第3話:屋上の暗号

午後10時を回ったオフィス。最後のチェックを終えた瞬間、大きな達成感と疲労が一気に押し寄せてきた。


「みなさん、お疲れ様でした」


何とか絞り出した俺の声に応えるように、フロア中から充実感と疲労の入り混じった返事が響く。背中を伸ばすと、骨がきしむような音を立てた。


少し離れた席では、澪さんも深々と椅子に身を委ねている。その横顔には、達成感と疲労が影を落としていた。


「樹くん、本当にお疲れ様」


澪さんが俺の席まで歩み寄り、優しく微笑みかける。その笑顔に、疲れ切った心臓の鼓動が僅かに早まるのを感じた。


「これで明日の本番も大丈夫ね」


「ええ。きっと大丈夫です」


自信ありげに答えはしたものの、心の底では消えることのない違和感が渦巻いていた。しかし、もはや後戻りはできない。


「さあ、帰ろっか」


澪さんが立ち上がる。


「明日は早いんだから」


その優しい眼差しに、心が柔らかくなる。


「はい。じゃあ...どうぞお先に。俺ももう少ししたら出ます」


後悔の色を滲ませながら紡ぎ出した言葉に、澪さんは微かな失望を浮かべつつも、静かに頷いた。


「そう...じゃあ明日ね。お疲れ様」


俺の方に小さく手を上げて去っていく澪さんの後ろ姿を見送りながら、最後の確認作業に取り掛かる。疲労で霞む瞳を擦りながら、コードを追っていく。実質的には頭が働いているとは言えず、それはほとんど儀式めいた行為に過ぎなかった。しかし、自分のミスが公になる恐怖に打ち勝つ方法を俺は他に知らなかった。


最後の確認を終えると、俺はゆっくりと荷物をまとめ、オフィスを後にした。深夜の静寂が、ビルの中に昼間とは全く違う雰囲気を醸し出している。


止まっていたエレベーターに乗り込むと、ふと最上階のボタンに目が留まる。屋上庭園。かつては頻繁に足を運んだ場所だ。夜風に身を委ねながら、コードの構造を思索したり、他愛もない思考実験に耽ったり。このところは開発に追われ、そんな時間を忘れていた。


「...行くか」


明日という運命の日を前に、あの景色を見ておきたい衝動に駆られた。


エレベーターの扉が静かに開く。屋上庭園に踏み出すと10月の涼やかな夜風が頬を優しく撫でる。都会の喧騒から隔絶された静寂が、心を癒やす。


月光に照らされた色とりどりの花々が、夜景を背景に咲き誇っている。赤、黄、紫の花びらは、闇夜に浮かぶ宝石のように煌めきを放つ。


手すりに寄りかかり、深い息を吐く。この場所に足を運んで正解だった。明日への不安も、極度の疲労も、徐々に心から遠ざかっていく。


その時だった。


左手首のデバイスが激しく振動し、俺のつかの間の平穏を終わらせた。驚いて画面を確認すると、そこには謎めいた文字列が浮かび上がっていた。


『4D F8 00 0F F9 F8』


「なっ...」


俺は目を疑った。月明かりに浮かび上がる画面の文字列が、不吉な予感を掻き立てる。ライフコードからのエラーメッセージなのか?しかし、21世紀も半ばになって、16進数のメッセージとはどういうことだろう。頭が真っ白になる。何度もチェックを重ねてきたはずなのに。こんな問題が今更出てくるとは。


「『4D』はASCIIコードでM、『F8』は…」


解読を始めた瞬間、文字列はまるで幻のように消え去ってしまった。背筋を冷や汗が伝う。


「...何だったんだ?」


首を傾げながら、夜風の冷たさが身に染みる。さっきの通知は、本当にライフコードからのものなのか。それとも...


「スパム的な何かか?」


わざと声に出すことで自分に言い聞かせる。明日の一般公開。本当にこのまま進めて良いものなのか。


立ち尽くしたまま、これまでの努力が水泡に帰す可能性を考える。いや、それ以上の重大さを孕んでいる。もし大きな問題があれば、この国の人々の未来に取り返しのつかない影響を及ぼしかねない。


「落ち着け...落ち着くんだ、俺...」


深い呼吸を繰り返す。少しずつ冷静さが戻ってくるのを感じる。


まだライフコードからの通知と決まったわけじゃない。運用中の監視パラメータを増やして対応すればいい。そう整理すると、心が幾分か軽くなった。今慌てても何も生まれない。冷静に分析すれば、必ず答えは見つかるはずだ。


夜風が頬を撫でる。さっきまでは心地よく感じられた風が、今は冷たさを帯びて肌を刺す。肩を震わせながら、もう一度東京の夜景へと目を向ける。


無数の光が瞬いている。その一つ一つが、一人一人の人生のようだ。明日、このライフコードが稼働した暁には、その光の輝き方は変わるのだろうか。人々は、本当に幸せへの道に導かれるのだろうか。


珍しく、頭の中に大きな問いが浮かぶ。技術の進歩と倫理の狭間で、俺たちプログラマーは正しい選択ができるだろうか。


そんな疑問を胸に秘めながら、俺は屋上庭園を後にした。エレベーターに乗り込み、地上階のボタンを押す。ガラス張りの籠は、静かに下界へと降りていく。


「大丈夫だ」


小さく呟いた声は力強さを欠いていたが、決意だけは揺るぎないものがあった。何が起ころうとも、このプロジェクトを必ず成功へと導く。


エレベーターが地上に到着し、扉が開く。深夜の静寂が俺を優しく包み込む。足取りは重かったが、それでも家路を辿る。明日への不安と期待が交錯する中、月明かりだけが俺の帰り道を照らしていた。


その時、俺はまだ知る由もなかった。この夜に目にした謎の暗号が、やがて俺の、そして多くの人々の運命を変えていくことを。

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