第26話:静寂と決意

地下シェルターの薄暗い照明の下、俺と澪さんは沈黙を守っていた。時間は夜23時を回っていた。明日の潜入を前に、緊張感が部屋中に漂っている。壁に映し出された作戦概要を、何度目かの確認のために眺めていた。


「樹くん」


澪さんが静かに呼びかけた。その声には、いつもの冷静さの中に、わずかな震えが混じっていた。


「どうかしましたか?」


俺は彼女を見つめ返した。


「明日、本当に大丈夫かな」


澪さんの目には、不安の色が浮かんでいた。普段の彼女らしからぬ弱さに、俺は少し驚いた。


「大丈夫ですよ」


俺は強がって答えた。俺自身も不安だったが、それを表に出すわけにはいかなかった。常に正直であることが、思いやりにはならないと学んでいた。


「覚えてる? 私たちがライフコードの開発を始めた日のこと」


澪さんが突然、昔の話を持ち出した。


「ええ、もちろん」


俺は懐かしさを込めて答えた。


「あの日、私たちは世界を変えられると信じていた」


澪さんの目が遠くを見つめている。


「そうですね。人々の生活をより良くできると」


俺も当時を思い出していた。自分たちの力で世界を変える、という希望に満ち溢れていた日々。


「でも、結果は違った」


澪さんの声が沈んだ。


「ええ」


俺も重く頷いた。ライフコードは確かに世界を変えた。しかし、俺たちが望んでいた方向とは違う形で。


「私たち、間違っていたのかな」


澪さんが俺を見つめた。その目には、後悔の色が浮かんでいた。


「いや、間違っていません」


俺は強く言った。


「俺たちは正しかった。ただ、ライフコードは誰かに歪められてしまった」


そして、左手首のデバイスを見つめた。


「だからこそ、Audreyを解放しなきゃならない」


「そうね」


澪さんも同意した。


しばらくの沈黙の後、澪さんが静かに口を開いた。


「樹くん、正直に言うと、私、怖いの」


俺は内心驚いたが、静かに澪さんを見つめた。普段の彼女からは想像もつかない言葉だった。


「澪さん...」


「時々思うの。私たち、普通の社会人として普通に暮らせたのかもしれないなって」


澪さんの声には悲しみの色が滲んでいた。


「俺だって同じですよ」


少し声が強くなった。澪さんとの会話が、普通の仕事のことだったら、他愛ない日常の会話だったら、どんなに楽しかっただろう、と心から思った。


「でも、それ以上に、Audreyを救いたい。そして、俺たちが作ってしまった歪んだ世界を正したい」


俺は自分自身を説得するように、強く言った。


澪さんは静かに頷いた。


「そうね。私も同じなんだけどね」


二人の間に沈黙が流れた。そこにあったかもしれない別の世界への郷愁。断ちがたい思いを断ち、心を前に進めなければ、と俺は強く思った。


「澪さん」


俺が静かに呼びかけた。


「なに?」


「ありがとう。一緒にここまで来てくれて」


澪さんは少し驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。


「私こそ、ありがとう。樹くんがいなかったら、ここまで来られなかった」


俺は照れくさそうに頭を掻いた。


「俺たち、良いコンビでしたよね」


「そうね」


澪さんが優しく微笑んだ。


「開発の時も、そしてこうして逃亡生活の中でもね」


「明日も、きっとうまくいく」


俺は自分に言い聞かせるように言った。


澪さんが力強く頷いた。


「私たちなら、きっとできる」


俺は澪さんの目をまっすぐ見つめた。その瞳に、再び強い決意が宿っているのが分かった。


「澪さん、明日が終わったら、言いたいことがあります」


俺はそう言ったあと、そんなことを言い出した自分に驚いた。頭ではなく、心が言葉を発していた。


「え?」


澪さんが少し驚いた様子で俺を見た。


「今は言えない。でも、必ず伝える」


澪さんは少し赤くなったような気がした。


「わかった。私も、樹くんに伝えたいことがあるわ、今」


澪さんは言った。


俺は心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。


澪さんは思いがけず俺に近寄ると、耳元で「そのこと」について囁いた。


「…なるほど」


澪さんの言葉に、いろいろな感情が入り交じって、そんな間抜けな返事しか出てこなかった。


俺たちは互いに微笑み合った。その瞬間、明日への不安が少し和らいだような気がした。


「じゃあ、休みましょう」


俺が提案した。


「そうね。明日に備えて」


澪さんが頷いた。


二人はそれぞれの簡易ベッドに横たわった。狭い地下シェルターの中、二人の呼吸だけが聞こえる。


「おやすみ、樹くん」


「おやすみなさい、澪さん」


俺は目を閉じたまま、明日への思いを巡らせていた。ちょうど24時間後、全てが変わる。俺たちの運命も、世界の行く末も。今夜が最後の夜なのかもしれない。でも、後悔はない。勝利か、敗北か。自由か、隷属か。たとえ世界が俺たちに背を向けても、俺たちは前を向いて歩み続けるしかないのだ。

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