第六話 送り狼②
「お客さん。本当に一人で大丈夫かい?」
薄暗い車内灯の下で支払いを済ますと、お釣りを返す白髪交じりの運転手が心配そうな声で尋ねてきた。
そう言いたくなるのも無理はない。運転中に先生は突然大声で叫びだすし、陽気に笑い出したかと思ったら次の瞬間に気持ち悪いと言って吐き出しそうになるし、今では俺の膝を枕にして腹をかいて盛大にイビキをかいて寝ているんだからな。
「……たぶん、大丈夫です」
「アンタも若いのに大変だな」
気を遣われながら車から降りると、テールランプが暗闇の中に遠ざかっていく。完全に脱力した人間を支えるのは骨が折れる作業で、最初こそ肩で支えていたが全く歩こうとしないため、仕方なくお姫様だっこの形で抱えると腕の中で何度も気持ち悪いと言って、吐きそうになっていた。
「う〜ん……気持ち悪」
「先生、頼むからこの体勢で寝ゲロだけは勘弁してくれよ」
厄介なことに先生が暮らしていたのは五階建てマンションの最上階らしく、しかも故障中の張り紙が貼ってあって徒歩での階段の踏破を余儀なくされた。
「よりにもよって、こんな時間に筋トレかよ……」
同級生より身長はあるし、腕は細いけど力は人並み程度はあるかと自負していたが、成人女性一人を抱えながら垂直に十数メートル近く昇るのは容易ではない。息を切らしながら、なんとか自宅の玄関前まで辿り着くと体力ゲージは赤まで減少していた。
あとは鍵を開けて中に入れれば、
「先生、家に着いたから鍵出して」
「んあ〜牡蠣ですか〜? 牡蠣はだいすきれす〜なんつって〜」
「ダメだ。意思疎通を図ることができない。悪いけどカバンの中探させてもらうからね」
一言詫びてから、申し訳ないと思いつつカバンの中を探ると、鍵以外の私物に目を剥いた。
「こ、これは……」
茶色い包装紙に包まれた未使用のコンドームの箱。自分の欄だけ記入されて押印までされた婚姻届。いやいや、今日一日でどれだけ階段すっ飛ばす気でいたんだ。
それに、今日のデートプランをわざわざまとめてプリントアウトしたA4の紙が、綺麗に折りたたまれている。分刻みのスケジューリルが刻まれ、とても無茶な計画につい笑ってしまったが、それだけ今日に賭けていた本気度が窺い知れる。
――ただ、アイテムだけ見ると空回り感が否めない品揃えではあるけど。
「ドタキャンするようなクソ野郎なのに、先生からこんなに想われてんのがムカつくな〜」
俺の思いなんて一ミリも届いていないってのに……。むしろ普段の態度を見るにマイナスの可能性がすらある。ただの教え子である限り、この距離が縮まることは未来永劫あり得ないだろう。女装姿の〝ミラちゃん〟のほうが、はるかに好かれてる現状が歯がゆくて仕方ない。
現実に打ちひしがれながらも、見つけだした鍵を使って扉を開ける。入った瞬間に感じたのは、澱んだ空気と生ゴミの腐臭。
「うお……これはだいぶゴミを溜めてる感じか?」
手探りで照明のスイッチを押すと、玄関に置きっぱなしのゴミ袋がまず最初に出迎えた。おおかた燃えるゴミの日に出し忘れでもしたのだろうが、嫌な匂いを放って不快であることには変わらない。
自立歩行が不可能な先生の足から、なんとか靴を脱がすとタイツ越しの脚にムラっとしてしまい、思い切り頬を殴って気を静めた。
「危ない危ない……。こんなところで手を出してみろ。捕まるに決まってるじゃないか」
理性で本脳を抑え込み、疲労困憊の体に鞭打って抱えなおすとさらなる光景が待っていた。間取りは1Kのようで広さは十畳くらいはありそうだったが、床には脱ぎっぱなしの服やゴミが散らばる惨状が広がっていた。
