第7話:数値と良心の狭間

俺と澪さんは、都会の喧噪から一歩離れた小さな居酒屋に足を踏み入れた。超高層ビルの林立する街並みの中で、時代を超えてきたかのようなこの古い建物は、まるで過去の残像のようだった。地下に降りると、懐かしい雰囲気が二人を包み込む。


「まるでタイムスリップしたみたいね」


澪さんがつぶやく。その声には、懐かしさと共に、かすかな寂しさが混じっていた。


俺も静かに頷いた。


「そうですね。ライフコード以降、こういう店はどんどん減ってきましたから」


アルコールの摂取が評価値を下げるという単純な理由で、人々の生活から酒が消えていく。


小さなテーブルに向かい合って座り、生ビールを注文する。グラスに注がれる琥珀色の液体を見つめながら、俺は周囲を観察した。ここにいる人々は誰も左手首のデバイスを気にしていない。その光景は、ほんの数ヶ月までは当たり前だったものだ。


「ここの常連さんたち、ライフコードをあまり気にしてないみたいね」


澪さんが小声で言う。その目には、羨望の色が浮かんでいた。


「ええ。でも、だからこそ生き生きとしているように見える」


俺は答えた。その言葉に、自分自身への皮肉を感じずにはいられなかった。


乾杯の音と共に、久しぶりのアルコールが喉を通る。その瞬間、緊張が解けていくのを感じた。そして、同時に評価値が下がったことを示す振動が左手首に伝わる。俺と澪さんは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。


「樹くん」


澪さんの表情が真剣になる。


「さっきの話、本当に実現できると思う?」


俺は言葉を選びながら答えた。


「正直、簡単じゃない。すでにライフコードは俺たちの手を離れていますから。でも、やらなければならない。このまま社会全体が評価値に支配されていったら...」


「人間らしさが失われてしまうわね」


澪さんが言葉を継ぐ。その声には、決意と共に不安が滲んでいた。


俺は胸に広がる挫折感と戦いながら、ライフコードの便利さと引き換えに失われていくものの大きさを考えた。創造性、冒険心、人間同士の真の繋がり。思えば全て、澪さんが以前話してくれていたことだった。


時が経つのも忘れ、二人は学生時代の思い出話やライフコード開発中の苦労話に花を咲かせた。失敗も成功も、全て数字だけでは表せない。かつての自分なら鼻で笑っていただろう言葉を、今の俺は真剣に口にしていた。


店を出ると、夜の空気が頬を撫でる。少し酔った頭で、俺は自分のデバイスを確認した。


「15ぐらい下がりました」


俺は澪さんに見せて笑った。


「そう?私は4しか下がってないわ」


澪さんも自分のデバイスを見せる。この人は、いわゆる「ザル」なのかもしれない。


酔いを覚ますため、二人で夜の街を歩いていると、突然目の前で老人が倒れた。危険な倒れ方に、俺と澪さんは反射的に駆け寄ろうとする。しかし、周りの人々の反応は全く違った。誰も助けようとせず、皆が左手首のデバイスを確認している。その光景は、まるで悪夢のようだった。


「なんで誰も...」


言葉が途切れる間も無く、俺の体は動いていた。老人に向かって一歩踏み出した瞬間、横にいた若い男が俺の腕を掴んだ。


「止めた方がいいですよ」


男は真剣な顔で言う。


「以前、ああいう感じの人を助けて評価値が下がったことがあるんです」


その言葉に、俺は戸惑いと怒りを覚えた。評価値が下がるから助けない?人の命より数字が大切なのか?俺は男の手を振り払い、老人に駆け寄った。


「大丈夫ですか?」


老人の体を支えながら声をかける。苦しそうに息をする老人を見て、俺は決意を固めた。


「澪さん、救急用ドローンファーストエイドを呼んで!」


澪さんはすぐさま反応し、ドローンを要請した。二人はドローンが到着するまでの間、老人に付き添い、励ました。その間、周囲の人々は距離を置いたまま、ただ見ているだけだった。その光景に、俺は言いようのない怒りと悲しみを感じた。


ドローンが到着し、老人が病院に搬送された後、俺のデバイスが大きく振動した。画面を見ると、評価値が40ポイントも下がっていた。


「まさか!こんなに?」


俺は絶句した。


澪さんも自分のデバイスを確認し、同じように評価値が下がっていることを確認した。しかし、彼女の表情には後悔の色はなかった。


「私たち、正しいことをしたのよ」


澪さんが静かに、しかし力強く言った。その言葉に、俺は勇気づけられた。


「なぜ評価値が下がったんでしょう。人を助けることがマイナスになるなんて...」


俺は混乱しながら問いかけた。


澪さんは少しとまどった後、静かに口を開いた。


「ひょっとしたら...高齢者を助けることは医療や介護など社会にとって余分なコストが掛かるから...そう判断されたのかもしれない」


その言葉に、俺は愕然とした。


「まさか...そんな『バカな』計算をしているのか?」


「言い訳を許してもらえれば、そんなはずはないんだけど…」


AIの社会評価部分を主に担当していた澪さんは悲しそうに続けた。


「ライフコードは社会全体の『効率』を優先するように変化しているのかもしれない。個人の命よりも...」


俺は無言で頭を横に振った。開発時、自分がライフコードの評価値算出のベースとなるマルチエージェント・シミュレータにばかり注力し、AIによる評価値の算出方法自体にあまり関心を持たなかったことを、今さらながら後悔した。それこそが社会と個人の関係を決める核心だったのに。


突然、澪さんが俺の肩に手を置いた。その温もりに、俺は驚きと共に安堵を覚えた。ライフコードの導入以降、他人との身体的接触はほとんど失われていた。評価値が下がるからだ。


「私たちがしたことは間違いじゃない。間違っているのはライフコードよ」


澪さんの声には、強い決意が込められていた。


「澪さん」


俺は静かに、しかし力強く言った。


「俺たちで、システムを変えましょう」


澪さんは頷いた。


「ええ、必ず」


その夜遅く、病院からボイスメッセージが転送されてきた。老人の娘からの感謝の言葉だった。評価値は下がったが、一つの命が救われ、家族の幸せが守られた。その事実が、俺の心に温かな光を灯した。


俺は固く決意した。このシステムを、人間の本質的な価値を尊重する、より完全なものに変えていく。それが、このシステムを作り出した者としての責任だ。


眠れぬ夜、俺の頭の中ではかつて澪さんと交わした会話が蘇っていた。


「社会科学って結局、言葉でする学問ですよね。次元が低いというか...いや、レベルが低いという意味じゃなくて、数学的な意味で分析できる軸が少なくなるから、たいしたこと分からないんじゃないですか?」


当時の自分の傲慢さに、今の俺は恥ずかしさを覚えた。澪さんは少し不機嫌になったが、しばらく沈黙した後、諭すように言った。


「社会は樹くんが考えているより、ずっと複雑なものなの。だから言葉でしかできない分析があるのよ。数字で捉えられる問題以外は考えなくてもいいってことにはならないでしょ?だから、言葉で問題と格闘するの」


その言葉の本当の意味を、俺は今やっと理解できた。それを理解できたことの喜びと、今に至るまで理解できなかったことへの悔しさが交互に押し寄せて、いつの間にか眠りに落ちるまで俺の時間を奪った。

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