正義の所在
骨太の生存術
「正義の所在」
1
「ここでも一人――」
三浦安彦は後ろを歩く老夫婦を振り返った。
「女性の方でした。名前はたしか――」
街灯の下で、老夫婦の顔は濃い影の中にあった。道路端に供えられた花は、昼間の暑気のせいですっかり萎れてしまっていた。
夜も更けてようやくほとんどすべてのシャッターが閉ざされ、街は色という色をなくして薄暗くなっていた。しかし三浦は、あの日の昼下がり、この路地のアスファルトが毒々しいほどの鮮血で濡れていたことをいまでもはっきりと憶えている。
「もう少し先です」
三浦は再び歩き出した。たよりない糸でひっぱられるように、江口俊雄、美和子夫妻がその後をのろのろとついてくる。
「ここです」
ほんの十歩ほどのところで三人は立ち止まった。
「あなた方の息子さんは、ここで亡くなった」
そう告げると、老夫婦は三浦に深々と頭を下げた。
少しして二人を促し、一行は大通りの交差点に戻った。
角にあった献花台は去年の暮れには撤去されたが、そのあたりにはいまでも時期を問わず供物や花束が絶えない。遺族や友人たちにとっては、死ぬには早すぎた者たちそれぞれの誕生日という日はまだ、命日よりも重い意味があるということなのだろう。
夫の方がひどく慎ましやかな花の包みをそこに供えると、妻の方は堰を切ったようにすぼめた肩を震わせはじめた。三浦は夫妻の背後にそっと下がると、彼らにニコンのレンズを向けてシャッターを切りはじめた。
深夜営業のファミレスに入り、夫妻の前のほとんど手つかずのコーヒーが湯気を断つ頃、三浦は二人に切り出した。
「江口さん――金尾誠一郎に会ってみたくはありませんか?」
このとき、夫妻ははじめて顔を上げた。
2
――三浦安彦著「午後一時五十二分、そのとき」より抜粋――
金尾誠一郎は、千葉県柏市の裕福な家庭で生まれた。
父親は慶應義塾大学出の財閥系総合商社勤務のエリートで、また母親は出自も良く、上智大学を卒業後まもなく二人は見合い結婚をし、四年のうちに三人の男児をもうけた。誠一郎はその長男である。
誠一郎は良家の長男ということもあって、両親はもちろん、祖父祖母、親戚一同からは、当然のように弟たちよりも一段格上の存在として大事に育てられてきた。
ただ、そんな周囲の期待がいずれも幼少の頃から才ありと目された弟たちに向けられるようになってからは、それはいつしか誠一郎の脇をすり抜けるようになり、彼の長男としての立場はさほど重みのあるものではなくなっていた。
それでも金尾家の教育方針には差別も手抜きもなく、三人の兄弟はみな同じ私立の一貫校で同等の教育を受けることになる。
とはいえ、学業の成績がはっきり数値として表れるようになると、彼の親たちは誠一郎の教育に対して早々に匙を投げた。当の誠一郎もまた、両親のそんな眼差しや態度を察し、学業に関しては特段の奮闘も努力もすることなくさっさと見切りを付けてしまっていた。
ならばスポーツはどうかと、思春期前後のありあまるエネルギーは部活動のバスケットボールに注がれたが、誠一郎は中等部でも高等部でも一度もレギュラーを勝ち取ることはなかった。
そうして兄がくすぶっている間にも、二年後、三年後にそれぞれ中等部に進級してきた弟たちは、いずれもすぐに勉強でもスポーツでもめきめき頭角を現しはじめた。非凡な弟たちの存在が誠一郎の友人や教師らにも知れ渡るのは時間の問題で、やがて誠一郎は、家族以外の人々からも、ことあるごとに、弟たちとの出来の差を意識させられるようになっていった。
ただ、それで誠一郎が卑屈に育ったということはなく、むしろ誠一郎は、いつでも弟たちを哀れんですらいた。
親や周囲からの過度な期待を向けられなかったために、弟たちのような、遊びたい盛りを禁欲的な枠に嵌められるような鬱屈した暮らしとは、彼だけは縁遠かったのである。
抑圧と強制の日々を送る弟たちに、悦楽と怠惰にふけるひとときを与えてやっていたと、誠一郎は十代半ばの頃を振り返っている。
金尾家ではテレビゲームは絶対禁止とされていた。だが、誠一郎は落ちこぼれ仲間の友人の家に入り浸っては思う存分テレビゲームに興じてきたし、ときにはゲーム機を借りて帰り、親が寝たのを見計らって、こっそりと弟たちと夜中じゅう遊んだりもした。
お笑い芸人たちが一晩中喋り通す下品な深夜ラジオ番組を聴く楽しみを弟たちに教授したのも、これまた金尾家では禁止とされていた漫画本を押し入れの奥に密かに設けた棚にぎっしりと溜め込み、それらを夜遅くまで分厚い参考書に首っ引きの弟たちに提供して、しばしば勉強の邪魔したのも誠一郎の仕業だった。
無論、誠一郎のそういった悪さは両親にときどき見咎められた。ときには「弟たちの足を引っ張るんじゃない。弟たちがお前のような愚図になってしまったらどう責任を取るんだ」などと叱られもした。そんなときでも誠一郎は決して抗わなかった。いますぐ漫画本を捨ててこいと言われれば二つ返事ですぐに紐で縛ってゴミ集積所に走ったし、ラジオを没収すると宣告されれば殊勝に差し出し、それが庭石にぶち当たって砕け散る様をただ照れくさそうにして眺めているのも二度や三度ではなかった。
ただ、それで彼が深く反省し、態度を改めるということはなく、叱られた翌日にはこっそり小遣いで安ラジオを買い直したし、また、隠し本棚もすぐのちにひそかに別の場所に設けられ、その新しい棚はそう間を置かずに満杯になったものだった。
そうして陰で他愛ない悪さをすることはあっても、直接両親に刃向かうような反抗期は誠一郎には皆無だったといっていい。親を恨んだり憎く思ったことは一度もなく、誠一郎は、両親に叱られ呆れられ、見放されても、そんなことに少しもめげることはなかった。
そんな誠一郎の役回りは、むしろ金尾家には幸いなことだったといっていい。彼は親と弟たちとの間に必要不可欠な緩衝材となっていたのである。その役回りの必要性を重々理解していたからこそ、誠一郎は徹底して道化を演じることに生きがいを感じていたし、それこそが持って生まれた自分の才能だと誇らしくさえあった。
だが、当然のことながら、誠一郎はいつまでも金尾家の道化でいられるわけではなかった。
その兆しは、やっと滑り込んだ底辺レベルの短大で、春にはもう卒業なのにまだ就職先も決まっていないという頃にあらわれた。
その頃、二歳下の弟が東京大学に合格した。さらに、もう一人の弟も次兄に続けと翌年の受験で一流大学に目標を定めたことで、誠一郎の内にこれまでついぞ感じたことのない焦りが、いまさらながら、突如沸き起こってきたのである。
誠一郎は、三月も末のぎりぎりになってようやく両親に就職の報告をすることができた。ただ、就職先といっても食品加工会社の工場勤めにすぎず、それで弟たちとの差が埋まるはずもなかった。
「がんばりなさいよ」と一言、父親に聞こえないようにだろう、誠一郎はこっそりと母親に声を掛けられた。その母親の態度を当時の誠一郎は、新社会人の第一歩を踏み出した息子への激励というよりは,出来損ないの息子に対する憐れみとしか受け止められず、ひどく傷ついた出来事として記憶に刻み込んでいる。
弟たちは見事に親の期待に応えた。そんな金尾家にはもはや道化は必要なくなっていた。それよりなによりも誠一郎にとってショックだったのは、彼自身がすでに道化を演じられなくなっていることを自ら悟ってしまったことだった。
そうなると途端に家は居心地が悪くなってしまい、誠一郎は取手にある会社の独身寮に移り住むことにした。
毎朝工場まで自転車で通勤しては、白衣と白長靴、マスクに身を包み、九時から五時まで冷凍食品の検品や箱詰め作業に没頭する。人並み以上にそつなく業務をこなすことはできていたが、それは与えられた仕事が単調なのだから当然のことで、自分が格別有能だと思わせてくれるような機会は皆無だった。
それゆえモチベーションは日増しに下降線をたどった。入社して三ヶ月ほどでそれはほとんど底を這い、そうなると立身出世を望む気になるはずもなく、将来はすでに漠として見えなくなっていた。
付き合いでキャバクラや風俗遊び、競馬、競輪などあらゆるギャンブルに手を出しもしたが、誠一郎はそれらのどれにものめりこむことはなかった。そのくせ誘いを断れず、給料はその月の終わりには使い果たしてしまうといった自堕落な暮らしを続けていた。
女性との交際もなかった。そもそもどこにも主張のない顔立ちは女好きのするものではないし、肩が薄っぺらくひょろりとした背はさして高くもなく頼りなげな雰囲気を目立たせるばかりで、そんな男気を匂い立たせるような気概も気迫も感じさせない、ましてや金の匂いなど一かすめも匂わせない人間に、好意を持つような女などいるはずもなかった。
上の弟が霞ヶ関勤めをはじめたとか、下の弟が大手町の名の通った証券会社に入社したとかいう母親からのめでたい知らせも、どことなく誠一郎に気を遣って言葉を選んでいるようで、そんな言葉の裏側に秘められた憐憫をいちいち感じ取っては、ひとりそんな祝い事から蚊帳の外に置かれた金尾家の長男は、内心忸怩たる思いで奥歯を噛み締め、ともすれば抑えられない激しい羨望をもって受け止めるようになるまでに変わり果ててしまっていた。
なお悪いことに、ならば負けじと奮起し、努力するなどといった考えには決して及ぶことはなく、思考はすぐに、自分は何も成し遂げることができないという諦めが先走るばかりだった。
自ずと、足は家に向かなくなった。家に帰れば、弟や親たちと、親族や近所の者たちと顔を合わせなくてはならない。もはやそれは恥をさらすことと同義だった。それまでも家に顔を出すのは盆暮れ正月だけとなっていたが、この年からは、彼はがらんとした独身寮でひとりきりで過ごすようになっていた。
年明けて三日の午前十時頃、誠一郎は常磐線で上野に出て、そこから日比谷線に乗り換えて秋葉原に向かった。自分がたてる物音以外何一つ聞こえてこない寮で孤独に閉じこもっている自分の姿に、ついにいたたまれなくなって部屋を飛び出したのである。
風音ひとつしない空からは小春の日射しが降り注ぎ、そのせいか街は、軒並みの初売りセールに群がる人々の嬉々とした賑わいに満たされ、ときおり神田明神あたりから流れてくる振り袖姿のお披露目もあって、ぱっと艶やかな華やぎを見せたりもしていた。
以前に同僚と連れ立って訪れたときは、メイド喫茶だのアイドルグッズ漁りだのと、くだらないなりにもそれなりに楽しんだものだったが、いまの誠一郎はそれらのどれにも興味を覚えられず、早くもこの街に来てしまったことを後悔していた。
昼時に牛丼チェーン店で腹を満たしたあとも、誠一郎はただぶらぶらと当てもなく街を行ったり来たりした。それにも疲れ果てると、雑踏の中、歩道のガードレールに腰を掛け、今度は街を行き交う人々を眺めはじめた。
そのとき唐突に、誠一郎の脳裏にある思いが過ぎった――この人たちは誰に望まれて生きているのだろう?
