第2話
男は立ち止まり、娘をドサっと捨てるように降ろした。娘はギャッと言いつつも、すぐに起き上がる。二人は大木の浮き上がった根元から、影を見る。
「あれは−−−?」
「黒毛で首元に白い稲妻のような毛並み−−−『グリム』だ。」
【グリム】
獣人は「夜の捕食者」と呼ぶ。まるで黒インクのような真っ黒な長毛に、首元の白い毛並みから、夜の象徴とされてきた。基本的に単体で行動しており、好戦的だ。
男は根元に隠れながら、辺りを確認する。娘は、唸りと高い鳴き声を聞いたそうだ。という事は、この場にはグリムの他に生物がいるという事だ。
男が辺りを見ていると、娘はハッと目を開け、肩のあたりでバレないように指を指す。
「あれって、オカミーではないですか?グリムの向こうにいるのは」
幾度か男を見ながらそう言う。グリムの前足が地面を平すようにして動かすのであまりハッキリとは見えないが、確かに毛玉のようなものがある。目を凝らして見てみると、10cmほどの一角が見えた。白練色の少し光沢のあるツノだ。あれは、確かにオカミーだった。
だが小さい。子供だ。子供のオカミーは子供同士群れで動く。つまりは、群れ同士で成長する生き物なのだ。だが、子供の状態では人より遥かに大きなグリムに対抗できない。二人は少し汗ばむ。男も目を泳がせ、何かできないかと考える。
「グ、グリムに枝を投げてどこかにいってもらうのは?」
「いや、そうしたとしても、グリムは執着心が強い。それに、見て。」
男はグリムの方を指差す。
「グリムは肋骨が浮き出るほど痩せている。そうなれば、より獰猛になり、どんな小さな餌でも食べようとする。枝を投げても害がなければ、どこにも行かない。」
娘は枝を拾いつつも、そう言われたことで、唇を噛み、アワアワと考える。目を泳がせたのち、娘は枝を持ったまま木の根から飛び出した。
「おい!」
男は小声で止めるも、娘は飛び出してグリムに向かって枝を投げる。
ゴンっ!!!
少し鈍い音がした。グリムは唸りながら振り返る。奴の目に映るのは無謀な行動に出た弱々しい猫。猫の前に立ちはだかるのは痩せて理性のなくなった猛獣。今後どうなるかなんて想像の範囲に収まる。男はため息をつき、杖を握りながら根を飛び越える。
「なにやってくれたんだ。」
少し怒りが混じった声に動じず、娘は最早そうするしかないという覚悟と、男へのちょっとした安心感の含んだ苦笑いをした。
「居ても立っても居られないので–––でも、来てくださって良かったです。」
「オカミーの為だよ。」
釘を刺すようにきつめの口調で言った。だが、チラリと見ても、娘はにこやかだった。それを見て、変な子だと男は思った。
グリムは二人を見るや否や敵対者として認識し、大きな咆哮をあげる。風を伴った咆哮に、二人は少し怖気付くように、風を受け屈む。だが、すぐにグリムに立ち向かったのは、娘の方だった。娘は腰に隠し持っていた短剣を取り出し、グリム目掛けて突撃する。グリムが前足で叩き斬るように攻撃を繰り出す。すると、娘は器用に前足から背中へと跳びながら伝っていき、背中を突き刺す。こういった狩りには慣れているようだ。刺されたグリムは痛みを感じ取ったのか、大きな唸りをあげる。男は援護するように光の弾を放つ。名前すらない簡単な魔法だ。だが、グリム相手にはよく効く。奴は数発喰らうと雄叫びをあげ怯んだ。最後の足掻きとして娘を蹴り飛ばすが、男が娘に防御魔法を展開した。幾何角形のステンドグラスのようだ。その魔法のおかげで、娘は吹っ飛ばされるが、体制を整え、木に着地する。まるで重力が木の幹にあるようだった。そして、その反動を活かして幹を蹴り、グリムの首を突き刺した。奴は叫びをあげ倒れ込んだ。倒れた拍子で男の下に飛び降りた娘は、息を荒くしつつも古びた服を叩く。暫くすると、逆立った毛がねた。二人は息を吐き、死骸に近づく。
