第4話:崩れゆく日常

2049年4月、東京の街並みは一見変わらないように見えた。しかし、その表面下では、静かな、しかし確実な変化が進行していた。ライフコードの一般公開から半年。3ヶ月の試験運用期間を経て政府に正式に移管され、今や国民の80%以上がこのシステムを利用している。


この驚異的な普及速度は、政府の広報努力というより、ライフコード自体の圧倒的な威力によるものだった。使う者と使わない者の間に生じる格差は、もはや無視できないほどになっていた。人々は半ば強制的に、このシステムに取り込まれていった。


特に普及を加速させたのは、企業が用意した評価値に基づく様々な優遇策だった。高評価値者は銀行融資の好条件、人気レストランの優先予約権、さらには生命保険や自動車保険の大幅割引など、数え切れないほどの恩恵を受けられる。一方、非利用者は日常生活のあらゆる面で不利な立場に追いやられていく。


その日、俺はいつものようにJDタワーのエレベーターに乗り込んだ。左手首のデバイスが小さく振動し、反射的にそれを確認する。


『現在の評価値:+801』


この数ヶ月間、俺の評価値は安定して+800前後をキープしていた。クオンタム・ダイナミクス社の主任プログラマーとしてライフコードを無事稼働させ、政府に納入した実績が反映されているのだろう。あの謎のメッセージも、その後は一度も届いていない。運用会社からの報告によれば、俺が指定した監視パラメータにも異常はみられないという。


エレベーターのドアが開き、オフィスフロアに足を踏み入れる。そこには、半年前とは明らかに異なる光景が広がっていた。社員たちは皆、左手首のデバイスを頻繁にチェックし、会話の合間にもチラチラとデバイスを見る姿が目立つ。俺は何故だか苦々しさを覚えながらも、自分のデスクに向かった。


「おはようございます、真島先輩」


隣のデスクの後輩...といっても1つ年上なのだが、中川莉子が声をかけてきた。彼女は昨年の10月から俺の部署に配属されたアシスタント・プログラマーで、俺たち世代では珍しくメガネをかけている。醸し出す独特の雰囲気は、俺の密かな癒しでもある。


「ああ、おはよう」


俺が返事をすると、中川莉子は少し躊躇いがちに言葉を続けた。


「あの、真島先輩。今日の昼食...一緒にどうですか?」


俺は荷物をデスクに置きながら答えた。


「ああ、いいね。行こうか」


中川莉子の表情が明るくなり、同時にデバイスに目をやる。その瞬間、彼女の顔が少し曇った。


「あ、すみません。やっぱり今日は...」


俺は中川莉子をチラッと見た。


「評価値が下がる?」


中川莉子は申し訳なさそうに頷いた。


「はい...こっちからお誘いしておいて、本当に申し訳ありません」


俺は軽く手を振った。


「気にしないで。仕方ないさ」


この手の会話は、最近頻繁に耳にするようになっていた。人々は常に自分の評価値を気にし、それを上げるため、下げないために、様々な判断を下すようになっていた。しかし、評価値+800の俺と昼飯に行って評価値が下がるなんて、中川莉子の人生はどこに向かっているのだろう。


俺は自分のデスクに座り、仕事を始めた。プログラミングに没頭している間は、周囲の変化を忘れることができた。しかし、休憩時間になると再び現実に引き戻された。


フロアの至る所で、こんな会話が聞こえてくる。


「悪いけど、今日の飲み会は遠慮させてもらうよ。評価値が...」


「この企画、面白いと思うんだけど、評価値的にはどうなんだろうね」


「彼とはこれ以上付き合えないわ。私の評価値には釣り合わないから」


俺はため息をついた。人々の会話や行動が、どんどんライフコードに支配されていくのを感じていた。俺自身も、知らず知らずのうちに左手のデバイスをチェックする回数が増えていることに気づいていた。


「気にしなきゃ良いんだよ」


俺は半ば吐き捨てるように言うと、この日は評価値を見ないと決めた。


その日の夜、俺はいつものように帰宅の準備をしていた。デスクを整理し、カバンを手に取ったその時だった。


突然、左手首のデバイスが激しく振動し始めた。


驚いて画面を見ると、信じられない数字が表示されていた。


『現在の評価値:+498』


ずっと前に、評価値が+500を下回ると飛ぶように設定していたアラートが発動したのだ。


「え?」


俺は目を疑った。朝はまだ+800を超えていたはずだ。なぜこんなに急激に下がったのか。


焦った俺は、少し躊躇したが、澪さんに連絡を取った。ライフコードのプロジェクト終了後、澪さんとは別のフロアになっていたが、連絡は良く取っていた。


「澪さん、ちょっといいですか?」


澪さんは少し驚いた様子で応じた。


「樹くん?どうしたの?」


俺は躊躇いながらも、状況を説明した。


「実は...突然評価値が下がってしまって。ちょっと原因がわからなくて...」


澪さんの声のトーンが変わった。


「そう...実は、私も気になっていたの。樹くんに何かあったのかなって」


「どういうことですか?」


澪さんは少し言いにくそうに続けた。


「ごめんね、樹くん。夕方、あなたに連絡とろうと思ったら、評価値が下がりそうになったから躊躇してしまって...」


通常、自分より評価値の低い人間とインタラクションすると、自分の評価値は下がる。


「そうだったんですか...」


俺の声にはちょっとした落胆が滲んでいた。澪さんのような分別のある人でさえ、評価値によって行動を左右されているのか。


澪さんは申し訳なさそうに続けた。


「良くないわよね。評価値を気にしすぎて、本当にしたいことや、大切なことを見失っているような気がする」


「そう...ですね」


俺は頷いた。確かに、周りを見渡せば、人々の行動が妙に画一的になっているように感じる。みんな「最善手」ばかりを追い求め、リスクを恐れているようだった。


その夜、俺は珍しく眠れずにいた。頭の中では様々な思いが渦を巻いていた。なぜ自分の評価値が急落したのか。このまま低い評価値が続けば、仕事や人間関係にどんな影響が出るのか。自分の作ったシステムに、ここまで人生を左右されてる俺って何なんだろうか、と。


翌朝、俺は重い足取りで出社した。この時点で、俺の評価値は300を割り込んでいた。オフィスに入ると、周囲の視線を感じた。どうやら、俺の評価値の急落が社内の噂になっているようだ。


「おはようございます、真島先輩」


中川莉子がぎこちない笑顔で声をかけてきたが、その声色には明らかに戸惑いが感じられた。


「ああ、おはよう」


俺も無理に笑顔を作って返事をした。


午前中は周囲の態度の微妙な変化を感じながらも平然と仕事を続けた俺だったが、午後になってついに限界を感じた。体調が悪いのか、体調が悪いような気がするのか分からなかった。俺は上司の景井さんに申し出た。


「ちょっと健康管理室に行ってきます」


景井さんは意外そうな顔をしたが、すぐに了承してくれた。おそらく、俺の評価値が監督者権限を持つ彼のデバイスにも表示されているのだろう。


俺は重い足取りで健康管理室に向かった。この評価値の急落には、何か重大な意味があるのかもしれない。そう考えると、気が重かった。


健康管理室の扉の前で、俺は立ち止まって深呼吸をした。その仕組み上、評価値の急落は、何か良くないことが俺の未来に待ち受けていることを示しているのだろう。でも、この経験が何か自分を成長させてくれるかもしれない。そう強がることで心を支えながら、俺は扉を開けた。

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