その問いは一瞬後には自分にも向けられた。
自分は、誰に生きることを望まれているのか?
みな自分がそこにいる意義を見出してこの瞬間を生きているのだろうか。自分は何のために生きているのだろうか。自分が、彼らが、いま突然いなくなったとして、誰が悲しむのだろうか。自分が死んだら、誰が悲しむのだろう?
(俺が生きていて、誰が喜んでくれる?)
誠一郎は頭を抱えた。泣きたくなってきて、本当に涙が溢れそうになってきて、その女々しい姿を人に見られまいと頭を抱えこんで顔を隠し、しかし抗いようもなく襲ってくる震えを、嗚咽を押し殺そうとした。自分が情けなくてしかたなかった。同時に、これまでの自分の生き様に対する怒りが沸き起こってきた。しかし、どうすることもできなかった。目の前で絶望が口を開け、彼は一息に吸い込まれそうになっていた。
そのとき、彼の時計は午後一時五十二分を回ろうとしていた。
江口和也の腕時計も、同じ時刻を刻んでいたはずである。
二束三文の安物でも、かといって目を剥くほど高価でもないその国産の時計は、大学の合格祝いに父親が買い与えたものだった。ただ、息子がその時計を気に入って喜ぶといった様子を両親は見たことがなかった。
江口和也は芳夫、智子(いずれも仮名)夫妻の遅い一人息子として栃木県佐野市に生まれた。
両親は親の代から受け継いだ青果店を、地元住民相手に小さな商店街の一角で細々と切り盛りしていた。しかし、和也が県立の進学校に上がる頃、近所に開店した大型スーパーの薄利多売攻勢の煽りを受けて商店街の店という店が軒並み潰れていき、江口家の青果店も例に漏れず閉店の憂き目に遭うこととなった。
それを機に、芳夫は五十歳にして東京にあるタクシー会社に単身出稼ぎに出ることになり、智子はというと、束の間商売敵だった大型スーパーの青果売り場担当のパート従業員として働きはじめた。息子が希望するどんな大学、どんな学部でも行かせてやれるようにと、身を粉にして働く両親の思いはただそれ一つきりだった。
だが、和也の学業成績が振るわなくなったのはその頃からで、両親はその理由をそういった家庭環境の変化にあったと考えている。
中学までは常に学年で十番以内に入るほどの成績だった。だが、進学校の高校では下位クラスに振り分けられるほどに低迷していた。そんな息子の苛立ちを、智子は手に取るようにわかってはいたもののもてあまし、出稼ぎに行ったきりの夫に相談することもできなかった。その頃はとくに息子を心身ともに支えてやれていなかったと、夫婦ともども悔しそうに語っている。
智子が進路相談の三者面談に同伴した際には、担任教師から和也の志望校のレベルを下げるよう一緒に説得するように迫られた。しかし和也は聞く耳を持とうとしなかった。かといって、その自信にはなんの根拠もないらしく、自身を過大評価する生徒に呆れを隠さない教師の投げやりな対応に、智子は母親として息子の意思を尊重して後押しするどころか、ひどく肩身の狭い思いをしたものだった。
和也は大学受験に失敗した。第一志望を落としただけでなく、滑り止めの第二志望、第三志望すらも高望みしすぎていたのである。
浪人中に、どうにか説き伏せて志望校のレベルを下げさせたものの、結果は同じで第一志望校――前年の第三志望――を落とした。
両親は二浪も認めようとしたが、和也は何を思ったのか、滑り止めに受けてどうにか合格通知を受け取った三流の私大に進むことを決めた。そこへは家から通うこともできたが、彼は親元を離れ、仕送りをもらいながら大学の近くで一人暮らしをはじめた。
江口夫妻が息子の退学の報告を聞いたのは、和也が大学へ進学してから最初の正月だった。しかも、夏期休暇明けの十月にはすでに、両親に断ることなく退学届を提出していた。どんなに問い詰めても、和也は頑として退学の理由を語らなかった。そのとき夫妻は、あまりに唐突のことでただ戸惑うばかりだったという。
江口和也は、そのまま一人暮らしをしながら、アパート近くの葬祭場に就職した。
その突拍子もない行動にも驚かされたが、それでも自分自身で進路を決めたことに江口夫妻は一応は安堵した。しかしそれもほんの束の間で、和也はそこも職場放棄という形で三ヶ月で辞めている。
以来、アルバイトを転々としたらしく、やがて夜間警備員の職に就くとようやく腰を落ち着けたかにみえた。ただその頃から、暮らしぶりを訊ねようにも昼間は寝ているという理由で電話はなかなか繋がらず、夜は夜で仕事だから電話には出られないと、次第に連絡がつかなくなっていった。
宇都宮警察署から傷害と器物損壊の容疑で息子が勾留されているという連絡があったのは、年の瀬も押し詰まった頃だった。
その夜も東京都心の繁華街で眠い目をこすりながらタクシーを流していた芳夫は、一瞬で目が醒めた。そして、勤務を切り上げて大急ぎで東北道を飛ばし、警察署に駆けつけた。その夜は息子との面会は叶わなかったが、そのかわりに担当の警察官から事の顛末を聞き出すことができた。
事の発端は、道路工事現場での交通誘導員であった江口和也が、やってきたタクシーをストップさせて対向車両を通行させていたところ、そのタクシー運転手に罵声を浴びせられたことにあった。売り言葉に買い言葉の末、ついには和也が手を出した。手酷く殴られたタクシー運転手が警察に通報すると、和也はさらに逆上して今度はタクシーの窓を滅茶苦茶に壊しはじめたのだという。
和也は明朝になって勾留を解かれた。その帰り道、息子の口から独り言のように吐かれた悪態は、芳夫をひどく驚かせた。
「雲助どもめ――ど底辺のくせに、バカにしやがって」
その侮蔑の言葉はつまり、現にタクシー運転手である父親の自分も含まれているのだ。
ただ、それを聞いても芳夫は息子を叱れなかった。むしろ、息子がこんなふうに荒んでしまった原因は、自分の父親としての不甲斐なさにこそあるのだと自責の念に駆られた。
年明けに出頭せよとの通告がくると、和也は部屋で手首を切った。
彼のそばには直前まで書き綴っていた遺書らしき紙の束があった。それには、自分を見下し、虚仮にした世間――高校の同級生と担任教師にはじまり、大学の同級生、最初の就職先やその後の職場の同僚たち、彼に蔑みの一瞥をくれた者たち、果ては自分をここまで落ちぶれさせた社会、ひいては政治家たちに向けられた激しい憎悪がぎっしりと、便箋十枚分ほど書き殴られてあった。
ただ、切った手首の傷はごく浅く、大事には至らなかった。それを機に、江口夫妻は息子をなだめすかし、アパートを引き払って、もうこの家に帰ってくるよう説得した。
明確な返答こそなかったが、その出来事の後、和也は自分の部屋に引きこもってアパートに帰ることもなかった。両親はそれが彼の答えだと受け止め、とりあえずは安堵した。
年明け三日の早朝、和也は父親のミニバンに乗って行方をくらました。
彼の足取りは、カーナビゲーションに逐一記録されていた。警察で解析された走行軌跡によれば次の通りである。
東北道を南下して東京に入ると、はじめに向かった先は新宿歌舞伎町の中心街だった。車はそこで十五分ほど停車していたが、やがて渋谷方面へ向かいはじめる。渋谷では駅前のスクランブル交差点付近に停車し、そこも十五分ほどで離れている。その後、山手通りで中目黒、五反田、品川をめぐり、第一京浜を北上して新橋、銀座へと向かい、それぞれの中心部で十分ほど停車している。それから霞ヶ関の官庁街をゆっくりと通過し、国会議事堂の周囲を三周ほど回る。その後さらに車は内堀通り、靖国通りを経て中央通りを北上していく。昼下がり、彼が行き着いた先は、中央通りがまさに街の中心を貫く秋葉原だった。その時刻、午後一時五十二分――。
街のそこかしこに設置された防犯カメラ、そして通行人らがスマートフォンなどで撮影した映像に、その一部始終が記録されていた。
中央通り、JR高架下の信号で一台の白い車が停止した。その車は数十メートル手前から、信号が赤に変わるのを見計らっていた。
横断歩道の信号が青になると、両側の歩道から堰が切れたように人が溢れだし、数秒後には横断歩道の中ほどで一つに繋がった――と、白い車はいきなり発進した。それは、二つの奔流がぶつかり合って混じり合う真ん中をめがけて突っ込んでいった。
白い車――江口和也がハンドルを握るミニバンは、瞬時に人体の飛沫を跳ね上げ、人体の波紋を広げていった。
ミニバンは荒れ地を走るように激しく弾みながら突き進んでいった。それは、その前輪と後輪が、正月休暇中の会社員中野信司(25・仮名以下同)の、のちに摘出することとなる脾臓を押し潰し、またバンパーと地面との間では、友人と遊びに来ていた高校生大山智恵(17)の大腿骨を真ん中から折り、受験直前の息抜きとして訪れていた上野雄一(18)の腓骨を七つの欠片に粉砕した瞬間だった。
直後、ミニバンは足を取られるぬかるみを抜け出したかのように途端に勢いづいた。そしてなおも人の奔流を求めてか、方向を急激に転換して歩道へ侵入すると、歩道の幅いっぱいに蛇行しはじめた。
そこでは、直前までの叫声や悲鳴を耳にして振り返っている者が多くいた。だが、ほとんどの者が何が起きているか理解できていなかった。彼らはそこから一歩も動けぬまま立ち尽くし、ただ白い車に襲われるがままだった。電気店店員の足立貴之(35)とメイドカフェのアルバイト店員小岩久子(19)がはねられた後になおも臓器を轢き潰された。他にもビルの壁面、ガードレール、街路樹との間にそれぞれ一人ずつが挟まれ、骨や肉が、破砕され、摩滅される苦痛に見舞われた。
歩道の切れ目でミニバンは再び車道に猛然と飛び出し、数十メートルの間に一息に加速した。狙いは先の交差点を横断する子連れの家族に定まっていた。
市川浩一(30)は横断者を蹴散らす車の突進に気付いて咄嗟に幼い我が子を抱き上げたが、避けるまでには至らず、その場に立ちすくんだ妻の香苗(28)もろともバンパーに掬い上げられた。彼らの体はボンネットとフロントガラスに激しく打ちつけられ、なおも宙に高々と、天地なく回転しながら跳ね上げられ、そしてアスファルトの地面に頭から叩きつけられた。二人は即死し、父親に庇われた香里奈ちゃん(5)ものちに搬入先の病院で息を引き取った。
その際にフロントガラスにひびが入って視界が損なわれたか、ミニバンは交差点の先でトラックの横っ腹に突っ込んで停止した。
