第三話 デートの待ち合わせ①
腕時計を見て待ち合わせ時間を確認する。手鏡で前髪が乱れないか念入りに確認する。歯に朝食の食べ残しが挟まってないか隅から隅まで確認する。
もしもの時の為のゴムを忘れていないか確認する。いつでも提出できるように自分の欄を全て記入して押印まで済ませた〝婚姻届〟を確認する。
「一時間前行動よし。前髪乱れなし。忘れ物なし。磨き残しなし。ゴムよし。婚姻届よし。
些細な見落としはないか、身嗜みから持ち物まで全て声に出して点検し終える。辛い平日を乗り越えた空には、今日という記念すべき日を祝福するように、一片の雲も見当たらない五月晴れが広がっていた。
――と思った矢先に、頭上の樹の枝に留まっていたカラスから糞の爆撃合撃を受けて、折角の一張羅の肩の辺りに甚大な被害を受けた。前言撤回、雲行きは相当怪しい――。
「うわ、最悪なんだけど……。糞が当たって運がいいね、なんて言ってる場合じゃないでしょ、まったく」
ウェットティッシュで入念に落としていると、周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。もしや私を見て笑ってるのだろうか周囲を見渡すと全員がそう見えてくる――疑心暗鬼に囚われながら、気不味さを誤魔化すように力を入れて擦りつづけた。
デート中に粗相がないようにと、何度も熟読した恋愛指南サイトには『年下男性が相手の場合、年上の余裕を見せて手玉に取るべし』なんて書いてあったけど、現時点で余裕なんてこれっぽっちもない。むしろ緊張して今にも吐きそうだった。
一応、自分なりに寝ずに作成したデートプランがあるにはあるけど、如何せんデートそのものが未知の体験なので上手く乗り越えられるか一抹の不安がよぎる。
一抹どころじゃ済まないか。十抹くらいは不安かを抱えている。もしかしたら不備があるのではと思うだけで、えづきが止まらないんですが――。
「にしても、私の場違い感ったら半端ないな……ウォーリーを探せの主人公ならすぐに見つかるだろうよ」
休日ということもあり、待ち合わせ場所には多くの
カビの生えたオタクである私から言わせると、「弾幕薄いぞ、何やってんの!」と某艦長の台詞が脳裏をかすめるが、十代に通じるネタではない事実に思い至る。
はは、言ってて虚しくなってくるな。
そんな集団のなかで三十二の私が浮かないわけもなく、到着してから度々痛い視線に晒されている。「ババアがなに無理してんだよ」と囁く幻聴が、至る所から聴こえる気がして居心地の悪さったら半端なかった。
今日のために数年ぶりに新調した洋服もデートが始まる前に糞まみれになるし、動画を真似てみた化粧も似合ってる気はしないし、〝若さ〟という最大の
まだ本格的な夏は先だというのに、嫌な汗がうなじから背中を伝い落ちて、心臓の鼓動が早くなっていく。人が多い場所は昔から苦手だ。常に笑われている気がして、呼吸もままならなくなってしまうから。
「耐えるんだ……思い出せ、昔の私を。オタクに対する迫害はこんなもんじゃなかったろ。空気になるのは慣れっこだろ」
足元で蠢く蟻を一心に見つめる。
✽
「ミラちゃ〜ん。また来たよ〜」
「あ、萌さんいらっしゃい。って、何処かで飲んできた?」
カサカサに乾いた心に潤いを求めて扉を潜ると、店内を忙しなく行き交うミラちゃんと目が合ってつい涙腺が緩んでしまう。
数日前にも会いに来たばかりだというのに、そんなことはおくびも出さずに嬉しそうに駆け寄ってくる姿がいじらしい。もう食べちゃいたい。(IQ低下)
「ちょっと一杯引っ掛けてきたところなんだけど、今日はかはり混んでるみたいね」
店内を見渡すと、二十はあるテーブル席と十人掛けのカウンター席がほぼほぼ埋まってる状態だった。これは来るタイミングを間違えたか――。
「そうなんですよ。一番端のカウンター席ならすぐに案内できますけど、それでもいいですか?」
「うん。ミラちゃんの命令なら、たとえ便所の中でも喜んで受け入れるよ」
「トイレって、なに言ってるんですか〜。萌さんって本当面白いですよね」
手に持っていたメニュー表で口元を隠しながら笑う姿は、砂漠と化した心に甘露の如き雨をもたらす。それだけでも会いに来て良かったと思える価値がここにはある。
私が行きつけのコンセプトカフェ、通称〝コンカフェ〟の「魅惑の森」は、深い森の奥に住む魔女の魔法で、男性から女性に姿を変えられた店員たちが働いているという
当然、
魅惑の森に在籍している数十人のスタッフの中で、私の一番の推しはミラちゃん唯一人。身長は180センチあるみたいで長身なんだけど、声も仕草もちょっとした気遣いも全て私が理想とする女のコにドンピシャで超絶怒涛に可愛すぎた。(語彙力低下)
半年前にたまたまこの店を知って訪れて以来、あらゆるコンテンツの沼にハマってきた私がコンカフェの沼に首までどっぷり浸かっている。
自宅にはミラちゃんと二人で撮影したチェキ(有料)が幾つも並んでいて、毎朝毎晩挨拶を欠かすことはない。彼女(?)に会いたいが為に足繁く通い続けて落とした金額は計り知れない。
「〝可愛い〟のまえでは性別など些末な問題なのさ」
「なにか言いましたか?」
「あ、いや、なんでもないです」
空いていたカウンター席に案内されると、本来のメニュー表とは別に〝期間特別メニュー〟と銘打たれたドリンクメニューをメラちゃんから手渡された。
「実は私が考案した新しいドリンクメニューが出来たんですよ。愛情たくさん込めてますので、まずは一杯試しにいかがですか?」
「もちろん頼みます! お試しと言わずに何杯でもいきます! 是非
食い気味に注文してから初めて値段を見ると、二千円と書いてあって一瞬冷静になりかけた。普通にバーで一杯飲むよりも高かったりするがオタクには関係ない。推しに頼まれた日にゃ、たとえ財布の中が寂しくとも断るわけにはいくまいて。
脊髄反射で注文を終えると、カウンター越しにミラちゃんが初々しい手付きでカクテルシェーカーを振りだす。慣れてないのが一目でわかる拙さに、ニヨニヨ微笑みながら観察していると、ふいに話しかけられて間抜けな顔で返事をした。
「そういえば、今日の萌さんっていつもと服装が違いますね? もしかしてデートだったりして」
随分と鋭い指摘に心臓が一瞬凍りつく。それだけ客を観察してる証拠なんだろうけど、
「え? 本当にデートしちゃったんですか?」
「ココだけの話だからね」
「はあ……そうなんですか」
「わわ! ミラちゃん、手元ちゃんと見ないと!」
何があったのか知らないけど、焦点が合わない目で何処かを見つめながらカクテルグラスに注ぎ入れようとするもんだから、盛大に溢して床を濡らしてしまった。
珍しく慌てて掃除をするミラちゃんの姿を見れて眼福だけども、〝しちゃった〟っていう言い方が少し引っかかる。
それだと、デートそのものを事前に知ってたような意味合いになるんだけど……まさかね。日本語の間違いなんて誰でもあるし、そもそもミラちゃんに今日のデートのことは教えてないし。
それでだけど、やっぱり新メニューの定番化には、まだ早い気がするというのが卒直な感想だった。
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