第8話:深層の痕跡

翌朝、俺は会社に着くなり、何か様子がおかしいことに気づいた。オフィス中が騒がしい。


「真島先輩!」


中川莉子が息を切らして駆け寄ってくる。


「大変です!ライフコードがハッキングされたみたいです!」


俺は言葉を失った。ハッキング?誰が?何のために?疑問が頭の中で渦を巻く。


緊急会議が招集された。 会議室に集まった面々の表情は、一様に緊張に満ちている。御厨博士さえも、普段の穏やかな顔ではなく厳しい表情を浮かべている。


クオンタム・ダイナミクス社のセキュリティ担当役員が説明を始めた。


「未明に、ライフコードにハッキングが試みられたと内閣府から連絡が入った。幸い、ハッカーの侵入を許さず、大事には至らなかったというが...」


静まりかえっていた会議室がざわついた。


「ハッカーたちは『stupid numbers make people stupid』というメッセージを残していったそうだ」


俺は息を呑んだ。昨夜の出来事が走馬灯のように頭をめぐる。老人を介抱する俺たちを無言で取り囲む人垣が鮮明によみがえる。


『愚かな数値は人々は愚かにする』


そのメッセージには、残念ながら真理が含まれていると言わざるを得なかった。俺は無意識のうちに何度も頷いてしまっていた。


会議が終わり、俺が席に戻ろうとしたとき、思いがけず御厨博士に呼び止められた。


「真島君、ちょっといいかな」


人気のない会議室で、博士は柔和な表情とうらはらな鋭いまなざしで俺の顔を見ていた。


「君は何か知っているのかね?何度も頷いていたように見えたけど」


不覚だった。御厨博士は人をよく見ている。俺は動揺を隠そうとした。論理的な思考に慣れた俺は、こういった状況で必要とされるあいまいな対応が苦手だった。


「...ええと...いえ...」


そのとき、突然会議室のドアが開き、澪さんが飛び込んできた。


「樹くん!ちょっと聞いてほしいことが...」


彼女は御厨博士を見て言葉を止めた。


重苦しい沈黙が流れた。


御厨博士は俺たちを交互に見つめ、


は、何か知っているのかね?」


と言い直した。


俺は深く息を吐き、決意を固めた。真実を隠すよりも正直に話す方が良いと判断した。


「お話しします」


俺たちは、ハッキングには関与していないこと、しかしライフコードの社会への想像以上の影響力に深い懸念を抱いていることを正直に話した。御厨博士は腕を組み、静かに聞き続けていた。


俺は昨夜の出来事、評価値に縛られない行動の大切さ、そして人間性の喪失への危惧について語った。澪さんも俺の言葉を補ってくれた。二人の思いを率直に伝えた。


話し終えると、御厨博士は深いため息をついた。


「実は...私も君たちと同じような懸念は持っていたんだ」


俺と澪さんは少し驚いて御厨博士のほうを見た。


博士は窓の外を見つめながら続けた。その姿には、ライフコードの基盤となっているOpen Alliance AIの開発者としての責任が感じられた。


「ライフコードを開発した当初、私たちの目的は人々の生活を豊かにし、社会をより良いものにすることだったはずだ。しかし、残念ながら、現実はそうはならなかった...」


御厨博士は俺たちの方を見て説明した。


「設計上、ライフコードのベースとなっているOPAAI...Open Alliance AIは様々な価値観のバランスを取るようにできている。本来であれば、時間と共にもう少しバランスの取れたものになると予想していたんだが...」


澪さんが真剣な表情で言った。


「私には逆に、時間とともに本来の姿を失っているように思えます。これ以上放置すれば、取り返しがつかなくなります」


御厨博士は長い間黙っていたが、やがて決意を固めたように顔を上げた。


「君たちの言うとおりだ。私も、これ以上静観することはできない」


博士は俺たち二人を見つめた。


「しかし、これは簡単な道のりではない。多くの抵抗や危険が待ち受けているだろう。そもそも、ライフコードは既に我々の手を離れてしまっているからね」


俺は答えた。


「覚悟はできています。ライフコードを本当の意味で人々を幸福にするシステムにするために、できることは全てやりたいんです」


御厨博士は頷いた。


「では私から提案がある。表向きは、システムのセキュリティ強化を名目に、君たちのライフコードへのアクセスキーを政府から発行してもらう。ハッキング騒ぎがあった今なら可能だろう。しかし実際には、ライフコードを根本から見直し、より人間的なシステムに変えていくんだ」


俺と澪さんは目を輝かせた。だが、すぐに俺たちのデバイスが振動した。評価値が下がっている。


「ライフコードが、自身に疑問を持つことは君たちの人生にとって『好ましくない』と判断しているんだろう」


御厨博士が説明した。


俺たちは覚悟を決めた。評価値が下がり、社会的地位や信用を失うかもしれない。でも、それも受け入れよう。



その日から、俺たちの密かな戦いが始まった。表向きはライフコードのセキュリティ強化、裏では必死に新たな要素を加えた評価システムの試作に取り組む。


ある日の深夜、改めてライフコードの動作を確認していた俺は、偶然、システムの異常に気づいた。誰かがシステムの最深部にアクセスしていた形跡があった。


「これは普通じゃない」


俺は急いで澪さんと御厨博士に連絡を取った。


「緊急事態です。システムの最深部に不審なアクセスの痕跡が見つかりました」


三人は深夜にもかかわらず、すぐにオフィスに集合した。こんな時、物理的に会うのに越したことはない。


御厨博士が眉をひそめながら言った。


「驚いた。システムの最深部へのアクセスは、極めて高度な技術か、強い権限が必要なはずだ」


澪さんが心配そうに言った。


「私たち以外に、そんなことができる人がいるんでしょうか?」


博士は言った。


「政府からシステムの管理を委託されている事業者であれば可能だ。だが、通常の管理業務の範囲内で、システムのここまで深い部分にアクセスすることはあり得ない」


俺と澪さんは黙って顔を見合わせた。


三人は徹夜で調査を続け、アクセスの痕跡を詳細に分析した。しかし、アクセスした主体を特定することはできなかった。


「このアクセスの目的が何なのか...」


御厨博士が疲れた表情で言った。


「アクセスしたのは例のハッカーか、それとも...」


俺と澪さんは顔を見合わせた。この不可解な侵入の背後には、俺たちの想像を超える何かがあるのではないか、そんな思いが胸をよぎる。


そのとき、俺のデバイスが振動し、再び謎のメッセージが届いた。


『4D F8 00 0F F9 F8』


まただ。このメッセージの意味は?不正アクセスした何者かからのものなのか?


「どうしたの?」


澪さんが俺に尋ねた。


「いや、なんでもないです」


俺は答えた。まだ憶測で話すべきじゃない。


御厨博士は深く息を吐いた。


「いずれにせよ、局面が変わったと考えるべきだろう」


俺も澪さんも頷いた。俺たちの前には、予測不可能な未来が広がっていた。システムの最深部への不可解なアクセス、そして謎のメッセージ。これらが意味するものは何なのか。


外は既に夜明けを迎えていた。新しい一日の始まりと共に、俺たちのミッションは新たな、そしてより困難な段階に入ろうとしていた。

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