和也が車を降りてきたのは、それから三十秒ほどしてからだった。
その両手には、いずれもその中肉中背の体格にすら手に余るほどに大きい、刃渡り三十センチほどのサバイバルナイフと、大型のハンマーがあった。
江口和也はあたりを見回すと、たったいま通ってきた交差点へと一直線に駆け戻っていった。そこには、はねられた三人家族を救助しようとする人々が集まっていた。
まず、少女を介抱しようとかがみこんでいた警察官が襲われた。
任官二年目の平井広樹巡査(22)は、脳天に重量一・五キログラムの重いハンマーを渾身の力で振り下ろされただけでなく、防刃ベストの隙間にサバイバルナイフを、その切っ先から柄のあたりまで突き立てられた。巡査は瞬時に四肢を投げ出して突っ伏すようにして即死した。この後、少しの間、江口和也は平井巡査の腰の拳銃を奪おうと躍起になっていたが、急に我に返ったように顔を上げてあたりを見回すと再び駆けだした。それ以降、江口和也は手当たり次第に人々に斬りかかり、ハンマーを振り回した。
人々は事態を察知して逃げだそうとしたが、それでも五人の男女が彼の凶器に負傷し、うずくまった。中でも大森遙香と佐野涼子(いずれも15)の二人が執拗に攻撃を受け、十数秒のうちに二つの命が奪われるまでに至った。二人は仲の良い同級生で、最初に切りつけられた一人を庇い、助け起こそうとして、もう一人も逃げ遅れたのだった。
ようやくどこからか警察官の警笛が鳴りはじめ、和也を追い立てるような太い怒号もあがりはじめた。和也ははじめて追われる身となったことに気付いて激しい狼狽の様子を見せ、ついに逃走に転じた。彼は凶器を振り回しながら近くの路地に駆け込んでいった。
一連の惨事が周辺にも知れ渡り、蜘蛛の子を散らすように人々が四散していくさなか、そのとき、人の流れに逆らって走りだした人物をいくつもの防犯カメラが捉えていた。
その男は江口和也を追いかけるように、およそ五秒ほど遅れて同じ路地に飛び込んでいった。
その路地の中ほどを歩いていた都内の女子大学生の三人組は、表通りで何が起きているのかをまったく知らずにいた。突如血まみれのナイフとハンマーを振り回し、獣のような唸り声を上げながら走ってきた男に、驚いて立ち止まりこそすれ、彼女たちは無防備すぎた。
江口和也は体ごとぶつかるようにして、真ん中にいた橋本陽子(22)の胸をナイフで背中へと貫き、そのままもつれるようにして地面に押し倒した。彼女の友人たちは悲鳴をあげて後ずさったが、すぐに腰を抜かして座り込んでしまった。
和也はその二人には目もくれなかった。倒れた女子大生の胸からナイフがなかなか抜けずに、ついには腹立ちまぎれに彼女の顔面にハンマーを滅茶苦茶に振り下ろしはじめた。最後には仁王立ちになり、女子大生の胸を足で踏みつけて力まかせにナイフを引き抜いた。
そのとき、和也の背中めがけて一人の男が飛びかかった――それが金尾誠一郎である。
二人は女子大生の体を飛び越え、絡み合ったまま地面を転がった。
誠一郎は、江口和也を羽交い締めにして懸命に押さえ込もうとしていた。だが、和也の方が誠一郎より体格で勝っていた。
和也の片腕が縛めから抜けて自由になったとき、彼は落としたハンマーに手を伸ばしながら、しがみつく誠一郎ごと地面を這いずっていった。その手はいまにもハンマーの柄をつかむところだった。
しかし一瞬早く、誠一郎は自ら羽交い締めを解いて、和也から離れ、その先に転がっているサバイバルナイフを手に取った。
誠一郎は振り返りざまに、ハンマーを振りかぶって覆い被さってきた江口和也の左の脇腹にナイフを深々と突き刺した。直後、和也は地面につんのめり、だらりと手足を投げ出して動かなくなった。
その後、誠一郎は駆けつけた警察官に取り押さえられ、後から来たパトカーに押し込まれて連れ去られていった。
江口和也はその場で死亡が確認された。
3
ジャケットの裾に隠したニコンが連写をしている間も、金尾誠一郎の無表情はフィーバー中のパチンコ台の電飾で赤や青の光に照らし出されていた。
そのうちに、空き台を探していた中年女が誠一郎に気付いた。
「あんたのこと知ってる! テレビに出てたでしょ!」
いきなり馴れ馴れしく誠一郎の肩を揺さぶった女は、「ちょっと待ってて!」と言い残して店を駆け出ていった。一方で、誠一郎は店員に出玉の清算を急かし、逃げるように店を後にした。
三浦も誠一郎の後を追って店を出ると、さっきの中年女が向かいの書店から一冊の本を胸に抱えて出てくるところだった。ちらと見えた表紙からすると、それは金尾誠一郎の自著にちがいなかった。
女は目ざとく景品交換所の列に並ぶ誠一郎を見つけると、前に立ちはだかって買ったばかりの本にサインをねだりだした。やがて女はつれない態度の誠一郎にしびれをきらしたか、ついには口を尖らせて周囲の人々を巻き込んで煽りたてはじめた。
会話こそ聞こえないが、遠目にも三年前の事件のことが話題に上がっているらしいことはわかる。中年女と同じく、誠一郎に見覚えがある者も少なくなく、彼はすぐにも好奇の目の渦に飲み込まれてしまった。
そのとき、そばにいた若者が連れの友人にナイフを突き立てるような仕草をした。瞬時に誠一郎の表情は凍り付き、彼は一目散にその場を逃げ出した。
誠一郎はパチンコに興じたあと、三ブロック先の小さな喫茶店に入り、一番奥の席で他の客らに背を向けて座る――それがこの二ヶ月の間、三日にあけず繰り返されてきた彼の習慣だった。だがそれも、さっきの中年女のせいで、またも河岸を変えざるを得なくなったにちがいない。
機嫌を損ねたばかりでタイミングは最悪だが――あるいはむしろ、あの中年女たちは、三浦の目的にとってはいいお膳立てをしてくれたのかもしれない――、誠一郎が結局いつもの喫茶店に入ったのを見て、三浦は後を追って店に入った。
三浦は誠一郎の背後から忍び寄ると、いきなり彼の向かいの席に座った。誠一郎は一瞬ぎくりとしたが、すぐにさっきの中年女に向けたのと同じ顔をした。
「おいおい、俺に向かってそれはないだろう」
そう言いながら、三浦はこれは言っておかねばということにはたと思い当たった。
「それに、なんだよさっきのは? ああいうファンあっての悠々自適な暮らしじゃないのか」
「客寄せパンダになれってことですか」
「それも一環だってことだよ――まさか預金通帳を眺める暮らしに飽きたって言うんじゃないだろう?」
「――何の用ですか」
誠一郎はぶっきらぼうに言った。
「顔を見たくないなら、電話っていう便利なものもあるんだけどな」
「顔だろうと声だろうと、どっちもお断りですよ」
三浦は胸の中で舌打ちをした。真っ昼間から玉遊びをして、この店の一杯五百円のコーヒーを飲んでいられるのは誰のおかげだと思っているのか。
事件当時、三浦は初詣客で賑わう神田明神で、万世橋署の盗犯係の顔ぶれを見張っていた。初詣客にとけこみながらスリ被害を警戒している彼らに目を付けておけば、あわよくばスリ犯を取り押さえる現場に遭遇できるかもしれないからだ。
そのとき、刑事たちは何かの一報を受けて慌ただしく引き上げていった。三浦はその後を追って、まだ騒然としている秋葉原の真っ直中に飛び込んでいったのである。
三浦はすぐさま聞き込みをはじめ、おおよその事態を把握した。
それと同時に、財布とは別に常に懐に収めてある五十万円を使って、スマートフォンやビデオカメラで事件を撮影していた人々から写真や動画を買い漁った。無論、テレビ局や新聞社、ライバルの雑誌社に同じものが渡らないように、相手にはその場でデータを消去させることも忘れてはいない。一般人はそんな映像にどれほどの価値があるか具体的には知らない。万札を数枚つかませれば嬉々として譲ってくれる。
札束をきれいにばらまき終わる頃には、三浦は極上のスクープ写真や映像をほぼ独占していた。そして小一時間も費やして方々に電話をかけたのち、それらは、その日の夕方から民放各局のニュースで流され、ばらまいた額の数倍、ものによっては数十倍の金を生み出しはじめた。
凄惨を極めた映像の中には、殺人犯が一人の細身の男に取り押さえられ、その果てに刺殺されるまでの決定的瞬間のものもあった。
さらに三浦は、いまだ上を下への大騒ぎとなっている万世橋警察署へ駆け込んで映像を見せ、金尾誠一郎は取調官が誤解しているような連続通り魔犯などではなく、彼はむしろ身を挺して殺戮を止めたのだと訴え、正真正銘の連続通り魔犯である江口和也をサバイバルナイフでひと突きに刺殺した際の正当性を立証してみせた。
そうして誠一郎に恩を売って顔見知りになることに成功すると、三浦はさっそく彼に独占インタビューの約束を取り付けた。それは三浦が籍を置く週刊誌上において、事件関連記事と並んで四週にもわたって目玉の特集記事となった。
その際、三浦は誠一郎を説得して実名を載せた。
実名を出すことによって、連続通り魔犯の蛮行を阻止した「どこかの誰か」は、「金尾誠一郎」という唯一無二の存在となる。これが仮名では、この事件は「江口和也」という男が犯した連続通り魔事件として日本犯罪史に深く刻まれるばかりで、その殺人鬼に立ち向かい、恐るべき狂気の沙汰に歯止めを掛けた英雄が現実に存在し、行動を起こしたという事実は、ただただ凄惨だった事件が落とす影に隠れてしまう。
この事件が生んだ一人の英雄の存在は、決して人々の記憶から消え失せてはならない――それは、誠一郎が和也に飛びかかっていった映像を見た瞬間に、三浦が直感的に感じたことであった。そのためには、連続通り魔犯「江口和也」の対極にある存在として英雄「金尾誠一郎」の実名は欠かすことができなかったのである。
事件報道が一段落した頃、英雄の実名を載せた三浦の記事をきっかけにして、世間は「金尾誠一郎」に耳目を注ぎはじめた。
テレビ、新聞、雑誌等、媒体を問わず、彼を取り上げた特集企画は連日放送、掲載され、そのリアルヒーローの人物像が深く掘り下げられていった。無論、人受けのいいヒーロー像の構築からして、「金尾誠一郎」のマネージメントは三浦が一切を仕切っていた。そして三浦の思惑通り、どこでも手放しで賞賛される「金尾誠一郎」は、一躍マスコミの寵児となった。
雑誌創刊以来、至上最高の売上部数を更新し続ける原動力となった連載記事に一つ区切りが付くと、三浦はすぐさま、ノンフィクション「午後一時五十二分、そのとき」を上梓した。
