ハンドル省、アクセル省、ブレーキ省、車両整備省などはあるが、それぞれが数年先までを見ながらそれぞれ仕事をしている。本来ならそれらをまとめて運転を行うべき政治家も次の選挙で当選することに精一杯だ。語るのは漠然とした「天下国家論」で、なんとなく海に行きたいとか、いや山が良いとかその程度なんだよ」


俺は齋藤さんの危機感を、少しではあるが共有できた気がした。俺はさらに踏み込んだ。


「それが、なぜエターナル・ソサエティに...すみません」


斎藤さんは少し考え込んでから、慎重に言葉を選びながら俺に答え始めた。


「あれは、悪い意図で始まったものじゃなかったんだ。俺は『エターナル』を古い言葉だが『サステイナブル』と受け取っていたんだよ。様々な意味で、2040年代初頭の日本は行き詰まっていた。財政的にも、様々な社会制度も、明らかに沈没を始めて20年近くたっていたのに、誰も手をつけようとしなかったんだ」


西村さんが同意するように頷いた。


「確かに酷かった。私も何度もそういう記事を書いたが、まったく国民には響かなかったな」


斎藤さんは続けた。


「そもそも、俺はハーバードに派遣されて『根拠に基づく政策決定』EBPMを学んで感銘を受け、政策立案や評価にAIをもっと活用すべきだと考えていたんだ。しかし、現実は一向に進まない。焦りを感じていた頃、エターナル・ソサエティから声がかかったんだ。聞けば、AIの行政への活用を進めるという。渡りに船だと思ったよ」


斎藤さんの表情が暗くなる。


「当初、彼らの活動と私の考えに方向性のズレは感じなかった。ところが、ライフコード実現の目処が立ったころから、雲行きが怪しくなり始めたんだ。『AIの上にはやはり人間が立ってコントロールしなければ危険だ』という流れになった。「危険」というのは彼ら特有の言い方で、実際にはいかにAIを改変すれば、社会を自分たちの思うようにコントロールできるかということだった。それは、俺が目指す方向と明らかに違っていたんだ」


俺は静かに言った。


「それで内部告発を」


「そう、西村さんにお世話になってね」


と斎藤さんが言った。


西村さんが深刻な表情で言った。


「あれも酷かった。斎藤君の告発は一時は話題になったんだが、マスコミによる続報も国民の関心も続かなかった。そうしているうちに、斎藤君の汚職疑惑が流れ始めた。私は斎藤君を守れなかった。今でも後悔している」


斎藤さんは俺を見つめ、厳しい口調で言った。


「いいかい樹くん。覚えておくがいい。国家というものは、自分がその中にいたり、対立していない限りにおいて、透明な存在に見える。しかしそれに反抗しようとした瞬間、恐ろしい怪物リヴァイアサンが立ち現れる」


西村さんが頷いた。


「全く同感だ」


西村さんは続けた。


「政府の方針に沿った報道をしている限りにおいて、政治家も官僚もフレンドリーに接してくる。しかし、一旦それに疑問を持ったり反対の論陣を張ったりすれば、蛇蝎のごとく扱われる。会見に入ることすら難しくなるし、事案によっては身の危険を感じたことも1度や2度ではなかったよ。あれはまさに、怪物だ」


俺は西村さんと斎藤さんの言葉に、背筋が寒くなるのを感じた。彼らが経験してきた現実の重みを、感じ取った瞬間だった。しかし、俺はこの時、怪物の真の姿をまだ理解していなかった。

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