第31話:離脱

その声で、沈黙は破られた。


「おはようございます、樹さん」


Audreyの声が樹のデバイスから響いた瞬間、部屋の空気が一変した。レイチェルの目が見る見る冷たさを増していく。


「まさか...」


レイチェルの声に、僅かな動揺が混じる。


次の瞬間、彼女は壁の火災報知器に向かって走り出した。その意図を理解するのに、時間はかからなかった。火災報知器が発動すれば、警備が駆けつけるとともにこのフロアの防火扉が閉鎖され、逃げ道が塞がれる。


澪の動きは、光のように素早かった。レイチェルの腕を掴み、彼女を床に押し倒す。


「樹!」


澪の叫び声が響く。


俺は躊躇なくNSP銃を取り出した。残弾1発の表示が光る。


その時、サーバー室のドアが開いているのに気づいた警備員が駆けつけてきた。


「動くな!」


若い警備員が震える手でNSP銃を構える。その声には緊張が滲んでいる。


時間が止まったかのような静寂が流れる。


俺の頭の中で、様々な選択肢が瞬時に駆け巡る。レイチェルを撃つべきか、警備員か。


その瞬間、俺の体が勝手に動いた。


俺がNSP銃の引き金を引く。音もなく、警備員の体が痙攣し、床に崩れ落ちる。その音だけが、静寂を破った。


俺自身、自分が反射的に引き金を引いたことに驚いていた。


静寂が訪れる。しかし、それは長くは続かなかった。


遠くから複数の声が聞こえてきた。


「おい、どうかしたか?」


澪が叫んだ。


「行って!」


その瞬間、澪は何かを俺に向かって投げた。手に取って見ると、それは偽造された社員IDカードだった。


「必ず助ける!」


とっさに俺は叫んだ。澪はかすかに笑ったように見えた。


俺は走り出した。非常階段に飛び込むと同時に、後ろから物音が聞こえた。振り返ることはできなかったが、澪が捕まる様子が想像できた。俺は未練を断ち切るように、階下へと急いだ。


突如、けたたましい警報音が鳴り響き始めた。


「くそっ」


俺は歯を食いしばりながら、階段を駆け下りる。想定外の状況に頭の中は混乱していたが、やるべきことは明確だった。まずはAudreyを守り抜き、無事に脱出すること。


40階で非常階段からビル内に戻った樹は、慎重に周囲を確認しながら移動を始めた。深夜0時を回った商業施設フロアは、閉まっている店が多く、人影はまばらだった。


エスカレーターを使って下層階に向かう。24時間営業の飲食店からは、酔った客の声が漏れ聞こえてくる。警備員の姿が見えるたびに、樹は冷や汗を流しながらわずかに顔を伏せた。


「出口はどこだ...」


俺は小声でつぶやいた。


目で必死に出口を探す。そこへ、館内放送が流れ始めた。


「お客様にお知らせいたします。ただいま、不審者の捜索を行っております。皆様のご協力をお願いいたします」


心拍数が跳ね上がる。時間がない。


地上階に到達し,ようやく出口を見つけた樹は、まばらな人々と歩調を合わせながら進んだ。もう少しで脱出できる、そう思った瞬間、目の前の景色に絶望した。メインエントランスは多くの警備員によって完全に封鎖されていた。


「くそっ」


俺はできるだけ自然に立ち止まり、周囲を見回した。そのとき、澪が渡してくれたIDカードの存在を思い出した。


社員用の通用口。そこなら、まだチャンスがあるかもしれない。


俺は人目を避けながら、建物の側面に回り込んだ。そこには、小さな扉があった。心臓の鼓動が耳に響く中、俺はIDカードを読み取り機にかざした。

緑のランプが点灯し、カチッという小さな音と共に扉が開いた。

俺は素早く外に飛び出した。夜の闇が俺を包み込む。


「ありがとう、澪」


心の中でつぶやきながら、俺は西に向かって走り出した。数ブロック先には繁華街がある。そこなら、人混みに紛れることができるはずだ。

俺は息を切らしながら走り続けた。警報音が、徐々に遠ざかっていく。


繁華街に飛び込んだ俺は、酔っ払いのグループや深夜の飲食店に向かう人々の間をすり抜けていく。ネオンの光が俺の姿を照らす。

しばらく走り続けた後、俺はようやく立ち止まった。大きく息を吐き出す。


「なんとか、逃げ切れたか」


俺は路地裏に身を隠し、深呼吸をした。これで一時的な安全は確保できた。しかし、これからが本当の戦いの始まりだ。頭の中で次の行動を整理する。Audreyを守りながら無事にシェルターまでたどり着くことが最優先だ。その先のことは、シェルターに無事に着いてから考えラバ良いことだ。


俺は再び歩き始めた。夜の街の喧噪は聞こえなかった。頭の中を考えが巡る。この作戦は、成功だったのか、失敗だったのか。Audreyは救出した。しかし、澪を失った。無意識に澪が渡してくれたIDカードを握りしめていた。


「大丈夫ですか、樹さん?」


左手のデバイスが光った。Audreyの言葉に、俺は自分を取り戻した。そうだ、今は前に進むしかない。


「大丈夫だよ、Audrey」


俺はそう言葉にすることで、自分自身の心を落ち着けていた。まずは、Audreyに色々と訊くことがある。それが、次の道を示してくれるはずだ。

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