これは版を重ねてベストセラーになりはしたが、とあるプロデューサーのもとに持ち込んだ映画化のもくろみに関しては、事件そのものがあまりにショッキングすぎたために国民にあと十年の精神的治癒が必要との判断が下され、諦めざるを得なかった。ただ、商業主義的な映画は駄目でも、これを原案とした生真面目なドキュメンタリーや特別番組は何度も制作され、テレビの視聴率を稼いだ。いずれにせよ、結果的に三浦と誠一郎の懐は潤うことになった。
事件から一年近くも経った頃には、惨事の記憶は人々の脳裏から薄れてしまっていた。そんな頃合いを見計らったかのように、金尾誠一郎の自伝的事件回顧録「勇気をふりしぼること」が出版される。
さっき中年女が誠一郎にサインをねだろうとしていた本がまさにこれだった。だが実はこの本は、三浦と誠一郎とで印税を折半するという約束のもとに、一から十まで三浦が書いたものだった。
三浦は、この半ば自己啓発本めいた本の出版を、事件からちょうど一年という折りにぶつけた。それに便乗するかのように、三浦の週刊誌のみならず、ライバル誌たちも再び事件に焦点を当てるためのキャンペーンを打ちあげ、世間の関心を再び――忌まわしくもまざまざと――あの事件に呼び戻した。それでもまた、三浦と金尾誠一郎の懐が潤ったことは言うまでもない。
恩着せがましくするのは三浦としても望んでいないことだが、やはり釘を刺しておかねばなるまい。
「いったい誰のおかげで――」
そう言いかけたとき、誠一郎は鼻を吹いて笑った。そして一杯五百円のコーヒーをあっさり飲み干すなり、にやにやしはじめた。
「あれほどの落ちようは、さすがに三浦さんも予想してなかったんじゃないですか」
「まあな。あんな事件でも、たった一年で風化しちまう」
三浦はすんなり認めた。
誠一郎の言うとおり、本の売れ行きは発売から二ヶ月で下降線をたどりはじめ、もう一年以上も底這いが続いている。
「あの場にいなかった人たちにとっては『喉元過ぎれば』ですから」
「時間の問題だけじゃない。いまどきの世間てのは一億総痴呆老人みたいなもんだ。さっき食ったメシのことも憶えてねえ。大昔やった戦争のことでいつまでもウジウジしてるくせに、ついこないだ起きたばかりの殺しはもう忘れちまう」
「なんでもそうですけど、引きずりゃいいってもんじゃない」
誠一郎は他人事のように言ったが、だからこそ三浦は引き下がれなかった。
「再三、言ってきたことだが、君はあの日、あの瞬間、この国の人々が則るべき一つの規範を示したんだ。勇気を持て、悪に立ち向かえ、闘って正義を勝ち取れ。あの頃、俺たちが腰をあげてなかったら、すぐに何もなかったことになっちまってた。この国の人間なら誰でも、あの事件は他人事でいちゃいけねえはずなんだ。次に同じことが起こったときに、そこにまた君がいるとは限らないからな」
誠一郎は関心なさそうにそっぽを向いた。三浦は諦めなかった。
「あの現場のど真ん中で、唯一、君だけがあの悪に立ち向かっていった。それをかんたんに忘れられていいのかよ?」
三浦は身を乗り出して誠一郎の肩をつかんでゆすった。だが、誠一郎は三浦の手を払いのけた。
「風向きはとっくに変わってますよ――いや、変わったどころじゃない。ちょっと前の番組、見ましたよ。三浦さん、かわいそうなくらい風当たりがキツそうでしたね」
誠一郎は冷ややかに三浦を見つめて言った。
三浦はある報道番組にゲストコメンテーターとして呼ばれたのだが、その実、役回りは噛ませ犬に他ならなかった。
三浦の渋面を面白がってか、誠一郎はにやにやしながら続けた。
「『ヒーローブームの終焉、そしてその遺産』でしたっけ? 善良な勇気による正義はとっくに死に絶え、いま残っているのは日頃の鬱憤のはけ口としてのカギ括弧つきの『ヒーロー』ばかり。三浦さんは独りで必死に擁護してたけど、みんな半笑いだったじゃないですか。番組の最後の方なんて、疲れ切った顔が目に付きましたよ」
そのテレビ番組の後、三浦も他誌の後追いではあったが、「濫立する英雄の後継者たち」と題して三週ほど記事を書いたことがある。しかしそこでは、そもそものブームの火付け役である三浦としては、世論に乗じてカギ括弧つきの『ヒーロー』に対して真っ向批判の立場を取ることは当然できず、かといって『ヒーロー』たちを毅然と擁護することもなかった。結局どっちつかずの論調に、『ヒーロー』から揶揄めいた括弧をはずせるだけの力はなく、三浦の記事への反響こそあれ、三浦の論理に同調的、肯定的な意見の少なさに忸怩たる思いがあった。
当初は、金尾誠一郎をダシに三浦が生みだしたヒーローブームは、たしかに無関心社会に一石を投じた。人々は身近にはびこる悪事に、これまでのように見て見ぬふりをせず、我こそが正義と、勇気をふりしぼって敢然と立ち向かうようになったのは紛れもない事実なのである。
しかしその実、それは、電車内においては携帯電話の使用やはた迷惑な飲食、優先席を譲らないなど、他では路上喫煙、受動喫煙、吸い殻のポイ捨て、はたまた公道での運転マナーなど、あらゆる場所でのあらゆる些末な反道徳的行為に対する過敏な反応となって顕れることがほとんどだった。
それで社会が、人々が、全体としてより正しい道へと歩き出したのかというと、ほとんどの場合においてはそうはならなかった。むしろ、人々がカギ括弧つきの『勇気』をふりしぼった数だけ、余計な諍いや暴行事件が生みだされただけだった。
正当防衛が成り立つ場面というのは、人々が考えるほどに多くはない。たとえば、喧嘩の仲裁に入った際に正義と信じて振りかざした拳は、ほとんどの場合、過剰防衛と見なされ、逆に暴行や傷害の罪に問われるといったことが多々あった。
法治国家のこの国は、いくら正義のためとはいえ、暴力には否定的なのである。「金尾誠一郎」のようなパターンは滅多に起きるものではなかった。
もちろん、ヒーローブームのおかげで未然に犯罪を防ぐといったことがまったくなかったわけではない。事実、「金尾誠一郎」に続く、第二、第三のヒーローが生まれた事象もあるにはあったのだ。
だからこそ、三浦はまだ諦め切れなかった。
事件から一年後、まだ世間に真面目に受け入れられるはずと確信をもって書きしたためられた「勇気をふりしぼること」が出版され、その中で元祖ヒーローである「金尾誠一郎」のまさにそのときの心情が、今度は当の本人の視点で淡々と語られた。
発売当初の売り上げが示したように、やはり人々は類いまれな現代の英雄譚に興味を失ってしまったわけではなかった。ヒーローブームは、一度は熱狂どこへやらと下火になりはしたが、このとき、三浦の思惑通り、再び持ち直したかに見えた。
ただ、その第二のブームも、やはり三浦が望んだようには――社会全体を成長させるまでには至らなかった。結局のところ、たとえその勇気ある行動が正義の信念の下で為されたものであったとしても、必然的にあらたな被害者を生みだしてしまう暴力は、やはり人々には、この社会には受け入れられなかったのである。
三浦たちにとって幸いだったのは、冷ややかな『ヒーロー』批判のために、誠一郎が起こした行動や彼自身の存在そのものが否定されたわけではなかったことで、誠一郎は依然として、「表向きだけは」人々の賞賛を浴びることができていた。
「表向きだけは」というのには理由がある。それは、この「勇気をふりしぼること」によって英雄の生の声が語られたことに端を発していた。
ブーム再燃の際、金尾誠一郎本人の心情の吐露が最初のときほど熱っぽくならなかった人々の冷めた見方にさらされたとき、これまで「英雄」の分厚いマントの下に隠れていた彼の真実の姿に、みなが薄々気付きはじめたのである。
ただ、それもまた計算された三浦の戦略ではあった。
「完璧な英雄」路線は、彼の後に続いた『ヒーロー』たちの振る舞いのためにいくぶんか薄汚れてしまっていた。ならばと、三浦が打った次の手は、より人間味のある『苦悩するヒーロー』である。そしてそれこそが、実は本当に真実に近いのだ。
とはいえ、英雄の苦悩の吐露といっても、実質的な書き手である三浦によって、そのかなりの部分がやんわりとバランス良く脚色されていた。当の本人の心情そのままを描写したのでは、彼はもはや全人類が誇るべき英雄などではいられなくなるからだ。
しかし世の移ろいは儚く、英雄に向けられた賛美と憐憫は、どちらもこのところ無情にも薄れつつある。ときおり誰かに思い出されることがあっても、さっきのパチンコ店での出来事のように、無神経な好奇の目に弄ばれるのがオチだった。
そこで三浦が考えているさらなる一手は、もう二歩も三歩も踏み込んだものだった。
「事件から三年が経つ――そこに第三弾を打つつもりだ」
運ばれてきた一番安いコーヒーをすすると、三浦は切り出した。
「まだ稼ぎ足りないんですか。まだ懲りてないんですか」
三浦は、まあ聞けよと誠一郎の皮肉を軽くいなした。
「対談をセッティングしてある」
「対談?」
「江口和也の両親とだ」
誠一郎の顔が一瞬のうちに紅潮した。三浦はすぐに補足した。
「ギャラにはちゃんとイロをつける。本になったらまた印税は――」
「一体、何を話すことがあるんですか!」
「向こうは承知だ。あとは君がウンというだけだ」
「だって俺は――俺は――」
動揺する誠一郎に、三浦は事件直後の彼の反応を思い出した。
誠一郎の頭には、自分が惨劇を止めた英雄だという認識は一切無かった。ただその手に、一人の人間を刺し殺したときの感触だけが残っていただけだという。
当時、三浦はあえて誠一郎のそんな受け止め方を否定しなかった。ただ、結果は決して消し去れないことをわからせると同時に、あの瞬間、あの現場にいた誰もが誰かの勇気を求め、その求めに唯一応じたのが誠一郎ただ一人であること、そして、後にあの事件を知ることになるこの世の誰もが、そんな彼の勇気を手放しで讃えるだろうということをどうにかのみこませようとした。そうした説得を経て、誠一郎はようやく自分が英雄となることを受け入れたのである。
「深呼吸しろ――大丈夫だ、落ち着くんだ」
いまもまた、誠一郎には言葉を尽くした説得が必要だった。
「君はあのとき、たしかに一人の人間を殺した。それは事実だ。だが、その行為は、法的には正当防衛が認められ、世間的には英雄的行為として認められて――」
