第18話:吉岡家
2049年10月、俺は「よしお」の家の前に立っていた。秋葉原の一角に立つ立派な一軒家。この街がプログラマーやオタクにとって特別な意味を持っていた時代を俺は知らない。今では普通の高級住宅街だ。高層マンションが大半を占める一角にあるこの区画には一軒家がまばらに立っている。どれだけ金持ちなのか想像もつかない。
「吉岡」...表札を確認し、深呼吸をしてからインターホンを押した。いったいどんな奴なのか。胸の中には期待と不安が入り混じる。しばらくして、おずおずとドアが開き、小柄な女の子が顔を覗かせる。中学生ぐらいだろうか。
「あの、約束してるものなんですが、お兄さんはいらっしゃいますか?」
俺は女の子を怖がらせないように丁寧に話しかける。
「え?兄者?」
その子は驚いた表情で俺を見上げた。
「兄者って…そう、あなたのお兄さんと約束しています」
俺は妙な呼び方に引っかかりながらも、優しく話しかけた。
「違うよ、兄者のことだよ、兄者!」
女の子が俺を指さした。
「俺が兄者?」
そう口にして、悟った。考えてみれば、この界隈ではありがちなことだった。VRFPSでは「よしお」と名乗るニンジャのアバターを使う高校生。中の人はどう見ても中学生にしか見えない小柄な女の子だった。
「そう。そして僕がよしおだよ、兄者」
女の子は俺を見上げて笑った。
俺たちは2階にある「よしお」の部屋に入った。机の上にはメカニカルキーボードがいくつも置かれ、壁際の棚には古のPCと思われる機械が並んでいた。部屋の隅には俺も原物は見たことがなかった「はんだごて」すら転がっている。まるで、何十年かタイムスリップしたような部屋だった。
「よしお...でもいいんだけど、やっぱりなんか変だよな。よかったら、名前を教えてくれないか」
俺はその女の子に向かって少し遠慮がちに言った。
「
と「よしお」は言った。
「じゃあ、吉岡さん...」
俺はちょっと戸惑いながら呼びかけた。
「なんだよ他人行儀に。ユヅでいいよ兄者」
結月は言った。
言葉が途切れた。お互いがお互いを不思議そうに眺めていた。アバター姿以外で会うのは初めてだ。しかもいきなり物理だ。俺のアバターは見ようによっては俺自身に見えなくも無いと思うのだが、結月のアバターは本人の姿と何一つ共通点が無い。
結月は少し落ち着かない様子で言った。
「あの、飲み物いりますか?」
俺はにっこりと笑って答えた。
「ああ、ありがとう。自分で頼むよ」
俺は部屋の隅にある小型AIロボットに向かって話しかけた。
「珈琲 ミルク 入れる たっぷり 砂糖 入れる たっぷり 作る」
突然、結月が大笑いし始めた。
「ぷっ! さすが天才プログラマーですね、兄者。なんで日本語まで逆ポーランド記法なんすか?」
俺は首を傾げた。
「逆ポーランド記法?」
ピンとこなかった。
結月は興奮した様子で説明を始めた。
「逆ポーランド記法、通称RPN。演算子を被演算子の後ろに置く記法のことです。普通の数式だと 'a + b' って書くところを 'a b +' って書くんです。スタックを使った計算に向いてて、コンパイラの中間表現とかでよく使われるんですよ」
俺は目を丸くした。
「ああ、俺のAIとのコミュ力の正体はこれだったのか。なるほど...」
完全に目から鱗だった。逆ポーランド記法は知っていた。ただ、それが日本語と全く繋がっていなかった。俺が自然に身につけたAIとの話し方が実は逆ポーランド記法になっていて、AIにとっては分かりやすく効率的に処理できる、ということなのだ。
しかし、結月のこの手の知識は、俺からすると少し変だ。まるで三世代も前の人間と話しているような感覚に陥る。
しばらくして、俺は真剣な表情になり、かしこまって言った。
「ユヅ、実は、頼みたいことがあるんだ」
結月が答えた。
「何でもやるよ、兄者の頼みなら…エロいこと以外なら」
俺は赤面した。バカなのかこいつは。
時間が流れた。俺が依頼したある作業に没頭する結月を見つめながら、ふと思い出したように言った。
「そういえばユヅ、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
結月は画面から目を離し、興味深そうに俺を見上げた。
「なに、兄者?スリーサイズとか?」
俺は閉口した。こいつはバカだ。間違いない。
俺は左手のデバイスから空中にウインドウを投影し、画面をスクロールしながら言った。
「ユヅ、これが何か解読できるか?」
何度かデバイスに届いている謎のメッセージを結月に見せた。
「4D F8 00 0F F9 F8」
結月は眉をひそめ、しばらく考え込んだ。部屋の中には静寂が広がり、いつのまにか降り始めた外の雨音だけが聞こえていた。
「うーん...」
結月は唇を噛みながら言った。
「普通に16進数ですね、おそらくASCIIコードの一種だと思います」
俺は頷いた。
「まあ、俺もそんな感じがしたんだが、それだと「4D」は「M」だとして、あとが繋がらないんだよ」
結月は再び黙り込み、指でテーブルを軽くたたきながら考えを巡らせた。突然、彼女の目が輝いた。
「あ!これ、差分圧縮じゃないかな」
結月は興奮した様子で言った。
「負の数は2の補数表現で表されてるんじゃないかな」
俺は驚いた表情で結月を見つめた。
「へえ、そういうことか。じゃあ、Mからはじまって、-8、0、+15、-7、-8」
俺は数秒考え込んでから言った。
「M E E T M E...か」
結月は嬉しそうに笑顔を見せた。
「そうそう!Meet Meですよ。誰か、兄者に会いたがってるんじゃないですか?」
俺の表情が一瞬曇った。誰だろう?エターナル・ソサエティの誰かなのか?それとも...
俺はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。いつの間にか降り出した雨がガラスを叩く音が、部屋の中の静寂をより際立たせていた。
「ありがとう、ユヅ」
俺は静かに言った。
「お前の助けで、重要なことが分かった」
「たいしたことないよ」
結月はそう言いながら、作業の仕上げを完了した。
「…はい、できたよ、兄者」
作業を終えたユヅは俺にあるものを手渡した。
「助かった。お礼はいつか」
俺は急いでジャケットを手に取り、ドアに向かった。
「ちょっと行くところがある」
結月は心配そうな表情で俺を見つめた。
「兄者、大丈夫?何か危険なこと、してるんじゃ...」
俺は優しく微笑んで結月の頭を撫でた。さっきまでの頼もしい「よしお」は消え、急に小さな妹のようにみえた。結月はまだ不安そうだったが、小さく頷いた。
俺はドアを開け、振り返って言った。
「また連絡する。それまでは、誰にも今日のことは言うなよ」
結月は真剣な表情で頷いた。
「分かった。気をつけてね、兄者」
ドアを閉めて階段を降りながら、俺は考えを巡らせていた。この「MEET ME」というメッセージ。誰からのものなのか。そして、どこで会うというのか。答えはまだ見つからないが、この謎を解くことが、エターナル・ソサエティの正体に近づく鍵になるかもしれない。
雨の中を歩きながら、俺は御厨博士に連絡を入れた。
「博士、うかがいたいことがあります」
これから先、どんな展開が待っているのか。不安と期待が入り混じる中、俺は足早に歩を進めた。雨の音が、俺の決意をより一層強くしていく。
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