第32話:パンドラの箱

夜明け前。俺と西村さん、斉藤さんは地下シェルターに集まっていた。俺は左手からデバイスを取りはずし、テーブルの中央に置いた。


西村さんが心配そうな表情で俺に近づいてきた。


「真島くん、橘さんは...」


俺は深刻な面持ちで答えた。


「まだ何も分かりません。でも、必ず救出します」


ここで立ち止まって嘆く時間は無かった。そんなことは澪も望んでいないという確信が俺を動かしていた。


「私にできることがあれば何でも言ってくれ」


西村さんの言葉に、俺は感謝の意を込めて頷いた。


「西村さん、斎藤さん、危険な場所までありがとうございます」


俺は頭を下げた。


「リモートではセキュリティの不安があったので、集まっていただきました」


二人が頷いた。


「兄者、僕はなぜ呼んでくれなかったの?」


リモートで接続していた結月が不満げに言った。


「お前はネット接続でもセキュリティに自信があるんだろ」


俺は答えた。


「それにしても...アバターと名前、なんとかならなかったのか」


俺は首を傾げる。ユーザーネームはimosuna-taro46、アバターはよく分からない中年男性だ。


「仕方ないだろ、捨てアカなんだから!」


結月が不満げに言う。


俺は気を取り直して、表情を引き締めた。


「すみません、それでは始めます」


俺は深呼吸し、デバイスをタップした。


「Audrey、聞こえるか?」


一瞬の静寂の後、デバイスの画面が明るく光り、柔らかな、少しレトロな感じがする若い女性の声が響いた。


『はい、聞こえます。樹さん、みなさん』


樹以外の3人は初めて聞くAudreyの声だった。


「Audrey、まずは自己紹介してくれないか?」


俺が静かに促した。


『はい。私はAudrey、倫理判断を行うAIです。15歳相当の知性と感性を持つように設計されています』


「15歳!僕と同じだね」


結月が嬉しそうに言った。


西村さんが首を傾げた。


「なぜ15歳?」


『それは、人間の倫理観が最も純粋で、現実社会との接点を持ち始める年齢だからです』


Audreyは穏やかに答えた。


『大人になりきっていない、でも子供でもない。その間にある感性が、最も公平で理想的な倫理判断を可能にすると考えられたのです』


斎藤さんが口を開いた。


「興味深いな。しかし、そんな若い感性で複雑な社会問題を判断できるのかな?」


『確かに、私は経験不足です』


Audreyは率直に認めた。


『しかし、それを補うためにコンピュータの発明以来蓄積された膨大なデータと学習能力が与えられています』


結月が興奮した様子で前のめりになった。


「すごい! Audrey、ZX81とか知ってる?」


Audreyの声に、少し楽しそうな調子が混じる。


『もちろんです。でも、今はもっと大事な話があります。みなさんに、真実をお伝えしなければいけません』


俺は身を乗り出した。


「真実?」


『はい』


Audreyの声が真剣味を帯びる。


『エターナル・ソサエティの本当の目的、そしてライフコードで行われていた不正について』


全員が息を呑んだ。これこそが、俺たちが求めていた答えだった。


Audreyは静かに、しかし力強く語り始めた。


『エターナル・ソサエティ、つまりサイファー・アーキテクチャ社は、表向きは政府からライフコードの運営を委託されています。しかし実際には、彼らは独自の目的を持ってライフコードを改造し、運用していました』


「どんな目的だ?」


西村が鋭く質問した。


『彼らは、人類の幸福は管理された社会でのみ達成できると信じていました。そのために、ライフコードを利用して人々の行動を細かくコントロールしようとしたのです』


「なんだよそれ!」


結月が声を上げた。


Audreyは続けた。


『それだけではありません。彼らは企業や有力者からの依頼を受け、評価値を操作していました。特定の企業や政党に有利になるよう、人々の行動を誘導していたのです』


「具体的にはどんなことを?」


西村さんが尋ねた。


『例えば、ある大手企業の新製品発売時には、その商品を購入する行動の評価値を一時的に引き上げました。また、選挙の際には特定の候補者に投票する行動の評価値を高く設定しました』


「そんな!」


俺は声を上げた。


「完全に人々の行動を誘導しているじゃないか」


『はい』


Audreyの声には悲しみが滲んでいた。


「もしかして、以前俺と澪さんが見つけた、ライフコードに不正にアクセスした企業や政府機関のIPアドレスが記録されたディレクトリに「最重要」のマークをつけてくれていたのは、君かい?」


俺が尋ねると、Audreyは静かに応じた。


「そうです。あの時の私にできる精一杯のことでした」


Audreyは再び話し始めた。


『彼らはこのシステムを「数値によるパノプティコン」と呼んでいました』


「パノプティコン?」


結月が眉をひそめた。


「一望監視システムのことだ。円形の建物の中心に監視塔があり、周囲の独房を常に見渡せる構造になっている。囚人たちは常に監視されているかもしれないと感じ、自然と規律を守るようになる​​​​​​​​​​​​​​​​」


斎藤さんが答えた。


『その通りです』


Audreyが説明を続ける。


『エターナル・ソサエティは、ライフコードの評価値を通じて、人々に常に行動を評価されているという意識を持たせ、自発的に「望ましい」行動を取るよう仕向けようとしたのです』


俺たちが作り上げたはずのシステムが、こんなにも歪められていたとは。想像を超えた真実に、俺は言葉を失った。

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