「人をひとり殺した。僕にはそれだけだ」
「ちがう」
三浦は遮った。
「君は体を張ってあの惨劇を止めたんだ。誰にも成し遂げられなかったことだ。君が止めてなかったら、あとどれほどの人たちが江口和也の餌食にされていたか。君はホンモノのヒーローなんだ」
「じゃあどうして僕はいまこんなところで、働きもせず、人並みの生活もできずにこんなことをしてるんです?」
誠一郎の目が三浦をひたと見つめた。
いままでにない目つきだった。洗脳はもう解けてしまったということだろうか。三浦の目をのぞきこんでいた誠一郎は不意に失望したように力を無くし、彼は頭を抱えこんだ。
「今日ここへ来る前に、君のご両親にも会ってきた――相変わらずだな、あの人たちは。だけど、俺はどうだ? 連中と同じ目で君を見てるか?」
誠一郎はちらと顔を上げたが、苦笑いを返しただけだった。三浦はふんと鼻を鳴らした。
「そりゃま、俺は下劣な週刊誌の下劣な記者にすぎない。ドブ攫いして金目のモンを拾い集めてるような人間だ。君の敬虔な信者になろうなんて柄じゃないしな。だからって、君を崇め奉りながら腹の底で『この人殺しが』なんて考えてる連中とは絶対ちがう――おい、俺の目をよく見てくれよ」
三浦は身を乗り出して迫った。だが、誠一郎は顔を背けた。
「君は英雄だ。ヒーローだ。ヒーローは悪人を懲らしめるもんだ。ともすれば――」
自分の声がいつの間にか高くなっていることにはたと気付いて、三浦は声を潜めた。
「ともすれば、悪い奴を殺さなくちゃならんときだってある。君はやるべき事をやったまでだ」
「だけど、僕は現に人を殺したんです! この手で! 僕は本当はそんな人間じゃないのに――」
誠一郎はテーブルの下から右手を出した。手首から爪の先まで小刻みに震えていた。
「いつだって思い出せるんです。あのとき――切っ先から根元まで、骨をゴリッとかすめながら肉に刺さっていく――」
「やめろ」
三浦は誠一郎の手首をきつくつかんだ。
「この手は英雄の手だ。英雄が何を恐れる? 君は俺の本を何べん読んだ? あの『金尾誠一郎』こそが、君の本当の姿なんだ」
誠一郎は三浦の手をふりほどいた。三浦はいい加減呆れてきた。
「いまさら何を言い出すんだ。あの『金尾誠一郎』の中に、君は自分のあるべき姿を見出そうとしてたじゃないか。あの通りのヒーローでありたいと君は願ったんだろう? そして君は見つけた、ちがうか? 君は、やっと救われたって顔をしてた。いまや君は、あの『金尾誠一郎』そのものなんだ」
「あんなの――全部ウソっぱちだ」
「だったら、ヒーローをやめてみるか? あの本を否定するんだよ。どうもすみません、あれは嘘の塊でしたって」
「いまさらそんなことが――」
「できるさ。記者会見でもなんでも開いてやるよ。土下座の一つでもすりゃいいんじゃねえか? それで君は普通の人間に戻れるんだ――ま、普通の人殺しにだけどな」
三浦が愉快そうに笑うと、誠一郎の顔は途端に険しくなった。
「いいか、ヒーローであることをやめたらただの人殺しだぞ。いや、もうすでに、いまの君の姿はただの人殺しにしかみえないぜ」
三浦は誠一郎をじっと見据えた。
「そんなもんでは片付けられないな。君はその手で人を一人殺しているのに、何の罪にも問われていないんだから。司法のお墨付きをもらっちゃいるが、事実上、殺人者が野放しにされてるってわけだ。その上、君は自分が紛れもない人殺しであることを平気で、淡々とマスコミの前で語っちまってる。何度も何度も、繰り返しな」
「だってそれは、三浦さんがやれと言ったから――」
「相手がいくら最悪の殺人鬼だからって、その殺人鬼と同じ手口で、君はあいつを殺したんだ。バカでかいナイフで心臓をグサリ――そりゃ、実の親もドン引きするぜ」
「あんたは一体――」
「実際のところ、君は苦しんでる。そうだろう? だからこそいままた、俺は君を助けたいと思ってる。君が求める『普通の人生』――罪を贖った後にたしかに続くまっとうな人生を、俺は取り戻してやりたいんだ」
誠一郎の疑念を、そんなおためごかしの言葉でぬぐい去れるとは三浦は思わなかったが、案外うまくいったかもしれなかった。
「あの男の親と会う意味なんてあるんですか」
誠一郎が訊いてきた。三浦は内心ほくそ笑みながら即答した。
「あるさ、そりゃ。何よりも効果的だ。というのはな、世間じゃな、やっぱり人殺しという行為そのものを罪と考える短絡的な連中が少なくないんだ。法で裁かれなかったからって関係ない。『金尾誠一郎は英雄だ――でも、人を一人殺してる』ってな。君を受け入れられない連中はその一点だけが引っかかってる。君を怖がってるんだ。君の両親も含めてな。君は人間の心情的には許されていないんだ――理由は一点、罪を償っていないからだ」
「つまり、会って謝れってことですか、殺人鬼を育てた親に」
「無論、彼らに同情的な意見はそう多くない。君の言うとおり、育て方を責める向きもある。だが世間では、彼らに責任を負わせてはいない見方もあるにはある。親の身としては子がどう育ったかは他人事じゃないからな。育て方と育ち方は必ずしも同じじゃない。明日は我が身かもしれないってな」
「だからって僕が謝ったところで何が変わるっていうんです?」
「世間は単純な天秤仕掛けだ。江口和也の両親と、その息子を殺した君と、どちらの罪が重いか。法的にじゃない、倫理的にだ。それも世間の――とてつもなく感情的で短絡的な、ごくごく知的レベルの低い人間どもがはびこるこの世において、結果的に人殺しを生み、育てはしたが、それまで真面目一徹にコツコツ生きてきた両親と、現にサバイバルナイフでひとり人を殺している君と、どちらが震えるほど恐ろしい存在だと思う?」
誠一郎の恨めしげな視線を三浦は真正面から見返した。
「君は江口和也の両親に許しを請うんだ。効果は絶大だぜ。世間の連中は、君にはやっぱり人の心が通っていて、これまでずっと罪悪感に苛まれてきた悲劇のヒーローだったんだってことにやっと気付く。そして、許すんだ。心から許してくれるんだ。そして認めてくれる、受け入れてくれる――リアルヒーロー『金尾誠一郎』はこの世に存在していいんだってことを!」
(一生カギカッコ付きの人生ではあるがな)
三浦は自分の言葉に悦に入って、急にうまい煙草が吸いたくなった。それで素早い動作で煙草に火をつけたが、すぐに禁煙席だと思い出し、急いで二吸いしてから高級コーヒーに突っ込んだ。
「これが第三弾の趣旨だ。世間はびっくりするぜ」
「雑誌も本も売れて、僕らの懐はさぞ潤うんでしょうね」
「否定はしない」
「ばかばかしい!」
誠一郎はいきなり声を荒げた。
「あんたに踊らされるのはもううんざりだ。それに、謝れって? ふざけたことを! どの面下げて謝れって言うんだ!」
「どの面でも構わんさ。頭下げて『ごめんなさい』。簡単だろ? なんなら、向こうの顔なんか見なくたっていいんだ」
「あんたは、僕の気持ちなんかまるでわかっちゃいない」
誠一郎はわななく手で財布から千円札を抜き取ると、テーブルに叩きつけた。三浦は身を乗り出してその誠一郎の腕をつかんだ。
「いつまでも人殺しの罪悪感を背負い込んで生きたいのか? それが君が理想とする人生か? いや、それも人生か」
「もう構わないでくれ!」
「そうかい。俺と決別するのもいいだろう。ただ、俺は俺で勝手にやらせてもらう。実はそんなこともあろうかと、別に考えてたキャンペーンがあるんだ。そいつを威勢よくぶちあげたっていいんだぜ」
三浦はにやりとして続けた。
「見出しはこうだ――『墜ちた英雄』――いや、もっとズバッと『ヒーローの皮を被った殺人鬼』ってのはどうだ?」
声が大きかったようだ。店中の視線が三浦たちに集まった。
「そんなことしてみろ――」
「訴えるか? いいぜ、それはそれでネタになるしな」
誠一郎は顔を真っ赤にして歯を剥いた。それを見て三浦は思わず吹きだした。そしてすぐに声を落として誠一郎にすごんだ。
「君は俺から逃げられやしないんだ」
三浦は腕を離してやった。誠一郎は顔を伏せ、店員や客の視線を避けるように店を出て行こうとした。三浦はその背に、
「君は今度こそ真のヒーローになれるんだぞ、金尾誠一郎!」
と声をかけた――わざとらしく大声で。
4
あの日歩き疲れて腰掛けたガードレールは、いまや八月終わりのこの暑気に熱せられて尻が焼けるようだった。
そこから見える光景は、行き交う人々の服装や吸い込む空気の温度こそちがってはいるが、誠一郎には、いまもあの日もさほど変わりなかった。誰もが幸福そうで、自分ひとりがやはり孤独だった。
あの日、誠一郎は、はじまりからのおよそ三分間をただ呆然と、ここに座って見ていただけだった。
いくら記憶をさらってみても、血溜まりの記憶だけは鮮明なのに、その血を流した人々の顔や名前は、いまとなっては三浦の本の中での仮名でしか思い出せない。
他の誰もが忘れてしまっても、自分だけは記憶しておかなければという思いに、ほとんど強迫的に駆られていたときもあった。なぜなら、彼らはこの自分の三分間の傍観がもたらした犠牲者だからだ。自分は彼らの死に責任があったからだ。だが、いつまでもそうしていることは重荷過ぎた。だから誠一郎は、薄情と誹られることを承知でその荷をどこかに捨ててきた。
そのことでいまさら噴き出してくる自分への憤りを、そっくりそのまま江口和也にこそ負わせるべきだと矛先を向けてみるが、その男はもうこの世にはいない。死んだ人間にはもはや罪を償わせることはできない。しかも江口和也をこの世から抹殺したのはこの自分だ。この自分こそが、江口和也を贖罪の苦悩から解放し、肩代わりしてやっているも同然なのだった。
では、終始傍観していた者たちはどうか。事件の一部始終をビデオやスマートフォンで撮影できる距離にいながら、何もしなかった連中のことだ。あの惨劇はそういう者どもにとって見世物だったとでもいうのか。事件が起きた瞬間から、三浦のようなマスコミにその映像が高く売れると金儲けを企んでいた者だっていたかもしれない。そんな輩があの日、ここに、どれだけいただろうか。なぜ、あの惨劇を止めようという者が自分より先に現れなかったのだろうか。あれだけ多くの人間が、ここに居合わせたというのに!
