第9話:幻の敵影

2049年7月、俺は、またしても深夜のオフィスでコンピュータと向き合っていた。モニターには無数の数式と論理記号が踊り、その複雑さは現実世界の混沌を映し出しているかのようだった。複雑なコードと格闘しながら、俺は時折深いため息をつき、首を回して疲れを癒そうとした。隣では澪さんも必死になって作業を続けている。俺たちのライフコード改善プロジェクトも、開始から1ヶ月が経ち、ようやく形が見えてきたところだった。


「やっと目処が立ってきたかな」


俺は小さくつぶやいた。


澪さんが顔を上げる。


「樹くん、今はどんな感じ?」


彼女の目には疲れの色が浮かんでいたが、それ以上に強い期待が感じられた。


俺は顔から疲れを追い出して答えた。


「人間の感情や状況をより細かく分析できるアルゴリズムの基礎ができました。これを組み込めば、客観的な社会関係のパラメータだけじゃない、もっと人々の主観によりそった柔軟な判断ができると思います」


俺は画面に表示された複雑なフローチャートを指さした。そこには、従来のライフコードでは考慮されていなかった様々な要素が組み込まれていた。個人の価値観、人間関係の質、環境要因など、数値化が難しいと思われていた要素も巧妙に算入されていた。


澪さんは嬉しそうに微笑んだ。


「素晴らしいわ!これでライフコードも少しは人間らしくなるかもしれない」


その時だった。御厨博士が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。普段は冷静沈着な博士がこれほど動揺している姿を見るのは初めてだった。


博士が息を切らしながら言った。


「今度は我が社のメインサーバーがハッキングを受けた。重要なデータが消去されている」


俺と澪さんは驚いて立ち上がった。椅子が大きな音を立てて後ろに倒れる。


「えっ、どういうことですか?」


俺は動揺を隠せない様子で尋ねた。


博士は深刻な表情で説明を始めた。その表情には、これから伝えられるだろう状況への落胆が感じられた。


「22時の定期チェックをしていた技術部の黒田君が異常に気付いたんだ。調べてみると、直前にシステムへの不正アクセスの形跡があった。そして...我々のプロジェクトに関するデータだけが消去されていたんだ」


「そんな...」


澪さんが絶句した。彼女の顔から血の気が引いていくのが見えた。


俺は歯を食いしばった。拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。


「バックアップは?」


俺の声には、かすかな希望と恐れが混じっていた。


「ピンポイントで消されている。つまり、ここ4週間ほどの進捗は失われてしまった」


博士の声には深い落胆が滲んでいた。


俺は机を強く叩いた。


「4週間...って、ほとんど全部じゃないか!」


怒りと挫折感が、部屋中に響き渡る。


御厨博士は俺たちを見つめ、静かに、しかし確信を持って言った。


「これは単なる偶然のハッキングじゃない。誰かが意図的に我々のプロジェクトを妨害しようとしているんだ」


その言葉に、部屋の空気が一気に張り詰めた。俺と澪さんは互いの顔を見合わせた。


「相手が分からない以上、これまで以上に注意深く、という他に対策はない。残念だが」


御厨博士の言葉に、俺と澪さんは頷いた。



それから数日後、さらに不可解な出来事が起こり始めた。


まず、プロジェクトを支援してくれていた川合さんや、俺たちの左手のデバイスを改造して音声モニタリング機能をオフにできるようにしてくれた技術部の主任エンジニア浅村さんの評価値が不自然に下がり始めた。その他にも、俺や澪さんと関係のある社員の評価値は軒並み下がっていた。


そして、俺自身も奇妙な体験をするようになった。


ある夜、作業を終えて帰宅する途中、後ろから誰かに付けられているような違和感を覚えた。振り返っても誰もいない。しかし、その感覚は消えなかった。路地を曲がるたびに、影が動いたような気がする。家に着くまで、ずっと背中に冷たい視線を感じていた。


翌日、澪さんに相談すると、彼女も同じような経験をしていたという。


「私も最近、誰かに見られているような気がするの」


澪さんが不安そうに言った。彼女の声は小さく、周りに聞かれないように気をつけているようだった。


俺は眉をひそめた。


「このままじゃ、まずい」


その夜、俺は一人でオフィスに残った。決意を固め、長く時間を取って徹底した調査を始めることにした。


まず、出力ダンプしてあったクオンタム・ダイナミクス社に対するハッキングの痕跡をもう一度詳細に分析した。そこから浮かび上がってきたのは、驚くほど高度な技術を持つ何者かの存在だった。通常のハッカー集団とは明らかに異なる、洗練された手法が使われていた。例えば、不正アクセスはAIを使って総当たりで攻撃するのではなく、ピンポイントで偽のアクセスキーを作り出していることが分かった。


長時間のデータ分析と、通信経路の追跡、暗号化されたメッセージの解読を経て、俺はある奇妙な名前の「痕跡」にたどり着いた。


「エターナル・ソサエティ」


その名前以外、何の情報も見つからなかった。まるで幽霊のような存在だった。ネット上の表裏どのフォーラムにも、この名前についての言及はない。まるで、誰かが徹底的に情報を消し去っているかのようだった。


俺は深いため息をついた。これは只事じゃない。俺たちは、想像以上に大きな何かに足を踏み入れてしまったのかもしれない。


「エターナル・ソサエティ...」


つぶやきながら、俺は決意を新たにした。相手が誰であれ、何であれ、決心は変わらない。ライフコードをこのままにすることはできない。


外は既に夜が明けかけていた。俺は深く息を吐き、再びキーボードに向かった。今日も長い一日になりそうだった。

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