第12話:手慣れた侵入者
それから2週間後、深夜のJDタワー。かつて俺たちの職場だった場所に、俺と澪さんはひっそりと忍び込んでいた。月明かりだけが照らす廊下を、俺たちは息を殺して進む。
「倫理学の徒がいまや建造物侵入の犯罪者か...」
澪さんが小声でつぶやく。彼女の声は、静寂な空間に吸い込まれるように消えていった。
二人は慎重に暗闇の中を進む。俺たち二人の左手首には、-800という赤い数字が点滅している。その光が壁に反射して、暗闇の中で不気味に明滅していた。
「もう後戻りはできませんよ」
俺は静かに、しかし強い決意を込めて言った。
「真実を明らかにするには、このリスクを冒すしかない」
澪さんは深く息を吐き、同意の意を示した。それは、緊張と覚悟が混ざったものだった。
数日前のことだった。俺たちがライフコードのシステムから書き出しておいたディレクトリ構造のデータに、不審な点があることが分かったのだ。何百万にも及ぶディレクトリ構造をAIに解析させていたところ、システムの内部権限によって「最重要」とマーキングされた、たった1つのディレクトリが発見されたのだ。
俺たちの目的は明確だった。そのディレクトリにピンポイントでアクセスして中身を確認し、可能であればデータを持ち出すことだった。
オフィスの奥、システム管理室のドアの前で俺たちは立ち止まる。俺はポケットから小さなデバイスを取り出し、ドアの電子ロックに当てた。御厨博士が送ってくれたパスコードを入力すると、緊張の数秒が過ぎた。やがてカチリという小さな音と共にドアが開いた。
「さすが」
澪さんが感心したように呟く。その声には、俺への信頼と少しの尊敬が滲んでいた。
部屋に入ると、熱気と冷気の混じった空気と水の流れるかすかな音に包まれて、大型のサーバーラックが並んでいる。その無機質な姿が、多数のステータスランプの明かりで幽霊のように浮かび上がっていた。俺は迷いなく中央のコンソールに向かい、操作を始めた。
クオンタム・ダイナミクス社内の俺と澪さんのアカウントは退社の翌日には削除されていた。しかし、示し合わせていたとおり、1週間後には御厨博士が密かにリストアしてくれていた。政府から発行されたライフコードへのアクセスキーも維持されている。
澪さんは天井にある赤外線スキャナーの動くタイミングを見極めてくれている。彼女の合図に合わせて、俺は操作と待避を繰り返した。
「見つけた」
しばらくして俺は静かに声を上げる。その声には、発見の喜びと同時に、何か恐ろしいものを見つけてしまった時の戸惑いが混じっていた。
「これは...ライフコードのコアシステムへのアクセスログだ」
澪さんもそれを覗き込む。そこには数多くの不審なアクセス記録が並んでいた。通常の運用では説明のつかない、深夜の大規模なデータ改変。そして、それらのアクセスの多くが、政府機関や大企業のIPアドレスからのものだった。
「これは...」
澪さんが絶句する。
俺は顔を上げる。
「ライフコードは、確実に改ざんされている」
証拠を掴んだ喜びと、その事実への憤りが混ざりあう。
「...しかし、生のIPで堂々とアクセスするなんて、どういうつもりだ」
俺は呟いた。その声には、怒りと共に、何かを見落としているのではないかという不安が滲んでいた。
突如、警報が鳴り響いた。赤外線スキャナーが俺たちの姿を捉えたのだ。その音は、静寂を破る雷鳴のように俺たちの耳を襲った。俺たちは慌ててログアウトし、部屋を飛び出す。計画したとおりのルートで監視カメラを避けて廊下を駆け抜け、非常階段から屋上庭園へと逃げる。夜の街を見下ろしながら、俺たちは肩で息をしていた。
「何とか無事だったね」
澪さんがほっとした表情を浮かべる。その声には、まだ緊張の色が残っていた。
俺は頷きながら、夜空を見上げた。下弦の月が、俺たちの行動を見守るように輝いている。
「これで確信が持てた。ライフコードは、俺たちの知らない誰かによって操作されている」
その瞬間、俺の左手のデバイスが震える。心臓が止まりそうになる。急いで目を落とすと、見知らぬIDからのメッセージだった。画面に浮かび上がる文字が、俺の心臓をさらに高鳴らせる。
『君たちの行動を見ていた。話がある。明日14:00、築地の喫茶店「宮瀬」で待っている。 - 西村』
早口で読み上げると、俺と澪さんは顔を見合わせた。新たな展開の予感に、高鳴る鼓動が、夜の静寂を破るように感じられた。俺たちは、あらかじめ屋上まで移動させてあったビル外壁のメンテナンス用エレベータで地上に帰還した。これからの展開に備え、俺は頭の中で様々な可能性を検討し始めていた。
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