誠一郎の怒りは、しかしやはり自分に返ってきた。自分もまた、はじめの三分間は傍観者だった。その事実は消せない。あの三分間で何人が死んだのか。そして、その三分間の最後の数秒間の躊躇のせいで、自分はあの路地にいたあの女子学生を救えなかったのだ。
誠一郎はガードレールを離れ、その路地へと歩いていった。
あのとき誠一郎は、血に濡れた赤黒い刀身のナイフと拳二つ分はあろうかというハンマーを振り回した狂人を追いかけ、無我夢中で駆けだした。あの瞬間、確かだと思えたことは、さっきまでの三分間の恐怖が路地を曲がった先にもまちがいなくあるということだった。それでも走り出すことができたのは、たんにその恐怖を真に実感できていなかっただけなのかもしれない。ただ、路地までの数秒間のうちに、恐怖は一足ごとに具体化しはじめた。鮮血の色と臭いと狂気の熱を纏ったイメージが誠一郎を襲った。しかし路地の入口に達する頃には、恐れや怯え以上に、なにか得体の知れない強迫観念が、誠一郎を後ろから急き立てていた。
誠一郎に、立ち止まることはもう許されなかった。思い返してみると、あれは人であることの最後の一線だったにちがいない。走ることをやめ、背を向けたら最後、自分は再び無用の人間になる。だが、誠一郎はまだ誰かに必要とされたかった。走り続けられたのはその一点の思いのためだった。
あの日、そこはビルの影の中にあった。いまの時間では西日の照り返しが眩しく、目を細めずにはいられない。逆光の中に、ビルの壁に寄りかかる枯れた花束が見えた。そこに、江口和也に飛びかかっていく自分の後ろ姿も見えた気がした。
ハンマーを振り上げた左腕と、赤いナイフの右腕に絡みつき、飛びかかった勢いのまま誠一郎は江口和也を押し倒そうとした。
だが、もつれあって地面に倒れ込んだ直後、誠一郎は自分の非力さを思い知った。心臓はそのときすでに爆発しかかり、呼吸は詰まって何も吸い込めなくなっていた。
江口和也は暴れた。力ははるかに狂人の方が勝っていた。数秒もしたらふりほどかれるにちがいなかった。そのときすぐそばに横たわっている女子大生の顔が視界に入った。
その顔の左側はすべて潰れていた。眼球だけがそこから逃げだそうとしていた。
誠一郎はおののいた。そのとき、抱きかかえていた江口和也の腕がぬるりとしたかと思うと、急に目の前からなくなった。
江口和也は自由になったその腕を地面に転がっているハンマーの方に目一杯伸ばして、しがみつく誠一郎ごと這いずっていった。誠一郎はずるずると引きずられながら、そのハンマーで次に顔を潰されるのは自分だと確信した。
そのとき、誠一郎はついに恐怖に押しつぶされた。江口和也の縛めを解き、背を向けて逃げ出したのである。
ただ、その先にサバイバルナイフが落ちていた。それでも、それを手にして戦うつもりなどなかった。逃げようと顔を向けた先にそれがあっただけなのだ。
だが、気付けばナイフは自分の手の中にあった。その赤く濡れた刃を見たのは一瞬だけで、それはすぐに江口和也の脇腹へと埋もれていった。
刃が布を切り裂き、ぬめる肉を滑り、骨を擦る。刃の背のセレーションが布を荒々しく破き、肉をぶつりぶつりと引き千切り、骨をごりごりと削る――それらの感触を右手は同時に感覚していた。
ナイフを手にする一瞬前は逃げようとしていた。一瞬後には踏みとどまっていた。江口和也がそれっきり動かなくなってからは、ただ「ああ、これで終わった」と思っただけだった。
西日が傾ぎ、路地はビルの影にのまれつつあった。逆光の中に見えていた、返り血を浴び、あえぎながらうずくまっている自分の姿も、女子大生の無残な亡骸も、江口和也のカッと目を見開いた最期の姿も、赤黒く濡れたアスファルトも、陰りとともに薄れていった。
ああするしかなかった。誰だってわかってくれる。でなければ、自分も殺されていた。そしてさらに多くの人が殺されていたはずだ――そのとき、誠一郎ははっとした。
その考えは三浦に植え付けられた理屈ではないのか。本当にああするしかなかったのか。本当に、あの男を殺すしかなかったのか。自分は人殺しをしなくてはならなかったのか。あのとき、自分は誰から必要とされていた? 俺は、余計なことをしでかしたんじゃないか? 本当に自分がやる必要があったのか?
正当防衛は認められた。起訴すらされなかったということは、司法の目から見ても過剰防衛とは判断されなかったということだ。だが、警察官の大半は冷ややかな目をしていた。中にはこっそりと熱い眼差しで誠一郎に頷いてみせる者もいたが、感謝や賞賛を口にする者は皆無だった。感謝状だってくれやしない。その理由はわかっている。自分がしたことは人殺しだからだ。
三浦によって、誠一郎は英雄に祭り上げられた。しかし、誠一郎は自分のしたことをわかっている。人を殺すことは褒められたものではないし、褒められるべきでもない。しかし、だからこそ誠一郎は三浦の思惑に乗ったのだ。自分が英雄扱いされれば、殺人者たる自分に対する世間からの印象も薄まると信じたからだ。
はじめ、誠一郎をよく知らない者たちは彼が人殺しであることにはあまり構うことなく、勇気を奮って行動を起こしたことに対してのみ目を向け、手放しで褒め称えた。だが、身近な者たち――親兄弟、親戚、上司、同僚、友人たち――は彼と距離を遠ざけこそすれ、近寄ってくることはなかった。そんな人々の眼差しは共通していた。
恐れだ。
彼らはそれを表情の下に隠すことができないでいた。
人殺しは罪だ。三浦の言うとおり、状況が許しても、法が許しても、人は許さない。
誠一郎は交差点に戻って、あの日、ガードレールに座って、頭を抱えてうちひしがれていた男の姿を見つめた。
哀れな姿だった。
その残像に重なるように、誠一郎はガードレールにもたれかかった。英雄的行為の前も、そしていまも、彼は変わらず孤独だった。不要な人間であることに変わりはなかった。
誰かに必要とされたかった。誰かに愛されたかった。誰でもいい、誰でもいいから、この俺を、どうか許してください――。
誠一郎は藁にもすがる思いで、三浦の番号をダイヤルした。
5
三浦と誠一郎を乗せたタクシーは、小山のように盛り上がった人垣に阻まれてやむなく停まった。そこでは、高く据えられた四台のテレビカメラの砲列が、一軒の家に向けられていた。
その一つが不意にタクシーの方に向けられると、他の三台も一斉に同調した。マスコミが待ち構えていることを、三浦は誠一郎に話していなかった。
「いまはまだ何も喋らなくていいからな。あとでだ」
誠一郎の抗議の眼差しを見ぬふりをしてそう言ったが、ここで誠一郎にすねられてはあとがまずいと思って言い添えた。
「君にとっても、こうしたほうが手っ取り早いと思ってな。今日の夕方には、君はもう十字架を下ろせているよ」
「至れり尽くせりですね」
誠一郎はそう皮肉ると、さっさとタクシーを降りてしまった。慌てた三浦はタクシーにこのまま待つように言い置くと、誠一郎に急いで追いつき、リポーターやカメラマンたちに囲まれた誠一郎の露払いをしながら人垣をかき分けて進んだ。
道路端ぎりぎりに見目鮮やかな色彩の軒を連ねる新築狭小住宅の合間に、他より二十年は古びたモルタル造りの建屋が何軒も紛れ込んでいる。それらのどれもが建屋正面の幅いっぱいのシャッターを下ろしていて、その煤け具合からして長らくシャッターを開け放つ機会がなかったことがうかがえる。
かつてこの通りが、ささやかながら夕方にもなれば買い物客で賑わう目抜き通りだったのだと思い至ったのは、そういった店舗兼住居の建屋が数え上げればまだ五、六軒も残っているような商店街の名残に気付けばこそだった。
江口家もそのうちの一つだった。巻き取られて久しいビニール製のテントは黒ずんでひび割れ、その上に掲げられた「江口商店」のトタンの看板は塗装が剥げて隅から錆に侵されつつある。その一方で、シャッターだけは他のとはちがって、部分的に塗られたペンキがまだ真新しくつやつやとしていた。
ペンキは落書きを塗りつぶすためのものだった。
そこにどんな言葉が書かれていたかはペンキの上からも一目瞭然だった。ついさっきまで、テレビカメラの砲列は、その覆い隠された近隣住民の殺気を映し出そうとしていたのかもしれなかった。
建屋の横に細い通路があるのを見つけると、玄関は裏手だろうと見当を付け、三浦は誠一郎を通路へと促した。
女性リポーターが二人についてこようとしたが、三浦はそれを押し止めた。三浦の目配せに彼女は小さくうなずき返すと、素直に引き下がった。対談後の最初の質問の栄誉を彼女に与えることが、三浦と彼女の間ですでに決まっている。この貸しをどういった形で返してもらうかを考えるのは、三浦の今後の楽しみの一つでもあった。
苔でぬるつく石畳を注意深く踏みしめながら裏手に回ると、ほとんど勝手口といってよい粗末な玄関の前で江口俊雄が待っていた。
塀のすぐ向こうに建つ隣家が覆い被さるように迫っていて、薄暗くじめじめしていた。江口俊雄が深々と頭を下げると、もうその顔は影の中となった。彼は顔を上げると、三浦たちを家に上げた。
玄関入ってすぐの狭い台所で、美和子は急須に湯を注ぎながら二人に椅子を勧めた。椅子四脚とテーブルで台所のほとんどを占めている。油とヤニまみれの冷房が音を立てて効いていたが、ときおり背後のガラスの引き戸越しに、閉め切りの店舗スペースから伝わってくる熱気をぬるりと感じた。
「線香をあげさせてもらえませんか」
唐突に誠一郎が沈黙を破ると、美和子は驚いた顔をあげた。家に充満する線香の匂いが誠一郎にそう思い立たせたのだろうと三浦は思った。俊雄は「どうぞ、こちらです」と階段を先に上がり、二人もはしごのように急な段を一段ずつ這うように上がっていった。
二階は短い廊下を挟んで二間あり、俊雄はその北側の襖を開けて入っていった。
吊り下げの蛍光灯が点ると、四畳半の部屋は箪笥や本棚、小さな学習机でいっそう狭く感じられたが、雨戸を閉め切った窓の下だけは広く開けられていて、そこには折りたたみ足の小さなテーブルが置かれていた。