食べ残しのカップ麺や弁当の容器が、テーブルの上に置きっぱなしになって残った汁にコバエが浮いている。これは、あれだ――修学旅行で家を数日空けて帰ってきた時の我が家に似てるわ。
家事の一切が出来ない姉貴たちと、まさか先生に共通点があるとは知りたくない事実だった。台所のシンクのなかには、いつ使ったのかわからないカレーの鍋やコップが置かれて、洗い物もこまめにしているとは到底思えない。
「これ、俺と撮ったチェキじゃん。こんなところで見るの恥ずかしいんだけど」
コレクションを眺めていると、勤務時間中に
「ちゃんと飾ってくれてるのは嬉しいけど、全く家事ができないのは心配だな。ていうか、こんな部屋で暮らしてたら遅かれ早かれ体を壊しかねないよな……」
既に滞留する臭いで具合が悪くなってきた気さえする。先生が汚部屋から卒業することを祈って、ゴミを避けながら部屋をあとにしようとすると背後で先生が
「どうしたの? どこか痛いの?」
飲み過ぎて体調に異変が起きたのかと心配して、ゴミを踏み越えて駆け寄ると華奢な腕からは想像できないくらいの力で、幼子が母親を求めるように「ミラちゃんミラちゃん」と縋り付いてきて連呼された。これでは引き剥がそうにも引き剥がせない。
「
愛されているもう一人の自分が、素直に羨ましい。
「よしよし。ミラちゃんは此処にいますからね……」
頭を一定のリズムで撫でていると、急に顔を上げた先生がトロンと溶けそうな目で俺を見上げた直後、悲鳴をあげて「誰!?」と声を張り上げると、ベッドの上を後ずさる。
マズイ……これって控えめに言っても詰んでないか?
「わ、わたしですよ〜ミラちゃんです〜」
「嘘だ。オマエ、ミラちゃん違う!」
どうしよう。どうすれば上手く言い包められる? おそらく人生で一番頭を回転させた瞬間と言っても過言ではない。
咄嗟に機転を利かせて、カバンの中に閉まってあった仕事用のメイド服を取り出すと、マッハで着替えてカチューシャも忘れずに着ける。化粧……ポーチの中だけどそんな暇はないから今は仕方ない。
スマホを手に、必死な形相で何処かに電話しようとしていた先生に「ミラちゃんだよ」と答えると、さっきまで一人で立てなかったくせに物凄い跳躍力を見せてベッドから飛び降りると、下半身に全力でタックルをかまされた。
「ちょ、先生?」
ゴミ袋の上に仰向けに倒れると、なにか染み出した液の腐敗臭が鼻を突く。馬乗りになった先生は我を忘れたように、俺の身体中弄りながら、くんかくんかと匂いを嗅いできた。酒に酔うと、人はこうも理性を失ってしまうのか――。
「さすがに絵面がヤバすぎるから離れて! 理性が持たないんですけど! ってか力強すぎない!?」
具体的に何処とは言わないけど、十代男子にはあまりに刺激が強すぎる態勢に過半身が悲鳴を上げていた。もはや股間近くに先生の顔が乗っかってるし――理性で押さえつけるにはあまりに苦行が過ぎる。
「嫌だ! 離さない! ミラちゃんは私のものなの!」
「わかったから。そこであまり喋らないで。萌さんのそばにいるから離れてくれるとうれしいな」
「じゃあ、離れるから約束して」
「なにを?」
「私と結婚して。そしたら離れてあげる」
地球の自転が止まった気がする。多分、歴史を紐解いても汚部屋の中で女装姿のまま押し倒されて、担任教師からプロポーズされた経験があるオトコなんて俺くらいなものじゃないかな――。
「どうするの? 結婚するの? しないの?」
「え、そんなこと言われても……」
「しないなら、今ここで手籠めにしてやろうか」
酒に寄ってるせいで目が据わってらっしゃる。
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