第6話:小さな反抗
クオンタム・ダイナミクス社の健康管理室で、最新の医療AIシステムによる精密検査が始まっていく。全身スキャン、血液検査、脳波測定——次々と繰り広げられる検査の中で、俺は自ら開発に携わったシステムの被験者となる皮肉を感じながら、緊張で汗ばむ手のひらを強く握りしめていた。
15分後、御厨博士が結果を持って戻ってきた。その表情には、長年の経験で培われた冷静さと、避けられない事実を告げなければならない医師としての重圧が交錯していた。
「真島君...結果が出た」
俺は息を呑む。
「どう...でしたか?」
御厨博士は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「君の体内で、非常に珍しい遺伝子変異が起きている。この変異は、重篤な病気を引き起こす可能性が高い」
頭の中が真っ白になり、言葉を失う。
「具体的には...どんな病気なんですか?」
やっとの思いで、俺は言葉を絞り出した。
「神経系と免疫系に影響を与えるものだ。早ければ3年から5年以内に危険な状態に陥るかもしれない」
余命3年。まるで世界が停止したかのような感覚に襲われる。
「しかし」
博士は穏やかな声で続けた。
「極めて早期に発見できたことは不幸中の幸いだ。すぐに遺伝子治療薬の探索を始めることができる。君の命を救える可能性は十二分にあるよ」
俺の中で、恐怖、驚き、そしてある種の畏敬の念さえもが渦巻いていた。ライフコードがここまで正確に未来を見通せるとは。
「これが...評価値が下がった理由なんですね」
御厨博士はゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだろう。システムは君の将来の健康リスクを察知し、それを評価値に反映させていたんだ」
自分が開発したシステムのおかげで命が救われるかもしれない——その事実と、ライフコードが人々の人生をここまでコントロールしているという現実が、俺の中で複雑に絡み合う。
「治療は...すぐに始められますか?」
「ああ、もちろんだ。最先端の治療法を用意している。数日内に始められるだろう。ただ...」
御厨博士は言葉を切り、表情を少し和らげた。
「今日の体調の悪さは、いわゆる気のせいってやつだな。とりあえず、これ飲んでみ」
博士は謎めいた琥珀色の錠剤を差し出してきた。
「これは?」
「ただの栄養剤さ。色々と、すごいぞ」
伝説の人物とは思えない軽やかな笑顔に、俺は少し戸惑いを覚えた。
その後の数週間、俺は集中的な治療を受けることになった。自分のために特別に合成された遺伝子治療薬の投与、最新のナノテクノロジーを駆使した治療——俺の体は、まさに科学の最先端を体験する実験台となっていた。
治療の進行とともに、俺の評価値も徐々に回復の兆しを見せ始めた。+550、+630、そして2ヶ月後、遂に評価値が+700を超えた日、安堵感と同時に、またも複雑な思いが首をもたげ始めた。
確かに、ライフコードは俺の命を救ったのかもしれない。しかし、このシステムへの依存が、人間の本質的な何かを奪っているようにも感じられた。人間的な何か——以前の俺なら鼻で笑うような曖昧な言葉だが、今は違う意味を持って心に響いてくる。
オフィスに戻った俺を、同僚たちは温かく迎えてくれた。だが今では、その態度の裏に「評価値が回復したから」という打算的な影が見え隠れしているように思えてならない。もし評価値が回復していなかったら——そんな想像をするだけで、心が重くなった。
ある日の昼休み、久しぶりに澪さんと二人で屋上庭園に足を運んだ。6月とは思えない快適な温度に保たれたオープンエアの空間で、眩しい都会の喧噪を見下ろしながら、俺は静かに口を開いた。
「澪さん、俺は考えてるんです。ライフコードは確かに素晴らしいシステムかもしれない。でも、このままでいいのかって」
澪さんの表情がぱっと明るくなる。
「私もそう思うわ。便利さと引き換えに、大切なものを失っているような気がする」
俺はゆっくりと頷いた。
「ライフコードの数値に人間の全てが反映できているとは俺には思えない」
澪さんは困ったような、微妙な笑顔を浮かべた。
「樹くんがそれを言うの。いままで私が言っても取り合わなかったくせに?」
「すみません」
苦笑いを浮かべながら、これまでの自分の態度を反省する。澪さんが説いていた社会科学的な視点の重要性を、今更ながら痛感していた。
「でも、今さらライフコードをなくすことはできないわね。もう、すっかり社会に根付いてしまっているから」
「そうですね。だからこそ、俺たちがシステムを改善していく必要があると思うんです」
俺の声には、これまでにない強い決意が込められていた。
澪さんは少し混乱した様子で俺を見つめた。
「ん? どういうこと?」
澪さんが困惑するのも無理もない。なぜなら、ライフコードは政府に納入され、すでに俺たちの手を離れているのだから。
「ライフコードをバージョンアップし、より完全なシステムに変えていくんです。人間の複雑さや多様性を理解し、本当の意味で人々を幸せにできるシステムに」
澪さんはしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに頷いた。
「素晴らしい考えよ。でも、簡単なことじゃないわね。」
「はい、わかっています。社としての開発は終わっていますから。でも、俺たちにしかできないことだと思います」
二人は言葉を交わすのを止め、しばらく眼下に広がる巨大都市の景色を眺めていた。やがて、澪さんが小さく微笑んだ。
「ねえ、樹くん。今日の夜、飲みに行かない?評価値が下がるかもしれないけど」
俺は驚いて澪さんを見つめたが、次第に穏やかな笑みがこぼれた。
「ええ、喜んで」
その瞬間、二人のデバイスが同時に振動する。画面には、評価値がわずかに下がったことを示す通知が浮かび上がっていた。俺たちは顔を見合わせ、思わず笑い声を漏らした。
この小さな反抗が、新たな未来への第一歩になるかもしれない。そう思いながら、俺は澪さんと共に初夏の屋上庭園を後にした。二人の背後には、夕陽が影を落としていた。その長い影は、これから二人が歩む険しい道のりを暗示しているようでもあり、同時に、二人の決意の強さを映し出しているようでもあった。
都会の喧噪が遠く響く中、新たな挑戦への決意が、静かに、しかし確かに芽生えていくのを感じていた。
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