そのテーブルには、塗りの位牌と香炉と蝋燭立て、それに桐の骨箱があった。伏せてある小さな写真立ては遺影かもしれない。江口俊雄は短い蝋燭に火を灯すと、三浦たちと入れ替わるようにして後ずさって廊下に出た。
誠一郎は突っ立ったまま、慎ましい仏壇を見下ろしていた。三浦はそれならお先にと、膝をついて仏壇ににじりよった。
蝋燭の火を線香に移すと、小さく振って炎を消した。それを香炉に立てると、ふと思い立って写真立てを起こした。
それはやはり江口和也の遺影だった。それは中学校の卒業アルバムのもののようで、和也はどこにでもいそうなニキビ面の青年で、まだどこか少年の頃を思わせるような、愛くるしいくしゃくしゃにした笑顔を満面に湛えていた。ニュースや新聞、雑誌の記事などで知られる江口和也の成人後の顔写真からでは、その青年との繋がりを見つけるのは難しいだろう。哀れにも、両親は遺影にふさわしい息子の笑顔を求めて、彼が中学生だった頃まで遡らなくてはならなかったわけである。
(人生最後の笑顔ってやつか)
江口和也から笑顔が消えた。彼の生活環境はその後、はからずも次第に変わっていったのだろう。その変化の中に、和也があの事件を引き起こした原因があるのかもしれない。ともかくこの遺影のことはぜひとも記事にしなければと、三浦は胸の内でほくそ笑んだ。
十分に時間をおき、線香がよく燃え進んでいるのを見届けると、三浦は膝でにじって下がり、誠一郎に場所を譲ろうと振り返った。
誠一郎の顔は真っ赤に火照り、頬が震えるほどきつく奥歯を噛み締めていた。そして、いきなり崩れ落ちるように膝をつくと、突っ伏すように畳にうずくまった。
罪悪感に苛まれているにちがいない――今回の企画には絶好の演出だ――と三浦は思った。誠一郎のこの悔恨を俊雄はどう見ているだろうか。三浦はニコンの入っているカメラバッグを手元に引き寄せた。
そのとき、誠一郎が何か短い一言を呻くようにつぶやいた。三浦は聞き取れなかった。誠一郎はもう一度――今度ははっきりとした言葉をふりしぼった。
「くそが――」
三浦の胸の内が瞬時に粟立った。
「あのときもこうして笑ってやがったんだ」
誠一郎は吐き捨てるように言った。そしてゆっくりと顔を上げると、白目の隅まで血走らせた目で江口和也の遺影を見下ろした。
「この顔だ――こんなふうにニタニタしながら、俺の頭に、あのバカでかいハンマーを振り下ろそうとしたんだ」
こんなときに冗談はよせよ、と三浦が言いかけたとき、誠一郎はいきなり遺影をテーブルから払い落とした。額縁のガラスが机に当たって砕けた。
「おい、何を――」
三浦は背後に俊雄がいることを思い出して振り返った。俊雄の表情は青白く凍り付いていた。その目がかっと見開いた。刹那、背後で何かが激しく砕ける音がした。
畳一面に、割れた骨箱と骨壺と、そして一つの頭蓋骨が、無数の骨片と白い粉の中に転がっていた。
「何度だって殺してやるよ、このくそやろうが!」
そう叫びながら、誠一郎は江口和也の頭骨に拳を振り下ろした。そして何度も拳を振り上げ、渾身の力で振り下ろし、粉々になるまで叩き割った。拳を振り下ろす度に、畳の上で跳ね踊る粉々の白い骨片が誠一郎の血で赤々と染まっていった。
誠一郎は不意に振り上げた拳を止めた。そして拳の傷をいたわるように刺さった骨片を一つ一つ引き抜き、無造作に放り捨てていった。それが済むと、誠一郎は唖然としている三浦と俊雄を押しのけ、階段を降りて、玄関を出て行った。
入れ替わりに階段を駆け上がってきた美和子は、部屋の有様を見て息をのみ、そして悲鳴を上げた。三浦はその場から逃げるように誠一郎の後を追って家を飛び出した。
誠一郎はすでに無数のフラッシュとマイクに囲まれていた。顔馴染みの女レポーターが誠一郎にマイクを突き出してきたが、三浦はそれを乱暴に払いのけた。
「会見はしない、ノーコメントだ! ここを通してくれ!」
騒然とする中でも、家の中から突如上がった絶叫は三浦の耳にも届いた。だが、三浦にはその叫び声を気に掛ける余裕はなかった。誠一郎の肩を抱え込むようにして、もう片方の腕で人の壁を突き崩し、かきわけながら、待たせてあるタクシーの方へと向かおうとした。だが、何度も押し戻されて思うように進めずにいた。
そのとき、激しく音を立ててシャッターが開いた。
出てきたのは江口俊雄だった。すぐ近くにいたカメラマンがわっと声を上げて飛びのいた。
俊雄の手には、赤く濡れた包丁があった。俊雄は三浦と誠一郎に無造作に歩み寄ると、その包丁を真っ直ぐ下から上へ――誠一郎の脇腹へと突き上げた。
触れ合うほど近くで俊雄と誠一郎の視線が激しく絡み合った。ただそれは、三浦にはあまりに一方的に見えた。
数瞬の間ののち、包丁が引き抜かれ――誠一郎の体は三浦の腕からすりぬけ、ぼたりと地面になだれ落ちた。
俊雄は見る間に広がる血溜まりの中に、膝をついた。
三浦ははっとして、開いたシャッターから家の中へ駆け込んだ。
暗い店先を走り抜けて奥の台所へ飛び込むと、その床には喉元を赤く染めて絶命している美和子がいた。
6
江口俊雄は入ってくるなりほっとした顔をして、袖口で額に滲んだ汗を拭った。
面会室は残暑とは無縁で、すえた臭いのする冷気が静かに動いていた。それは仕切りガラスの向こうでも同じようだった。三浦は立ち上がって俊雄を迎えた。俊雄は照れたような笑みを一瞬浮かべたが、すぐにかしこまって頭を下げた。
「どうぞ、座りましょうか」
三浦が勧めると、俊雄は表情を緩めて椅子に座った。
「わざわざお越しいただき、本当にありがとうございます」
「こちらこそ、私のことを思い出してくださるとは思ってもみませんでした」
そう三浦が言うと、俊雄は歯をのぞかせて笑った。三浦は彼の屈託のないすっきりした表情に、やはり後ろめたさを感じた。
江口美和子が自ら包丁で喉を突き、その包丁で俊雄が金尾誠一郎を刺殺してから、今日でちょうど三年が経つ。事件直後から三浦は、誠一郎と江口夫妻を引き合わせ、事件のきっかけをつくった張本人ということで批判を浴び、責任を追及された。
他社の記者たちの侮蔑の目と言葉でいたぶられながらも、しかし三浦は江口俊雄の裁判を結審まで傍聴人席で見届けた。
金尾誠一郎殺害の罪に問われた江口俊雄は、犯行の動機は、終始一貫して息子の遺骨を冒涜されたことにカッとなり、また直後に起きた妻の突然の自裁にも動揺し、衝動的に誠一郎を刺してしまったのだと、淡々と語った。ただ、その落ち着き払った語り口調のために、まるで自分ではない誰かの意思が犯した罪だったのだと言わんばかりのように、三浦の耳に――おそらく誰の耳にも――そう聞こえたのは印象的だった。
とはいえ、開き直るという態度でもなく、そんな野蛮な行為を犯すに至った己の未熟さをもまた――しかし、同じくらい温度を感じられない熱意をもって――蕩々と反省の弁を述べる姿もまた、各マスコミの報道では特筆すべき印象として伝えられた。
センセーショナルな事件ではあったが、被告人自らの言葉で、誰の髪の毛一本ほども憶測を差し挟む余地のないほどにすべてを語り尽くしたように受け止められたためか、三浦が予想した以上に、世間の記憶に留まる時間は長くはなかった。
だが三浦は、江口俊雄が己の心情のすべてをさらけだしたとはとても思えなかった。それは決してあてずっぽうの勘ではない。それだけではあるはずがないと確信すら抱いている。だが、そのことを人に明かすことはなかった。どうせ記事にしたところで根拠はない。それに、もはや三浦に記名記事を書く場はなくなっていた。
ただ、三浦は、あの事件の渦中にいたからこそ、江口俊雄が公判で語った言葉にはまだ、秘めた本心が語られていないと感じてならないのだった。
あれから三年になろうというこの夏がはじまった頃、編集部の三浦宛てに江口俊雄から手紙が届いた。時候の挨拶にはじまり、刑務所での暮らしぶりを淡々と綴る中に、目を引く一文があった。
(あの日のことで、三浦さんにお伝えしたいことがございます)
その言葉こそがこの手紙を送った理由だと悟り、三浦はすぐに返事を書いて面会を求めた。俊雄はその返信に、面会日を妻の命日――つまり金尾誠一郎殺害事件の日に指定した。
三浦はこの千葉刑務所に来るまでにも、俊雄の手紙を何度も読み返している。面会までのひと月あまりの間に、彼が何を語ろうとしているのか考えを巡らしてみるのだが、やはり結論はいつも同じで、真実は当人の口から聞くしかなかった。
「いただける時間はあまり多くはありませんので――」
そう言いながらも俊雄は落ち着かなそうに体を揺らし、すぐには口を開かなかった。三浦は身を乗り出して通声穴にささやいた。
「あの日の事件のことで何か私に話したいことがある――そういうことでしたよね」
すると俊雄は、また最初のときのと同じ笑みを浮かべた。そしてやはり、すぐにその照れ笑いを消した。
「ええ、家内のためにも」
それから江口俊雄は訥(とつ)々(とつ)と語りはじめた。
「私どもの息子――和也は、大変な罪を犯しました。何をもってしても償うことなど到底できない、深く、重い罪です。そして私ども夫婦は、その狂人を育ててしまった親ということで、世間の誹りを受けるのは当然のことだと覚悟をしておりました。
人によっては住み慣れた土地から逃げ出して、素知らぬ顔をして別の土地で暮らす者もあると聞きます。ですが、私どもは逃げるつもりはありませんでした。息子に代わって、私どもで受けられる罰ならどんなものでも受けようと考えておりました。
ただ、蓄えはほとんどありませんでしたので、どの被害者の方たち、どのご遺族の方たちにも、ご満足頂けるようなことは何一つさせていただいておりませんでした。ええ、謝罪ひとつ、線香ひとつ上げさせてもらえませんでした。
三浦さんから最初にお話をいただいたとき、私ども家族のことを御本にしていただければと思ったのも、それでいただけるお金で何か償いとなることができればと――いえ、もちろん、お金などで償えるなどとは思ってはおりません。それに、私どもを取り上げた本で得たお金など、被害者やご遺族の方々にとっては何よりも忌むべきものにちがいありません。
