第10話:零下の世界

翌朝、俺は疲れ切った顔で、澪さんと御厨博士に向き合っていた。徹夜のせいで目は充血し、頭はズキズキする。でも、昨夜の調査結果を伝えなきゃならない。御厨博士は微笑みながら例の琥珀色の錠剤を黙って俺に渡してくれた。


「エターナル・ソサエティ...か」


御厨博士が首をかしげる。その表情には、困惑が浮かんでいた。


「聞いたこともない名前だな」


澪さんも眉をひそめている。


「でも、なんでそんな謎の組織が私たちのプロジェクトを邪魔するの?」


俺は深いため息をついた。正直、俺にもさっぱりわからない。


「なぜでしょう...ただ、俺たちの動きを止めようとしているのは間違いない」


俺たち三人は、重苦しい沈黙に包まれた。目の前には、想像以上に大きくて不可解な壁が立ちはだかっている。まるで、暗闇の迷路で手探りしているような気分だ。


それから数週間、俺と澪さんは必死だった。昼はライフコードの改善に向けたプロトタイプの作り直し、夜になると秘密裏に調査を続ける。それでも、エターナル・ソサエティの正体に迫る手がかりは、さっぱり見つからない。


そんな中、俺たちに思わぬ災難が降りかかった。二人の評価値が急激に下がり始めたのだ。もちろん、これまでも評価値は不自然に下がる傾向にあった。でも、もともと評価値が高かった二人には「貯金」があった。


ある朝のことだった。俺は左手首のデバイスの振動で目を覚ました。睡眠中は最優先の通知以外は来ないはずだ。


「なっ...」


俺は目を疑った。評価値が0を割り込んでいた。


澪さんに連絡を取ろうとしたが、思いとどまった。評価値がマイナスの人間からコンタクトされると、評価値が大きく落ち込むからだ。


出社すると澪さんはまだ来ていなかった。心配したが、1時間ほどして澪さんが現れた。俺たちはアイコンタクトをして、無人の会議室に入った。


「評価値がマイナスまで落ちるなんて...」


彼女の声が少し震えている。俺も動揺を隠せない。評価値がマイナスとなることの意味を二人とも理解していた。


評価値がマイナスになると、生活のあらゆる面で制限がかかる。市役所や公立病院などの公共施設への立ち入りが制限され、公共交通機関からも排除される。今朝、澪さんが会社に遅れてきたのはそのせいだ。


その後、俺たちはマイナスの評価値の意味を実体験として理解していった。まず、クレジットトークンが使えなくなった。何を買おうとしても「現在利用できません」という表示が出る。銀行に問い合わせても、「セキュリティ上の理由」としか言わない。


次は、コンドミニアムだ。管理会社から月内の退去要請が来た。理由は「評価値の低い人間は、他の入居者の評価値にも悪影響を及ぼす」と。


そして、最悪なのは人々の態度だ。


同僚たちは、露骨に俺たちを避け始めた。


「マイナスの評価値ってのはさすがに限度を超えてる。悪いけど、俺も自分の評価値を守らないといけないから」


こんなこと言うのは、つい先日まで親しくしていた奴らだ。


昼飯時、誰も俺たちの隣に座ろうとしない。まるで、伝染病にでもかかっているみたいだ。


友達からの連絡も途絶えた。SNSでの投稿にも、誰も反応しなくなった。むしろ、ブロックされ始めている。


「樹、これを最後の連絡にさせてくれ。僕の将来にも影響するから」


幼なじみからこんなメッセージが届いた時は、さすがに胸が締め付けられるような痛みを感じた。


家族すら、俺たちを避け始めた。母親からプロキシーサービス経由でボイスメッセージが届いた。


「あなたを信じたいけど、家族のために、しばらくは実家に帰ってこないで」


澪さんは自分から家族と距離を取ったようだった。


「マルちゃんに会えないのはさみしいけどね」


彼女は残念そうに言った。マルクス・アウレリウス。彼女の飼い犬の名前だ。


俺たちは、まるで社会から隔離されたような孤独感に襲われた。かつてはにぎやかだった日常が、徐々に静寂に包まれていく。電話の着信もなく、メッセージも届かない。容赦なく届く請求書と督促状だけが、外の世界とのつながりを思い出させる。皮肉な話だ。


その日、俺はオフィスのデスクを片付けていた。遂に会社からの解雇通知が来たのだ。御厨博士も相当動いてくれたが、個人的な説得でどうこうなるような状況を超えていた。解雇は社外有識者で構成されるクオンタム・ダイナミクス社のコンプライアンス委員会の決定だった。


「樹くん...」


澪さんが近づいてきた。その顔は、妙にサバサバしている。


「私も同じ」


澪さんは解雇通知を俺に見せてきた。


俺は深いため息をついた。予想はしていたけど、やっぱり辛い。


「まあ、こうなりますよ」


想定内だ、と強がったが、疲労と決意が入り混じった声が自分の口から漏れる。目の下にはクマができ、頬はこけている。


「でも、まだ終わりじゃない」


俺は自分を鼓舞するように呟く。


「うん」


澪さんが頷く。彼女の声にも、疲れと強さが混ざっている。


「でも、どうやって?」


澪さんが俺に尋ねる。


「私たちは既に社会から排除されているのよ」


少し考え込んだ後、俺は静かに言った。


「まずは、真実を突き止める。そして、ライフコードの本当の姿を、人々に知らせる」


「でも、それは危険よ。エターナル・ソサエティが...」


澪さんが心配そうに言う。


「ええ、分かっています」


俺は頷く。


「でも、もう後戻りはできない。やるしかない」


澪さんはしばらく黙っていたが、やがて決意を固めたように顔を上げた。


「わかったわ。私も全力で協力する」


俺たちは固く握手を交わした。その手には、互いの決意と信頼が込められていた。俺は澪さんの強さに、改めて尊敬の念を抱いた。人間は社会の中でしか生きていけない。でも、二人で力を合わせれば、きっと道は開けるはずだ。

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