第5話:賢者の警告

クオンタム・ダイナミクス社の健康管理室は、まるでちょっとした病院のようだった。白い光が差し込む室内で、白衣をまとった白髪混じりの男性がデスクに向かっている。背は高くないものの、その存在感は部屋全体の空気を変えていた。


「たしか...真島君だね。どうした?気分悪いのか?」


デスクに座る男性が、柔和な目と明るい声色で俺に語りかけてきた。その雰囲気に、俺は思わずほっとする。


「はい、午後から少し…」


そう答えながら、目の前の人物が誰なのかを認識した瞬間、俺の声にわずかな緊張が滲んだ。


「御厨博士...ですよね」


御厨匠みくりやたくみ—— ライフコードの基盤となるオープンAIシステムの主要開発者として名を馳せた人物だ。工学と医学、両方の博士号を持つ俺の憧れの存在。その博士が、今、目の前にいる。


「意外かな? 社内の健康管理システムの改良にも携わっているんでね。最近はここで産業医のようなこともしているんだ」


御厨博士は穏やかな笑みを浮かべた。還暦を迎えた年齢を感じさせない若々しい表情は、俺の父と同じ40代後半だと言われても違和感がない。世の中には年を取らない類の人間が確かに居るが、御厨博士は間違いなくそれだろうと思った。


俺は状況を説明し始めた。評価値の突然の急落、そして体調の不安について。話す声が少し震えているのを、自分でも感じる。


博士は真剣な面持ちで俺の話に耳を傾け、しばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。


「真島君、君の評価値の急落は、AIが君の将来に何か重大な問題を予測しているからだろう。精密検査を受けてみてはどうかな」


俺は博士の提案に少し驚いた。


「精密検査...ですか。博士、開発者として申し上げると、ライフコードの原理上、病気の予測は気休め程度なので、検査の必要性は低いように思いますが」


御厨博士は静かに頷いた。


ライフコードの評価値計算の仕組みは、実はシンプルだ。その裏側には、超高性能のマルチエージェント・シミュレータが存在する。俺が主に開発を担当したこのシステムは、この国の国民全員をシミュレートした別世界とでも言えるものだ。


このシミュレータは、一人一人の行動選択とその結果を緻密に計算する。ある人がどんな選択をしたとき、その人の人生がどれほど良く・悪くなるのか、すべてを計算し尽くすのだ。


各個人の評価値は、主に社会的な要素で決定される。地位、収入、他者からの評価など。心拍数や血圧などの現在の体調や「飲酒は体に悪い」といった程度の健康要因は反映されるものの、個々人の将来的な健康状態までは、予測していなかった。


「確かにそうだった。開発段階まではね」


博士はゆっくりと話し始めた。


「ライフコードがウェアラブル・デバイス経由で生体情報バイオメトリクスを集めているのは知っているだろう。脈拍や呼吸、歩行、体の微細な振動など。それから暗号化されているとはいえ、会話内容も収集されている。正式運用後は、7000万人分以上の生体データがリアルタイムで収集され、それが、体調に関するつぶやきや、病院での診断履歴などと紐付けられているんだ。大量のデータを学習したことで、今のライフコードは驚くほど正確に個々人の将来の健康状態の予測ができるようになっている」


俺は戸惑いながらも、その言葉の重みを深く受け止めた。ライフコードの基盤となるAIシステム、Open Alliance AI(OPAAI)の開発者である御厨博士の言葉を、軽視することはできない。


OPAAIはライフコードにおいて主に2つの重要な役割を果たしている。まず、シミュレータの補完だ。個々人の行動予測を、過去の履歴やバイオメトリクスの学習から導き出す。例えば、ある人が帰宅途中に買い物をするかどうかといった予測にAIを活用することで、評価値の精度を高めている。


次に、社会全体の状況把握。AIは個々人のデータを統合して、社会全体の状況を示す指標を作り出している。各人の評価値には、その行動が社会全体にとって有益なのかどうかも、わずかながら反映されているのだ。この部分は、主に澪さんが担当していた。


これら全てのAIのベースには、御厨博士がアメリカ西海岸の大学で教鞭をとっていた時に開発したOPAAIが使われている。というより、現在世界で利用されているAIを用いたシステムの半分以上はOPAAIかそのファミリーだ。


それにしても、正式稼働からわずか6ヶ月でライフコードがここまでの進化を遂げるとは。開発者としての知識を持ってしても、俺には簡単には信じ難いものがあった。


「理解しました。原理的には」


俺は半信半疑ながらも、精密検査を受けることに同意した。御厨博士の言葉の向こうに、俺がまだ知らない何かがある。博士との偶然の出会いが、これからのライフコードを大きく左右するかもしれないと感じていた。

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