いえ、この世のすべての人々にとってもそうでしょう。私どもが息子の事件のことで金銭を得るなどと言語道断、恥ずべきことだと、私どもも重々承知いたしておりますから。
ですからはじめは、そのお話はお断りさせていただいたんです。何か、やはり――いえ、絶対間違っていると。私どもに唯一できることは、ただただ逃げ出さないことだけ、被害者の方々、ご遺族の方々のお気持ちを、どうにか、どうにか受け止めさせていただくことだけでした。息子が起こしたあの事件以来、私ども夫婦は、そのつもりで生きてきた次第でございます。
ただ、あの日のこと――金尾誠一郎さんと会うというお話は、やはり、どうしてもお断りすることができませんでした。なぜなら金尾さんもまた、息子が起こした事件の当事者、計り知れないお心の苦痛を私どもの息子が与えてしまったおひとりだからです。会いたいとおっしゃれば、私どもには断るような勝手など許されるはずが――え? ちがうのですか? あれは三浦さんが? そうですか、やはり――金尾さんが訪れたとき、そんな気はしておりました。あの会合は、金尾さんの本意ではなかったと――それであんな目に。いやはや、あの方にとってはとんでもない災難でしたね」
俊雄は言葉を切ると、低く笑った。その目は三浦に向けてひたと据えられ、三浦は心中をのぞきこまれたような気がした。だがすぐに、俊雄の目つきはもとの穏やかなものに戻った。
「あの日――あのとき、線香をあげさせてほしいという金尾さんのお心に、私はいたく感銘を受けました。なにしろ人様に線香をあげていただくなどはじめてのことでございましたから。
ただ、金尾さんは、息子の仏前で突然お怒りになった。もちろん、あの方のお怒りはもっともだと、いまでは思っております。あのようにひどく取り乱させるほど、息子の狂気は金尾さんのお心を傷付け、死んでもなお掻き乱し続けているということの証なのでしょう。大変お気の毒だと思っております。
息子は狂人と成り果てた、私ら夫婦の知らぬ間に――と、親である私がそんなことを申し上げたら無責任でございしょうか。私ども親の至らなさが息子を狂人に育て上げたのだと、そんなご指摘を受けたこともございます。私どもはそのことを否定はしません。あの日まで、私どもは――あの日までの息子の育て方、接し方を思い出し、反省を続けてきました。
何が原因となったのか、私どものどの行動、どの言動が息子を狂わせたのか。深く、深く考えると、私ども夫婦の行いすべてが、あの出来事の元になったのだとまで思えてきました。あの子をこの世に産みだしたことが間違っていた――そもそも私と家内が夫婦となったことが――いえ、それどころか私や家内が生まれてきたことが――何が端緒かなどわかりません。すべてが過ちだったのだとしか思えてなりません。なんにせよ、息子がああなってしまったからには、私どもは自分たちすべての行いが、すべて知らずうちに過ちを犯してきたとして、ただただ猛省してきました」
俊雄は頭を垂れた。薄く白くなった頭や肩が三浦の目の前で震えだした。三浦は辛抱強く待った。俊雄の背後に控える刑務官は身動ぎ一つしなかった。やがて、嗚咽の呻きがおさまった。
「すみません。私としてはここでの暮らしのうちに少しずつ昇華してきたつもりでしたが、やはり、家内のことを思うと――家内はあの無念を胸に抱いたまま死んでいったものですから」
「無念、ですか」
三浦はその言葉に違和感を感じた。そのとき、俊雄は体をぶるっと震わせた。その顔は険しく歪んでいた。
「ええ、無念です。あの男は――金尾誠一郎は、私どもの息子を、何度でも殺してやると言いました」
三浦はあっと思った。俊雄は続けた。
「あの男にとっては、私どもの和也は、たんに殺人鬼となった一瞬だけの存在でしょう。たしかに、そんな和也は殺されても仕方ありません。ですが、私どもにとっては、そのほんの、たったその一瞬に至るまでは、私どものかけがえのないたったひとりの息子だったのです。家内の身になって考えてみれば、十月十日(とつきとおか)かけて腹の中で育み、そして腹を痛めて生み、さらに自分の人生の半分以上をかけて、心身込めて育てあげた我が子なのです。
親だからこそ、他の誰よりも、悪に走った我が子を憎み、叱責しなければならない。子の罪を親が真っ先に許してしまうことほど醜悪な親子愛はない――そんなことは重々承知しております。狂人と成り果てた息子を許す気は、私どもには毛頭ありません。いまでも息子の罪を憎しみもしますし、恨んでもおります。どうしようもないヤツだったと失望もしています。あの事件の現場にいたら、私のこの手で息子を殺していたでしょう。あの場で死んでいなくても、誓って私が和也をこの手で殺していたでしょう。家内も同じ思いでいたはずです。
ただ、そうなる前の和也――三十年あまりの年月の間、和也はやはり愛する我が子でした。目をつむれば、いくらでもその年月を振り返ることができます。慈しむべき我が子の、無数の瞬間の姿をまぶたの裏に、まるでいまでも生きてそこにいるかのように思い浮かべることができます。あの子供の頃の写真など、それこそ数限りない私たち一家の幸福そのもののほんの一瞬のものです。それなのに、あのあどけない笑顔の和也まで、憎まれ、蔑まれるいわれはありません。ましてや、何度でも殺してやるなどと――」
江口俊雄は言葉に詰まった。やがて眉間の皺を解いて淡々と切り出した。
「家内が自分で自分の喉を突いたのは、無念のあらわれだったのだと思います。家内は、我が子の行いを、誰よりも憎みも恨みもしておりました。同時に、その憎しみも恨みも自分に向けられるべきものとして、あれは受け止め、苦しみ、必死の思いで堪えてきました。
許されるものなら――いえ、たとえすべてが許されなくても、ほんのわずかでも罪が贖えるなら、私どもはなんでもしたでしょう。現に、私どもはなんでもしようとしました。ですが、どなたにも受け入れられることはありませんでした。私どもには、贖罪の道はどこにもなかったのです。殺人鬼と化した息子、それを育てた親――私どもは息をすることさえままならなくなりました。
そしてあれは、あのときついにたがが外れてしまったのだと思います。あの男の言葉――世間があの事件の英雄と認めたあの男の言葉に、ひどく絶望したにちがいありません。
『何度でも殺してやる』。
我が子が何度も何度も殺されることを想像して、平気でいられる親がはたしてどこにおりましょうか。けれども、私どもはもはや我が子を守ることを許されない。和也は殺されても文句の言えない狂人と成り果てたのですから。私どもは何度も何度も我が子が殺されるのを黙って見ていなくてはならない。だとしたら、あれの人生は、和也を育てることに生きがいを感じていたあのすべての時間は、一体何だったというのでしょうか?」
三浦は答えられなかった。だが、俊雄は答えを求めているわけではないようだった。
「あの男が言い放った言葉は、もうほとんど尽きかけていた家内の生きる気力の最後のひとすじを、ごっそり削ぎとっていったのだと思います」
そこで言葉を切ると、彼は一つ大きく息をついた。
「私にはもう何一つ残されておりませんでした。家内は私の目の前で息絶え、当然のことではありますが、やはり息子も決して許されることはないのだということを、体の芯に、骨の髄の髄に浸み入るほどに確信いたしました。私もまた家内と同様に、ひどく絶望しておりました。私に残された道は、家内と同様、無念を抱いて家内の後を追うか――あるいは家内を死へと追いやり、息子をまだ殺し足りないと宣う男に一矢を報いるか――」
「金尾誠一郎を殺したのはほんの一時の衝動ではなかったんですね」
江口俊雄は決然とうなずいた。
「もはや誰の誹りも恐れはしません。家内が最期の最期になって、息子の大罪を背負うばかりの母親などではなく、和也という唯一無二の我が子の母親に立ち戻ったように、私も最後には、やはり父親であろうとしたまでです。あれが息子を想って死を決意したのなら、私はあれとともに、息子を守ると心に決めたまでです――あの男に、金輪際、私の家族を殺させやしません」
7
(あれはもう治らんな――)
三浦は壁の外の空気を吸い込むと、ジャケットの襟に縫い込んだ小型のレコーダーのスイッチを切りながら苦笑した。レコーダーにイヤホンを挿して再生すると、江口俊雄の声が流れだした。
江口俊雄はあのときすでに狂っていたのだ――そして、いまだに。
何かに取り憑かれているような目つきをしていた。それが生来のものなのか、江口和也の事件からのものなのか、それとも金尾誠一郎を殺したあの瞬間にはじまったものなのかはわからない。ただ、常軌を逸していることは疑いようがない。
ただ、いま再び江口俊雄の声を聞いていて、三浦はふと思うことがあった。もし彼の言葉にこそ真理があるのだとしたら――つまり、江口俊雄には江口俊雄なりの正義があるのだとしたら? そう考えてみると、途端に、三浦はこれまで自分はひどく思い違いをしてきたのではないかという気がしてきた。
三浦ははたと思い立ってICレコーダーの再生を止めた。そしてメモ帳を取り出すと、開いた新しいページに「正義の所在?」と書き込んだ。だがすぐに「?」を塗りつぶした。
(これ、イイんじゃねえか?)
三浦は、思い付いたばかりの文句が三年ぶりの記名記事の見出しになっていることを想像して、思わずほくそ笑んだ。
再びレコーダーを再生させ、耳に江口俊雄の声を流しはじめた。聞きながら無意識に鼻歌をうたっていたことに気付いて三浦は驚いた。頭の中では、すでに今日のこの取材を軸にした新しい連載記事――ゆくゆくは一冊の本に、センセーショナルなベストセラーになるだろう――の構成が勢いよく、しかし整然と組み上がっていくところだった。
了
正義の所在 骨太の生存術 @HONEBUTO782
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