「グリムは倒せましたね」
「あとは、オカミーだ。子供のオカミーなら、木の上に居るはずだ。」
男は空を見上げながら言う。娘も木の上や根の下などを念入りに見る。男がグリムに背を向けると、つい、あっ、と声を上げる。何かにひっかかった気がした。すると、背後からものすごい速さで、まるで押しのけるようにして毛玉が足元をすり抜けて逃げる。オカミーの大群だ。ここまで多いのは珍しい。せいぜい十匹程なのにここには30はいる。だが、非力なオカミーの子供なんて脅威ではない。適当に一匹捕まえ、鉄ヤスリでツノを切り取った。無理におると衰弱死するが、この方法なら、時間と共に再生するだろう。このオカミーは大きさ30cmといったところか。最早子犬だ。男は貝殻のような光沢を放つ白練色の捻れツノを幾つか採取し、麻袋にいれ、スラムに戻った。
スラムから帰ってくる頃には、もう日が傾いていた。スラムの女房達は夕飯の支度をしている。その辺に火を焚き、これっぽっちしかない米を多めの水と一緒に煮込んでいる。
娘はこの光景を眺めながら、男に話しかける。
「あ、あの、報酬はいくらでしたっけ?」
謙るような言い方、ちゃんと確認しているようで報酬は貰う前提の言い回しだ。だが、ある意味賢い言い方ではあった。男はまた胸ポケットから小銭の入った布袋を取り出す。
「20ルネーだ。」
「20ルネーも−−−!?」
娘はつい大声で叫ぶも、怪訝そうに見る男を見て、
まっ、と言いながら、口を手で覆い隠す。スラムの人間にとって20ルネーなんて大金だ。一ヶ月はまともな飯を食って暮らせる。娘が驚くのも理解できる。
「体張ってくれたしね。」
この一言で、お互い少しだけ距離が近づいた。男も娘はそれなりに礼儀のある賢い奴だと関心した。娘自身も、愛想はないが悪い人ではないと認識していた。ほんの少し和やかになった雰囲気の中、栗毛の長い髭の生えた初老が荒屋の前で棒立ちになっていた。後ろには娘と会った時にいた妹が、また背後にいた。どうやら、こちらを凝視している。まずい、変に目立ちすぎたか。ここで別れようと、男が一歩退きかけた時、初老は待ってくれと、引き留めた。
握っていた杖を隠す様に背中にしまい、だが、そのまま握りしめ続けた。警戒心が男の中で煮えだき、蝕んでいく。睨みつけていると、初老は、最大限親しい雰囲気をだそうと、両手を差し出しながら近づいてきた。
「私は、この娘の父だ。折行って貴方に頼みたいことがある。」
「それは?」
「まぁ、家に入りたまえ。話はそこからだ。」
初老は右手を男の背中に触れ、無理やり促すようにして家の中に招き入れた。人嫌いの男にとっては人が密集する家は嫌いだった。
家の中は本当に質素そのものだ。食台も所々木が剥がれており、床の板も歩くたびに軋む。そんな、今にも壊れそうな床の上で、男は地べたに座る。向き合うように初老と、その家族全員が座った。娘は年下の弟達をあやしながら、母の近くに座った。少しの沈黙もなしに、初老が男に頭を下げた。
「娘から聞いた、仕事をくれたそうじゃないか。粗相してなければいいんだが–––」
初老はゆっくりと頭を挙げる。この者は、本当に礼儀正しい振る舞いをしている。最大限遜った物言いだ。だが、男はよくよく初老を観察しながら、話をする。
「いや、寧ろいい働きだったよ。20ルネー支払った」
「そんな大金をくださるとは–––ありがたい事だ。」
