第十話 誤解②

「萌さん? どうしたんですか?」

「――ハッ、ごめんごめん。なんか内なる自分と対話してた気がする」

「はあ……そうですか」


 

 ミラちゃんに声をかけられて意識を取り戻すと、居住まいを正して考え込んだ。さあてどうするか――ミラちゃんのバイトを辞めさせるなんてあり得ないし、かといって校則がある以上は認めるわけにもいかない。それなら最善策は自ずと一つしかないな。


「この件は、私の胸先三寸で留めおくと約束します。なんでもかんでも禁止にしてたら生徒の自主性を損ないかねないですからね」


 とまあ、随分苦しい言い訳を並べてお茶で口を濁した。教師の倫理観より自らの利益を優先した結果がこれである。なんとでも言えばいい――推しがこの世から消えるなんて耐えられないんだから(血涙)。


「そうですか……良かったぁ」


 ほっと胸をなでおろして安心しきっていた。メラちゃんの泣く顔は見たくないからね。たとえ正体が教え子でも。


「ただね、先生から一つお願いがあるの」

「なんですか? お願いって」

「ほら、私が寝ぼけてしでかした〝プロポーズ〟。あれはどうにか撤回させてもらえるかな。流石に物理法則が反転しても鏡くんと結婚なんてできないからさ」


 改めて口にするのも恥ずかしいが、意思決定がまともにできない状態での求婚なんてそもそも成立するはずもないし、ミラちゃんも「冗談ですよ〜」とか言ったりして、受け入れてくれるものだ思っていたけど――どうやら私の見通しは甘かったと言わざるを得ない。


 微動だにせず黙って聞いていたミラちゃんは、食器を避けてテーブルの上に必要項目を全て記入してある婚姻届を広げると、鏡柊夜と名前が書かれた上に二重線を引いて、〝ミラ〟と書き直した。


「あの……ミラちゃん? 私が言ってる意味わかる? 書き直してと言ったんじゃなくて破棄してほしいって言ったんだけど」

「嫌です」

「……なんだって?」

「破棄なんて嫌です。私、ずっと黙ってましたけど、萌さんのことが好きなんです!」


 自分の理解を遥かに超える事象を前に、宇宙を背景にした猫のイメージ図が浮かび上がった。メラちゃんが、私のことを好きといったように聴こえたのだが――。


「そう言いました。鏡柊夜として日下部先生のことが好きです」

「いや、ちょっと待って。これは何かの冗談よね? 私なんて三十オーバーの喪女だよ? あり得ないって」


 笑いながら婚姻届を取り合えそうと腕を伸ばすと、先日のように手首を掴まれてじっと見つめられた。そんな潤んだ瞳で見ないでくれぇぇぇ! 浄化してしまう!


「萌さんが教え子と簡単に付き合えないことは理解できます。今すぐ結婚してくれだなんて言いません。だけど、せめてここに書いたようにミラとしてなら、お付き合いを考えてもらえますか?」

「……へ?」

「本気ですよ。私は〝彼氏〟でも〝彼女〟でも、どちらも構いませんし」 

「でも、それって根本的な問題が解決してないような……」

「いいんですか? 推しであるわたしが家事の出来ない萌さんに代わって、掃除に洗濯、料理となんでもしますよ? なんでもいうこと聞くんですよ?」

「な、なんでも?」


 推しが〝何でも〟言うことを聞く――なんとも甘美な響きに暫し酔いしれていると、部屋の壁に立てかけてあった時計が視界映り込んで我に返った。


「ヤバイ! こんなにゆっくりしてたら遅刻する! ていうかミラちゃんも、じゃなくて鏡くんも急いで帰らないと。今日は一時間目から小テストじゃない!」


 慌てて立ち上がると、テーブルの角に脛を強かにぶつけて悶絶した。涙目になりながらピョンピョンと跳ね回ってると、食器を片付けだしたミラちゃんにそれはもういいからと帰宅を促す。


「萌さん。お一人で食器洗い出来ますか?」

「そのくらい出来らぁ!!」


 初めてのお使いじゃあるまいし、本気で心配されたことに怒ってみせると、口元に手を当ててくすくす笑う。本当に可愛いんだよなぁ――なんて呆けているうちに、自分も準備に取り掛からなくてはならない時間が差し迫っていた。まあ、たいした準備もないけれど。


「ふふ。それなら後は任せますね。ちなみに学校は休みがちですけど、勉強は欠かしてないんで心配しなくても大丈夫です。あと自宅も意外と近いですし、歩いて帰れる距離なんで十分間に合います」


 それじゃあ、また後で――片手を振って玄関から出ていった。あれ? メイド服から着替えてたっけ?


         ✽


 テストの終わりを告げるチャイムが鳴ると、緊張感に包まれていた教室の空気が一気に弛緩して、机の上をペンが転がる音が響いた。


 生徒同士で何点くらい取れそうか、出来はどうだったか感想を言い合っているなかで鏡くんは誰とも口を利かないまま、外を眺めている。


 少しくらい自分から歩み寄ればいいのにと思う反面、自分が同世代の頃はどうだったか考えると、人のことをとやかく言えるような人間関係を築いてこなかった。信頼していた友人にも結婚を事後報告されるくらいだし……。


「先生。テストを回収したのですが」

「え? あ、ごめんなさいね。ありがとう芦屋さん」


 教壇の前には、クラスメイト全員分の解答用紙を集めた学級委員の芦屋百花あしやももかさんが、怪訝な目で私に声をかけていた。


 

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