男は真っ直ぐに見る青い眼の初老を見て確信した。この者は本当に謙虚な人間なのだ。現に、子供も物をもらうような、哀れみを貰おうとする目をしていていなかった。知らぬ人で不安がってはいるが、それ以外の感情は読み取れないのだ。男が少し緊張を緩め、肩を息を吐きながら落とす。すると、初老は先程よりも深く頭を下げて言った。
「不躾で申し訳ないが、娘を『買って』はくれないだろうか?」
突然の頼みだ。だが、スラムに来れば、押し売り感覚で子供を差し出すのは話には聞いたことはあった。だが、男はまだ、納得はいっていなかった。この謙虚な者がいう台詞とは思えなかったからだ。男は感情に訴えるように、少し前のめりになった。
「子供だろ?情けは無いのかい?」
「辛いな。–––だが、垂れ流しする情けを持っていては、皆死ぬ。娘に渡した20ルネーで構わん。娘を連れ出してくれ。」
目線を落とし、ひたすら懺悔のような態度をとる。罪悪感、悲しみ、あらゆる情が滲み出ているように見える。だが、服装からして、もう限界なのだろう。獣人は獣の派生、魔物の派生として、長い歴史の中、迫害を受けてきた。その為、獣人というだけでまともな職にすらつけない。貧困の象徴と言われてしまうわけだ。周りの兄弟達は、姉である娘を見上げる。だが、泣きじゃくって嫌がる素振りはない。慣れているのか、悲しむような教育がないのか。娘本人は、悲しそうだが、諦めのようだ。俯いたり、ちらりと、男を見たりしている。その目からは、買われるのを望んでいるとすら思えた。目線を初老に向き直し、滑らかな口調で話す。
「–––どっちみち、僕が買わないと、君たち引き下がらないだろう。いいよ。買ってあげる。20ルネーで。」
ほんの一瞬だけ、初老を見てそう言った。彼は、安堵と娘への申し訳なさが表情からよく見えた。男が杖を握って立ち上がると、母は娘を抱きしめた。忍び泣きをするも、すぐに娘を温もりから放った。もう、私物も何もないのだろう。娘も支度もせず立ち上がる。家族でなにか、残るものを与えようかと思ったが、何故か、止めてしまった。そして、家族を見る事なく、二人はスラムを出た。スラムから、隣にある都市の入り口に行く途中、二人はしんみりとした雰囲気の中会話をした。
「君は、悲しくはないの?」
「悲しいですね。家族と離れ離れですから。」
「–––そう。」
聞いたって答えは想像通りだった。次の一言が見当たらない中、娘は最大限楽観的にあろうとしていた。
「でも、ここから出れば、お金を稼ぐ方法が見つかるかもしれませんから。」
「––そう。そしたら、また家族と暮らしなさい。」
彼女は答えようとしなかった。スラムを振り返ろうともしなかった。少し先を歩く男の背中を見ながら、ふと、思い出したかの様に話し始めた。
「あの、お名前は?」
娘は小走りで男の横まで寄り、首を傾げて尋ねる。男は少しの間沈黙してから、ぽつり、と言った。
「好きに呼びな。」
娘にとって、悲しげに聞こえた。まるで、名前を忘れてしまったかのようだ。そして、それを恥じているようにも、娘は、勝手に感じ取った男の自己恥辱を拭ってやろうと、明るく振る舞った。
「で、では、これからよろしくお願いします。『イツキ』さん。」
二人は門限ギリギリに都市の関所に入り、娘のパスポートを無理やり取得した。そして、役人にグチグチと小言と獣人に対する嫌味を言われながら、商業都市「ウィルバーレ」に入っていった。彼女らの背中は、何だか、お互い違った悲しみと、仲間を得られた安堵を醸し出していた。
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